由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

教育的に正しいお伽噺集 第三回

2015年05月16日 | 創作

Maleficent, 2014, directed by Robert Stromberg

5 理想の妻
を得るためにはどうしたらいいだろう、とたいていの男は一度は夢見るものです。ピグマリオンがその夢から踏み出したのは、世界一の金持ちだったからです。ほしいと思ったものをたいてい手に入れた挙げ句、とうとう男にとって究極の野望の一つに手を出してみたくなったわけです。ただし、そのときにはもう、生身の女ではとても無理なことは経験上わかっておりました。そこで、ロボットを作ることにしました。
 まず、見た目。数え切れないダメ出しの結果、どうやらこれで理想だ、と思える美女の姿形はできました。そのロボットはピグマリオンがそれまでに知った女たちに少しずつ似ていたかも知れませんが、そんなことは忘れられるぐらいに完璧でした。
 彼女(便宜上こう呼んでおきます)にはオラピアという名前がつけられました。
 次には、中身です。誰にでもすぐに予想がつくでしょうが、こちらのほうがずっとやっかいでした。
 誰にでも予想のつくことは、オラピア制作を請け負った自称世界一のロボット技師コッペリウスも予想しましたので、まずこう切り出してみました。「何も言わない美しい人形、というのはいかがでしょうかな」
「そんなことを言って、手を抜こうとしてるんじゃないのか?」と、ピグマリオン。
「とんでもございません。中身がわからないので、あれこれ想像している方が、いつまでも憧れの、新鮮な感じが保てる、ということもあろうかと思いまして」
「馬鹿を言いおって。中身がわからない、じゃなくて、ないんじゃないか。それがわかっているものに、どうして憧れたりするものか。
 それに第一、若造でもあるまいし、女に憧れる、という年でもない。ワシがほしいのは遠くから見ていて胸がときめく美女ではなく、いっしょに過ごしていて心地よい伴侶なんじゃ」
「はあ」と溜息をついたコッペリウス「そうなりますとやはり、従順な女、ということになりましょうな」
「まあな。しかし、ただ従順なだけではそのうち飽きがくるなあ」と、ピグマリオン。
「では、時々は反抗的なほうがよい、と。それはどれくらいの頻度がよろしいでしょうか? 週に一度とか、月に一度とか、あるいは……」
「いや、待て。ただ機械的に決められても困るぞ。こちらの調子もある。ワシの虫のいどころが悪いときに逆らわれたんでは、すっかり逆上して、壊したくなるかも知れん。そんなことになったら、大損だ」
「お任せください。オラピアには、ご様子からご気分のほどを判断できるセンサー機能を搭載します。それで、ご機嫌がお斜めのときには大人しく、退屈だから少し刺激がほしいかな、と思っておいでの時には、少し逆らったり拗ねてみせたりする、とこういうふうにいたしましょう」
「ふん。ワシの顔色を読むというわけか。そういう小賢しい女は、きっと鼻につくぞ」
「その点は御心配には及ばないかと。オラピアには、あなた様をうまく操って自分の満足を得ようとするような邪心は全くございません。ひたすら、あなた様のご満足のためにだけ、ご機嫌をうかがいますので」
「なるほどな。邪心はなからろうよ、だって心がないんだから。そう見えるものは全部お前があらかじめ仕込んでおいた見せかけだ。つまりは、オラピアではなく、お前の小賢しさに鼻を突き合わせねばならんというわけだ」
「ええと、そうおっしゃるなら、ファジー機能をつけましょう。そうすれば、もちろんあなた様を本気で怒らせるようなことがない範囲で、この私めにも予想のつかない突飛な言動を、稀にさせるようにもできますので」
「どんな予想もつかないことかは知らんが、それを起こさせるのはやっぱりお前だ。つまり、予想もつかないことが起きることはちゃんと予想している。いや、知っている。その話を聞いたワシもまた、知っている。何か白ける話だとは思わんか?
 『だって機械なんですから』なんて言うなよ。並の機械なら並の技師に任せておる。ワシが世界一のロボット技師だと言うお前に期待しているのは、機械であることを忘れさせるぐらい完璧な機械なのだ。それを忘れんようにな」
 コッペリウスはこの難問を解いて、ピグマリオンを満足させることができたのでしょうか。それは私などにはそれこそ予想もつかないことです。

6 また森の中で
少女はゆっくりと目を覚ましました。目に入るものはすべて同じ灰色の木でできた壁と天井と床、壁には窓はなく、外の様子は見えません。小さなドアが一つあるきりでした。
 少女は一度、そのドアから外をちらりと見たことがあるのは覚えていました。それはずっと昔のような気も、つい昨日のような気もして、はっきりしないのですが、ともかく、彼女以外の誰かがここにいたのです。その人がドアから外へ出かかったので、彼女もついて行こうとしたのでした。するとその人はぴしゃりとこう言ったのです。
「あなたは出てはいけない。森の中にはいろいろなものがいる。綺麗な花やいい声で鳴く小鳥たちもいるが、恐ろしいオオカミもいるんだ。その他、わけのわからないものがいろいろいと。直接見るのはあなたにはちょっと早すぎる」
「でもいつまで、私はここにいればいいの?」
「たぶん、そんなには待たせないと思う。ともかく、私がまた来るまでは、ここを動いてはいけないし、誰かが来ても、ドアを開けてはいけない。わかったね」
 そう言うとその人はすばやく外へ出ました。再び閉ざされたドアの向こうから、こんな声が聞こえました。
「ああ、それから、森の中のいろんなものがいろんなことを言うだろう。それを聞いても、信じてはいけないよ。みんな嘘つきなんだから」
 それからその人は行ってしまったようです。だからここは森の中なのです。少女はその人を待っていなければならないのです。この二つだけが彼女にわかっていることでした。
「いろんなものがいろんなことを言う」。この言葉を思い出して、少女は思わず呟きました。すると、小鳥たちの囀りが聞こえてきました。いえ、それは以前からあって、少女が気づかなかっただけなのでしょう。今、少女はじっとその声に耳を傾けました。すると、それがだんだん、意味のある歌のように聞こえてくるのです。
 あの娘は目を覚ましたのかい? わかるもんか
 目を覚ました夢を見ているだけなのかも
 あの娘はここにいるのかい? わかるもんか
 誰かがあの娘になった夢を見ているだけなのかも
「それは私のことなの」と少女は心の中で尋ねてみました。答えるのはもちろん自分自身です。「わかるはずないわ。私がもともと誰かなんて、私にもわからないんだから」
 その時、外からドアをノックする音が聞こえました。少女が答える前に、声がしました。
「もしもし、娘さん、ここを開けてくれんかね」
「なあに? なんの用なの?」
「ははあ、その返事だと、あくまで女の子に化けるつもりなんだな。それとも、もっと完璧に、自分でもすっかりそのつもりになってしまったのかね」
「すると、私は女の子ではないの?」
「当り前だ。女の子だったら、どうしてあんたの目はそんなに大きくてギラギラ光ってるんだね? 口だって大きくて、歯がものすごく鋭いのはなぜなんだい?」
「わからないわ。ここには鏡がないんだもの」
「それじゃあ腕を見てみな。毛むくじゃらじゃないかどうか」
「いいえ、スベスベしてるわ」
「そうか、さては毛をむしって、チョークでも塗りたくったな。それとも、女の子の中身をみんな食っちまって、皮だけ残して、それを被ってるんじゃないのか?」
 少女は黙ってしまいました。
「どうした? 図星を指されたんで、何も言えないんだろ?」
「あなたの言うことって、何が何だか全然わからないわ。まるで森の中の獣が吠えているみたい」
「なんだと、獣はお前だろ。いいからここを開けろ、そしたら俺がお前に、本当のことをわからせてやるから」
「そんなの、知りたくもないんだわ」と、少女は、もう相手に聞かせる気もなく、口の中で呟きました。
 するとどうでしょう、さっきの小鳥たちのときとは逆のことが起こったのです。外から聞こえてくるのは人間の声ではなく、オオカミか何か、恐ろしい獣の咆吼になりました。そしてその恐ろしいものは、何度もドアに体当たりしてきたようです。家全体がガタガタ揺れました。少女は両手で耳を塞ぐと、じっと蹲っておりました。
 ドアはなんとか持ちこたえました。やがて騒ぎが収まって、あたりはすっかり静まりました。少女は立ち上がると、自分にこう言いました。
「あれはあの人だったのかしら。わからないわ。どっちにしろ、私が受け入れられる『私』を持ってきてくれたわけじゃないようだから、入れるわけにはいかない。私は、まだ待たなくては」
 こうして、少女は待ち続けました。とても長い間、以前にお話しした、少年とその妹とが迷い込んで来るまで。

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国家意識について、小浜逸郎さんとの対話(その2)

2015年05月01日 | 倫理
 《小浜逸郎氏から由紀草一へ》

由紀草一さんへ、ついでにW.H.さんへ (小浜逸郎)2015-03-28 23:35:48

 お返事を書かなければ、と思っているうち、とうとう一ヶ月以上が経ってしまいました。忙しかったから、というのは言い訳になりません。どうお返事してよいのか戸惑っていたというのが正直なところです。

 そうこうするうち、W.H.さんからも、この『永遠の0』問題についてのコメントが届き、さらにそれに対する由紀さんのお返事も書かれてしまいました。もうずるずる引き延ばすわけにはいかないなと決断して、以下に思うところを遠慮せず率直に述べます。お気に障ったら、どうぞお許しください(これは、W.H.さんへの呼びかけでもあります)。

 まずなぜお返事をためらっていたのか、その理由ですが、次の通りです。

①何回も読み直しましたが、由紀さんの文章は、私の読みでは8割以上、私の見解に賛同してくれているように思われるので、私に対する違和感の所在がなんであるかが判然としないところがありました。これはもちろん、お前に読解力がないからだといえば、それまでですが……。

②それでも、読み返すうち、ほぼこのあたりに違和感を感じていらっしゃるらしいということが見えてきました。それはだいたい次の2点に整理できそうです。

 a. 小浜は、「生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きるという理念を核心に置き、その理念が実現する限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認するという考え方」をすべきであると書いているが、これは、「家族など、身近な者たちのためになるなら、国家のためにも戦おう」という意味だと一応考えられる。しかし近代国家はでかすぎるので、これを一団として機能させようとしたら、人情とは別の原理が必要である。「公」と「私」の分裂は、まずこの単純な事実から生じたのであって、それを統一しようというのは無理であろう。つまり「公」と「私」の分裂は、人間の生き方に宿命的に付きまとうものであって、それを克服しようなどと考えること自体が不可能である。
 
 b. 小浜は、「倫理的な問いを、特定の状況に置かれた個人の『心理』としてとらえるのではなく、どうすれば限界状況的な境遇に多くの人を追い込まずに済むか、というように視線変更する必要がある」と書いているが、限界状況を設定してそれについて考えることには意味がある。なぜならそれは人間の根源的な不完全さが鮮明に浮かび上がった状況であり、だとするならそこにはモデルケースとしての普遍性があるからである。我々はどんなよくできた国家の下で、いくら幸福な日常を送っているように見えても、そうした状況にいつ何時直面しないとも限らない。現にわれわれが戦争がもたらす不幸について思いを致すのも、そのことが了解されているからこそである。その了解は、いわば文学的な了解、つまり福田恒存の言う「一匹と99匹」の「一匹」の問題であって、どんなすぐれた政治的な営みも、これを解決することはできない。小浜は、そういう人間の根源的な不完全さに対する感度が甘いのではないか。

 このように由紀さんの「違和感」を整理してみた時、その指摘に対する私の違和感はさほどなく、それ自体としては至極もっともであり、反論すべき理由はないように思えたのです(ただし、思考のスタイルやアングルに関してはどうしても違いがあるようなので、これは後述します)。

③このサイトのタイトルを由紀さんは、「国家意識について、小浜逸郎さんとの対話(その1)」としていますが、私は率直に言ってこのタイトルに引っかかるものを感じます。というのは、このタイトルでは、由紀さんと私との間で、ブログ上での対話(往復書簡のようなもの)を続けてやっていこうという合意があらかじめあったかのように読めるからです。なるほど私は、自分のブログでの先のコメントで、「またお話ししましょう」と書きましたが、それは一種の挨拶のようなもので、ブログ上での対話を続けようという具体的な提案ではありませんでした。
 私は別に怒ってなどいませんが、このタイトルのつけ方には、付き合い上のルールとして、やや「非礼」があるのではないかと思います。そのことが、私にえっ、ずっと続けなきゃいけないのかなあといった多少の心理的圧迫感を与え、お返事をためらわせた理由の一つにもなっていたようです。

 以上ですが、それでは次に、上記②で述べた2点についてお答えします。

 まずa.について4点。

①私が上記のように書いたのは、国家あるいは公共性の人倫とは、いかなる条件を備えるべきかという文脈においてであり、それは「倫理の起源」というシリーズの最終項にあたります。倫理学という思考スタイルにしたがう限り、よい国家とは何か、という問いに対する論理的な回答がどうしても要求されるはずで、そこでは、一定の図式的な記述を避けるわけにはいきません。もっとも「奉仕を承認する」という言い方に、個人の態度を問うているかのような誤解の余地があったことは認めます。そのため、由紀さんの言い換えのように、「家族など、身近な者たちのためになるなら、国家のためにも戦おう」といった、個人倫理の表明として解釈される余地があったのでしょう。しかし私の真意は、あくまで「実存的な生の充実のためにこそ、国家はあるのだ」という考えを強調する所にあります。その点で、由紀さんのお考えと一致するのではないかと思っております。

②しかしなお、、私の、「生活を共有する身近な者たちがよりよい関係を築きながら強く生きるという理念を核心に置き、その理念が実現する限りにおいてのみ、国家への奉仕も承認する」という考え方」を、「家族など、身近な者たちのためになるなら、国家のためにも戦おう」という意味だというふうに言い換えてしまったら、それは、国家のあるべき姿をネガティブに限定したはずのロジックが、むしろ国家への個人の奉仕精神をポジティブに意味づけるロジックへと転換されてしまうことになるでしょう。それはむしろ、由紀さんにとっても、不本意なことなのではないでしょうか。

③「近代国家はでかすぎるので、これを一団として機能させようとしたら、人情とは別の原理が必要である。
」とありますが、これはまさに私が『倫理の起源』52および53で、愛国心について説いているところとほとんど一致します。もしよろしければ、もう一度ご参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/3230a1bbb6bdfc08be242776ea8d2124
http://blog.goo.ne.jp/kohamaitsuo/e/76d56535d628db5c7fb0cf8a79603917

④「公」と「私」の分裂は、人間の生き方に宿命的に付きまとうものであるという由紀さんの考え方は、b.にもつながるペシミスティックな人間観ですが、その人間観を批判するつもりは私にはありません。それはまさしく『永遠の0』における宮部久蔵の悲劇が示して余りあります。ただ、そういう悲劇の意義(悲劇に感動する私たちの心の由来といってもいい)をよく思想的に吟味するなら、そこには、悲劇を何とか克服したいという私たちの意志と欲求とが横たわっているのが見られるのではないでしょうか。あるいはむしろ、悲劇に対する感動を通して、私たちの生への意志が初めて発動するのだと言い換えてもよい。悲劇に対する感動は、それ自体としてはけっして欣喜雀躍するような質のものではないのですから。

 これは、W.H.さんにも言いたいところですが、あり得ない絵空事や奇跡が描かれているとか、リアリティがないとかいったことは、その作品が不出来であることの条件にはけっしてなりません。ここでは深く踏み込みませんが、多くの人がなぜ「絵空事」に感動するのか、その理由を芸術批評の本質的な問題として考えてみる必要がありそうです。

 なお私は、W.H.さんが書かれているように、『永遠の0』が「お国のために」死んでいった多くの人たちの抱えた矛盾を「解決」したなどと一言も言っておりません。戦後的価値観(左派進歩主義に代表されるもの)と戦中的価値観(懐旧型保守層に代表されるもの)との百八十度の対立の問題が、宮部久蔵という主人公の造型のうちに、あくまでフィクションの次元で止揚・克服モデルとして示されているといったまでです。この主人公が実際にはありえないスーパー・ヒーローであることを、私は何度も断っています。しかしそれは、大東亜戦争の評価をめぐっての、戦後言論界の不毛な左右対立を乗り越えるきっかけを提示したという意味で、この70年間のなかで新しいことだったのです。

 次にb.について。

 ここでも、先に述べたことと同じことを言わなくてはなりません。限界状況の思考実験には普遍的な意味があるということそのものには同意しますが、それはあくまで文学思想の内部で追究すべきことであって、公共体または国家の倫理がどうあるべきかという問題枠組みの内部にそれを取り込もうとすると、的を外してしまうと思います。大岡昇平の『野火』や竹山道雄の『ビルマの竪琴』は、こういう問題を追究したきわめてすぐれた作品ですが、でも、そのことと、「なるべくよい社会にするにはどうすればよいか」という思想課題とは、区別されてしかるべきでしょう。それこそ、一匹と99匹との問題です。しかもまずいのは、限界状況モデルばかりを乱発すると(とかく倫理問題を考える時はそうなりがちなことは、由紀さんも認めていましたね)、文学的な(個人の生き方にかかわる)思想課題だけが倫理学のすべてだと錯覚しやすいことです。
 普通の政治的な営為には? 一国の経済運営には? 家庭生活には? 倫理学は必要ないのでしょうか?

 最後に、W.H.さんにひとこと。全体に、由紀さんと私との思想の共通点を丁寧に見出して、その面を評価してくれていることには、感謝します。ただ、以下の部分――
「それに対し由紀さんは、『家族、愛する人のために』という思いが『国のため』へとつながっていく、そうした、ある意味で幸福な直接性は近代国家の戦争においては難しい。実際には若者は、巨大な国家というものを前にして、個々の人生をどうそれに調和し整合させていったらいいのか解決がつかなかったろう」という部分ですが、この「それに対し」というのは、私がまるで、ここに書かれたことを考えてこなかったかのように読めます。繰り返しになりますが、まさに私は『倫理の起源』シリーズにおいて、人生における様々な局面で、こうした解決困難な矛盾が、従来の倫理学(カント、儒教、和辻倫理学など)では問題にされてこなかったことを最大のモチーフの一つとして追究してきました。優先権を争うような愚かしい轍を踏もうというのではないですが、もし未読でしたら、W.H.さんに、拙稿を詳しく読んでみてくださいとお勧めするほかありません。

 以上、いろいろと失礼を申し上げました。


 《由紀草一より小浜逸郎氏へ》
 御論にからんで勝手にいろいろと申し上げた結果、いらぬご心労をおかけしたようで、まったく申し訳なく思っております。今回はせっかくご回答いただいたことに関して、一番言いたかったことを述べます。

御回答のa.について
 私は要するに、「実存的な生の充実のためにこそ、国家はあるのだ」という言い方に違和感が持たれたのです。まるで国家が国民の安定した生活以上の、内面的なところまで踏み込めと言っているように読めますから。小浜さんの真意はそういうことではないと理解していますし、「倫理学という思考スタイルにしたがう限り、よい国家とは何か、という問いに対する論理的な回答がどうしても要求されるはずで、そこでは、一定の図式的な記述を避けるわけにはいきません」と言われると、それまでかな、とも思いますが。でもやっぱりこだわり捨て難く、それは奈辺にあるのか、御迷惑ながら、今一度開陳します。以下、三つに分けまして。

(1)統治機構としての国家を考えた場合、その究極の目的は、小浜さんのおっしゃる通りで、まちがいないと思います。民生を安定させること、それがある程度達成されたら、保ち、さらに拡充するように努めることです。誰もが暴力や飢えの危険から免れている社会、そして、ささやかな「生きる喜び」を追求することができる社会を目指す、それは常に、「国威の発揚」などより上位に置かれるべきである。小浜さんは、善を「日常生活における秩序と平和が保たれている状態を指す」(「倫理の起源 63」)のだとおっしゃいますので、上は政治の目指すべき最高の「善」だということになるでしょう。
 もちろんこれだって、完璧な達成は期し難い事業なのですが、私はどうしても次のことが気になるのです。ではいったい、権力の必要性はどこから出てくるのか? 権力という言葉を、ここでは簡単に、「ある人や集団に、好むと好まざるとにかかわらず、あることをさせたりさせなかったりする力」と定義します。家族のような最小の共同体から国家という最大のものまで、そう呼ばれてもいいものは必ずある。それは共同体の安寧秩序を守るために必要だと考えられてきた。なぜか。
 これについて長々と述べるのは、拙ブログの「権力はどんな味がするか」シリーズなどでやることにして、やはり簡単に申します。なぜ権力が必要か? それは共同体全体の利益のために、ある特定の個人・団体が犠牲になるのを忍ばなければならない場合があるからです。
 大げさな話ではありません。例えば、「ゴミ処理場の建設が必要なことはわかる。が、自分の住居の近くには作ってほしくない」というような要求はわりあいと一般的なものです。もちろんこの要求が完璧に達成できるわけはない。ゴミ処理場が地域社会にとって本当に必要なら、住民の一部には我慢してもらわなければならない。【あるいは、次のような解決策も考えられます。誰も住んでいない山奥にゴミ処理場を作って、その分輸送費が高くつくが、それは住民全部から公平に徴収すれば、特定の誰かにだけ犠牲を強いるということはなくなる、と。これは不満を金に代え、分散することによって目立たなくするということで、うまいやり方かも知れませんが、不満そのものが消えるわけではありません。】
 私の考えでは、こういうとき行政側の最低の対応は、「そりゃつまり住民エゴというものだ。みんなもっと公共心を持たなくちゃいけない」などと説教することです。エゴが消えるわけはない、というか、もともと、それを前提として、政治の必要性が出て来るのですから。「エゴを捨てろ」などと統治側が言うのは、自己否定に等しいのです。
 つまり、こうです。普通の人は誰しも自分の身近なところにしか目がいかない。そして、身近な幸福をできる限り守り、さらに拡充しようとする。ごく自然なことです。また、それこそ倫理の根底である、という小浜さんのお考えには全く異論がありません。
 ただそれが、何か他のものを犠牲にしてでも、にまで至れば(積極的にそうするというより、知らないか、知らないふうをするか、が多いでしょう)、エゴイズムと呼ばれものになる。が、人は、これまたわりあいと自然に、そうなりがちなものです。それに思い至るなら、社会全体を見渡して、その利益、いわゆる公共の福祉のために、他に手段がないなら、強制的に住民を従わせることができる機関もまた、遺憾ながら必要である、と納得されるでしょう。
 同時に、その権限は、当然限定されるべきものなのだから、「実存的な生」に関するところなどには踏み込まない、そういう節度も、「公的なもの」が弁えるべき大事な「倫理」だ、とも納得される、のではないでしょうか。
 私にとって、公と私のイメージはさっとこのようなものです。だからこの次元の違いが「克服される」なんて原理的にあり得ないのだし、あり得ないと思うことはいかなる意味でも「ペシミスティック」と呼ばれ得るはずはないと考えます。

(2)もう一つ、前回も述べましたことを上に合わせて言い直します。小浜さんのおっしゃる「戦中的なイデオロギーと戦後的なイデオロギーとの妥協不可能な対立」とは、私から見ると次のようなものです。戦中は、戦争遂行のために、個々人のエゴイズムはすべて捨て去ることが求められた時代だった。戦後は価値観が反転して、それこそ国家悪であり、このような巨大な悪をなす統治権力に反対することこそ正義であると、主に知識人と、その予備軍気取りの学生からはみなされるようになった。
 どちらも一方のエゴイズムを糾弾することによって、自分の側のは見ないようにしているのですから、妥協点が見つかるはずはないのです。繰り返しますが、政治に必要とされる技術はエゴイズムをなくすことではなく、エゴイズムを調整するところにある。戦後日本だって、政治が、統治がある以上、それは現になされています。それを悪しき強力な権力対善なる無力な庶民、の見取り図でわかりやすく見せようとして、欺瞞的な言を繰り広げてきたのが、戦後の知識人などの生態なのです。
 もちろん彼らにも言い分はある。人間ならば誰でもエゴイズムがある。私のような名もなき庶民にも、時の為政者にも。それを抑えようとした場合、普通に言って前者より後者のほうがずっとたいへんなのは事実です。民主主義はそのために、三権分立を初めとする多くのチェック機能を備えているはずであり、またそれが唯一の取り柄なのですが、今までちゃんとうまく機能してきた、とは到底言えない。それは、チェックのための批判精神が足りないからだ、と彼らは言うわけです。
 一理あります。権力者にダマされまいとする心構えはあったほうがいい。しかしそれにしたって、統治者側に過剰な要求をするのは控えたほうがよろしい。住民・国民の全員に、100パーセントの満足を与える施策、とか。なぜなら、過大な要求に応えるためには過大な力が必要とされますから、こういうことは権力の強化に結びつくからです。以上は、渡辺京二『近代の呪い』中で最も感銘を受けた指摘であり、小浜さんも同意するところだろうと思います。「対話」ということからは逸脱でしょうが、またしてもこだわりやみ難く、つい申し上げてしまいました。

(3)それでも、共同体が、単にそこで暮らす人々の利害を調整するためにのみある、とは決して言えないでしょう。普通の人なら誰しも家族愛や郷土愛や同胞愛や愛国心をいくらかは持っている。普段は特に意識することはなくても、例えば私でも、日本が貶されるのを聞けば、自分が直接貶された時のような不快感が持たれます。
 即ち、自分の属する共同体とは、「自分」を包み込んでいるのと同時に「自分」の一部であり、「実存的な生」を構成するのにも不可欠な要素である。そうでないとしたら、上に述べた「利害の調整」にしても、いかなる智恵者の高等テクニックをもってしても、うまくいかないでしょう。私はただ、施政側が最初からそれをあてにするのはまちがいだ、と申しましたので。
 これを言い換えると、人間には本来的に共同性が備わっている。そこから超出した「純粋な自己」などという観念を立てても無益。それは生きる人間の現実を捨象しているので、「人は、そして共同体はいかにあるべきか」についての具体的な指針である倫理を与えることはできない。しかしまた、各種の共同体、和辻哲郎の言う人倫的組織のうち、「大きいもののほうが公共性が高く、ゆえに倫理性も高い」から重要で、優先されるべきだ、などとは決して言えない。むしろ逆に、「人間が具体的に生きる共同態」を充実させること(これが「実存的な生の充実」と言われているものでしょう)を中心にして、すべてのあるべき姿が考えられなければならない。これを示し得たことが、今回の御論考「倫理の起源」の大きな成果です。
 それに異論はないのですが、今回のブログ記事のタイトルは、「国家意識について、小浜逸郎さんとの対話」ですので(いったいなんでこんなタイトルにしたのか、時間もたちましたし、議論の焦点も多岐にわたりましたので、もうわからなくなっているのですが。呵々)、これについても云々しておきます。
 おっしゃる通り、家族や故郷など、目に見えるものなら、人は愛せますが、国家なんて大きすぎるものは、観念に近いので、普通の意味で愛情の対象にはならない。しかし、これまたおっしゃる通り、特に男性は、観念的なものに惹かれがちな動物である。また、「セブンティーン」で大江健三郎が見抜いたような要素もある。「国家」と一体化したように感じたら、人間は卑小な一個人の段階を超えた、より巨大なものの化身になったように感じられる。それは自我の肥大化であり、究極のエゴイズムなんですが、「国のために命を投げ出す」覚悟が一見自己犠牲的であるため、そのことは易々と見過ごされてしまうという効果もあります。こうして戦前の日本では、二・二六事件や、血盟団によるテロが勃発しました。
 それを思うと、為政者が「愛国心教育」を推進しようとするなんて、どうなってるんだろうと思います。ファナティックな国粋主義者がたくさん生まれたりしたら、真っ先に狙われるのは彼らですのに。もしかしたら、彼らこそ、崇高な自己犠牲的精神の持ち主なんでしょうか?
 冗談はさておき、実際問題としては、人がまずまず充実した幸福な生活を送っているのなら、めったに「愛国有理」の過激なテロに走ったりはしませんので、そのためにも、国民個々の生活を第一に考える国家であることは望ましいわけです。
 万が一戦争をすることになったら、愛国心に頼るしかないのですが、それが行き過ぎないようにするためにも、目的と限界を、即ち「なんのために、どこまで、やるのか」を明確にして、無用な戦線拡大など絶対にしないように考えるしかない。これは政治の中でも最も難しい事業でしょう。それだけに、原則ははっきりさせておく必要があります。以上は御論を私なりに言い直したものになりました。

ご回答のbについて
 「倫理的な問いを、特定の状況に置かれた個人の「心理」としてとらえるのではなく、どうすれば限界状況的な境遇に多くの人を追い込まずに済むか、というように視線変更する必要がある」には戸惑いました。私が考えていたこととはまるで別のことが言われていましたので。今は、小浜さんが時期的に「公共体または国家の倫理はどうあるべきかという問題」に取り組んでいる真っ最中だったので、こういう言い方になったのだな、と了解します。
 政治は、人間をなるべく「限界状況」に追い込まないようにするべきものだ、というのはそうですね。上のコメントをいただいた拙ブログでは、ロシアのエスエル党を取り上げました。彼らの「革命のために人を殺しても、可能な限り倫理的でありたい」という意識上の困難な問題は、ロシア帝国末期の圧政がなく、従って革命の必要がなければ生じなかったものです。また、ずっと以前に記した、サルトルに相談に来た学生も、フランスがナチスドイツに占領されなかったら、「祖国のためのレジスタンスに挺身したいが、それでは年老いた母親を見捨てる結果になる。どうすればよいのか」などと悩むことはなかったなかったわけですから。
 しかし、そう言った次の瞬間に、「そういう問題かなあ」という気がしてくるのは、私だけですか? これですべて終わりだとしたら、平和日本に生まれたおかげで、彼らのような過激な政治行動に走る必要性などめったに感じずにすむ我々が、「昔の人はたいへんだったんだなあ」という以上の共感を、彼らに対して抱くはずはないのではないですか。
 これに対しては小浜さんから、「限界状況の思考実験には普遍的な意味があるということそのものには同意しますが、それはあくまで文学思想の内部で追究すべきことであって、公共体または国家の倫理がどうあるべきかという問題枠組みの内部にそれを取り込もうとすると、的を外してしまう」のだという回答をいただきました。そりゃショバが違うよ、というわけですね。私は、倫理には自分なりの興味はあっても、「倫理学の構築」などには、興味がないというより、身の丈に合わないと感じておりますので、そのへんの志の高低差に由来する温度差はどうにもならないようです。
 また小浜さんは、「倫理の起源 34」に次のように記しておられます。

 人間相互の「決断」や「行為」には、過去から未来へ向かって自己を投企するというその特質上、必然的に不信や不安がつきものである。この不信や不安は、それらが実現してしまうこと、つまり約束や誓約や信頼の情が裏切られてしまうことを予定している。そしてその「裏切られること」は、究極的には「死」=相互の別離に結びついている。だからこそ、私たちはその不信や不安を克服するために人倫精神を必要とするのである。

 つまり、可能な限り信頼を裏切ることのないような個人であり、社会であるべきである、それを心がけるのが「人倫精神」である、というわけですね。お説の通りです。しかしそれでも、人間は絶えず新たに具体的な関係性の中に入っていくものである以上、「不安や不信」が完全に解消されることはあり得ません。それを扱うのは文学であり思想であって、倫理学ではない、ということでしたら、もし別の機会がありましたら、思想家小浜逸郎に改めてうかがうしかないのでしょう。
 「何を言ってるの?」という読者のために、具体例を挙げましょう。年老いたお母さんを見捨てなければならないほどの政治的な急迫は我々にはない。一方、「仕事が忙しすぎて、十分に面倒が見られない」なら、今でもよく聞きますが、それが事実だとしたら、「もっと余裕をもって働けるような社会にすべきだという」要請が倫理的なものとして議論されねばならない、とこれは「倫理の起源 46」で言われていることです。実際には経済的時間的な余裕はあっても、お母さんを放っておく人は相当数いると思いますが、それはこの際相手にしないことにして。
 さらに、余裕があり、かつまた孝心もあって、現にできるだけお母さんの面倒をみている人でも、次のような問題を抱える場合はあります。その人が男性で、結婚したら、奥さんとお母さんの折り合いが悪く、ちゃんと面倒を見ようとすればするほど、どちらか一方か、両方に精神的な負担をかけてしまう、という場合。
 いわゆる嫁姑題で、今でもありがちですから、「限界状況」とは言えないんですが、ここに一般的な解決策はありますか? もちろん、信頼できる人に相談するのはいい。お母さんが家庭内にのみ閉じこもらないように、地域の老人向けカルチャーセンターなどを充実させるのもいいことだ。さらにボケてしまったときのために、介護施設がなくてはどうにもなりませんから、こういうのは行政の重要な仕事として、どうしてもやってもらわなければならない。
 しかし、どうであれ、家庭内でどうふるまうか、最後には自分で決断して実行しなければならない。類例なら他にいくらもあっても、個別具体的なその母・その妻・その家庭は常に唯一のものですから。これはおそらく、人類が家庭という集団を作って以来一貫して変わらなかった事実です。そして集団が地域共同体から国家へと大きくなるにつれて、具体性は見えづらくなりますが、ある個人が、常に新たな状況に直面して、不安を感じつつある決断をする、という事情は変わりません。
 文芸では悲劇と呼ばれるジャンルが主に取り上げた限界状況とは、このようなときに人が陥りがちなジレンマを、最も端的な形で表現したものです。そこに普遍性があります。主人公は自分の置かれた状況である決断をして、行動し、そしてたいては破滅という結末に至る。古代の作品だと、それは逃れがたい宿命だという説明がなされたり、さらには(舞台上では機械に乗って)天上から舞い降りた神によってそれこそ取ってつけた解決に至る場合もありますが、それは作品をまとめための口実(pretext)に過ぎず、人々の心に残るのは、結果はどうあろうと、迷いつつ前へ進まなければならない人間の姿です。人が生きる上での普遍的な困難が、そこに明瞭に見てとれるからです。
 と言ってみると、なるほどこれは「人はいかにあるべきか」を追求する倫理学には取り込めないのだな、と半分は納得されます。しかしもう半分では、このような、人の「かくある」姿を見つめる部分を含んだ倫理があってもいいのでは、とも夢想されます。夢想ですから、それで小浜さんや他の人を批判するなんてできた義理ではありませんが。

 最後にもう一つ、いや二つばかりご回答に応じておきます。
①あらためて申します。「限界状況を乱発することの危険」や「視線変更の必要」をおっしゃるのは、倫理問題は個人にのみ関わるものとされ、「正しく生きよ」なんぞというお説教ですべて終わりになる危険性を感じておられるからでしょう。「人はパンのみにて生きるにはあらず」を強調しすぎると、パンの重要性が忘れられがちになりますものね。ただ私は、それについては、上の(1)で述べた、政治の領域と個人の領域の峻別がなされれば充分ではないかと考えているのです。

②「そういう悲劇の意義(悲劇に感動する私たちの心の由来といってもいい)をよく思想的に吟味するなら、そこには、悲劇を何とか克服したいという私たちの意志と欲求とが横たわっているのが見られるのではないでしょうか」。ウーン、どうかなあ、ここには最大の違和感が持たれます。
 私の悲劇観の入口は前述の通りです。より深くは、これまた拙ブログ中の「悲劇論ノート」で展開することにしまして、入口付近の落ち葉を拾ってお目にかけますと。
 宮部久蔵タイプのスーパーヒーローのうち、世界で一番有名なのは「レ・ミゼラブル」の主人公ジャン・バルジャンでしょう。彼らは何ものも裏切らず、周囲の救うべき人間はすべて救って見せる。その意味で悲劇を克服した、男の理想です。しかし彼らの物語は悲劇ではない。人間の本源的な不条理に触れていないからです。「本源的な不条理」とは、もちろん私がそう思っているものというだけですが、その中には、「彼らのようになりたくても決してなれない」も含まれます。だからと言って、「その作品が不出来であることの条件にはけっして」ならないのはそうで、現に私もとても好きです。
 とはいえ、上記二作品には、主人公たちの自己犠牲はある。そうではなく、なんの代償もなく、悲劇的状況が丸く収まって、ハッピーハッピーだったら、さまざまな不如意感を抱きつつ日々を送る私のような凡庸なオヤジからしたら、「世の中そんなにうまくいくんなら誰も苦労しないよ」と肩を竦めるしかありません。
 一方で、「いや、現実がうまくいかないから、せめてフィクションの世界では幸せな夢を見たいんだよ」という需要も当然あります。前述の「デウス・エクス・マキナ」など、ご存じのように、安易な結末のつけ方の代名詞として、軽蔑語として使われてきたわけですが、これを逆に見れば、なんであれ「ハッピー・エンド」が見たいという願望は古代からあったということであり、文芸の専門家をもって任ずる人々が何を言おうと、どうなるものでもないのです。で、現在のTVドラマに至るまで、その手の作品は絶えることなく製造されています。まして私が何を言っても、よきにつけ悪しきにつけ、どんな影響力もないので、言うだけは言おうと思って、言っています。
 それから、乱発されると危険なのは、むしろこちらではないでしょうか。「いくらフィクションでも、こういう立派な実例が示されているんだから、それをお手本にすればいいんじゃないか」などと言って、すべての問題解決を個人に負わせるような危険性は。仮定の話ではなく、「教師がみんな金八先生を見習えば、学校はよくなるはずだ」なんて真顔で言う人は現にいます。念のために、金八のところに、斉藤喜博や大村はまなどの実在の人物を代入したって、「お手本」と考えられた時点で彼らの現実は捨象されたお話になってるんだから、同じことですよね。

 今度は短くしようと思っていたのに、余裕がなくて、逆にまた長広舌を揮ってしまいました。お許しください。愚考に対して、小浜さんのほうから「これだけは言っておかねば」ということがあるならもちろん別ですが、そうでなければ、今回の「対話」はこれまでとしましょう。特に文芸に関するところでは、これに懲りず、口頭であっても、またお話願えればと思います。
 御文運のますます盛んなることを祈念いたします。

コメント (2)
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