学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。
上は今からちょうど10年前、平成17年に出たACジャパンのポスターです。モデルは栗山千明さんですね。彼女がナレーションで語りかけているCF も、TVで何度か流れたので、覚えておいでの方もいらっしゃるでしょう。
中身は自殺防止のためのメッセージで、「身近な人に、あなたが大切だと伝えてあげてください」ということです。それを、上から直接言うのではなく、何か思いを秘めている雰囲気の若い女性に間接的に呟かせることで、説教臭さを消しているわけです。さすがにプロの仕事で、うまいもんだなあ、と感心します。
それはともかく、私はこれを見た時、「なんだ、政府の偉い人だってほんとはわかってるんじゃないか」と一瞬思ってしまいました。でも、よく考えてみれば、いくら公共の広告でも、ACは政府とはあくまで別の、会社なんですよね。
何がわかってるって思えたかと言うと、公的な制度が、「生きる力」がどうたら言っても、結局「命は大切だ。命を大切に」と何千回何万回繰り返すしかできはしない、ということです。そして、そんなのは「生きる力」にはならない、ということ。それがわかっているなら、道徳を教科に、なんて話には、なっていないはずです。
以上は道徳教育に関して私が一番言いたいことの、いわばマクラです。次には、現代日本人が自分の小学校時代を回想した二つの文章に依りつつ愚考を開陳して、拙い話を締めくくろうと思います。
一つ目は、戦前の話です。東京の尋常小学校五年生のF少年は、ある日担任のK先生に呼び出されます。K先生は若く、休み時間にも生徒たちと遊んでくれたりするので、なかなか人気があったそうです。
K先生の話とは、こうです。F少年の家庭は裕福というほどではないものの、子どもを学校へやるぐらいは問題がなく、彼自身は成績優秀で、三年生からずっと優等(学年トップ)でした。今年も優等になるだろう。しかしここに、同級生のM少年がいて、家は貧しいうえに、遠く離れた場所にあるのに、毎日休まずに学校へ通い、F少年の次ぐらいの成績になっていました。その健気な努力に報いるために、優等の座を彼に譲ってやってはくれまいか、との相談だか懇願だかをされたのです。
このとき、F少年の心には言い知れぬ不快感が残ります。それは、優等の座を不当に奪われたこと自体から来るのではありません。事実優等は自分なのであり、それをK先生は知ってる。そのうえ、友人のために我が身を犠牲にする英雄気分も少しは味わえるのですから、決して悪い話ではなかったのです。
不快感はK先生の態度に由来するものでした。F少年は大人になってから、この事情を次のように分析します。K先生は不誠実なのです。彼自身は気づいていないだろうが、あの時、幾重もの欺瞞を働いていたのだ、と。
まず第一に、もともと先生と生徒という立場の違いがあるのだから、「相談」という形を取ろうと、「お願い」口調で言われようと、それは実質的に命令としか受け取れない。小学五年生に断れるものではないのです。それでもK先生が表面上「命令」しなかったのは、正規なことをしようとするのではないために(本当は優等ではない者を優等にする、厳しく言えば詐欺を働こうとしているために)、権柄づくで接することはできない、と感じたからでしょう。そこのところは、F少年ほど潔癖ではない私には、やむを得ぬことと理解できます。
ただ、第二に、もう少し微妙な問題があります。K先生は、何も自分の利益のために「厳しく言えば詐欺」をやろうとしているのではありません。貧しくてもがんばっている生徒を励まそうという「教育的配慮」を働かせて、そうしたのです。
他の教師に言われたのか、自分一人で思いついたのか、それはわかりません。どちらにもせよ、このような配慮は、正しさが疑われないまま、学校ではけっこう流通します。なぜ疑われないかと言うと、もともと大したことがないところで使われるからです。優等になると、賞状の他に鉛筆だかノートだかの副賞がついたものかどうか、今の学校から類推すればせいぜいそんなものだろうと思います。優等か否かが、子どもの将来にとって大きな意味を持つことなどありません。もしそうだとしたら、K先生も、もっと手の込んだダマシのテクニックを考えたはずです。子どもへの「お願い」だけで済ませたのは、その程度で済ませられる事柄だからです。
F少年は後に高名な評論家になったので、このできごとを文章にしたのですが、そんなことになる確率なんて、宝くじが当たる場合以下でしょう。普通は、一年もたたぬうちに、先生も生徒も忘れてしまう。それだけに、K先生が、M少年やF少年の人間性を深く考慮して、何をすべきか決断する、なんてめったにないことです。
要するに、こんなに長々しく分析してみせるには相応しくない、軽い、どうでもいいような話なんです。学校でやることは、一つ一つ取り上げたら、たいていはそんなもので、むしろそれを覆い隠すためにこそ、教師たちは「教育的配慮」なんて、もっともらしく言うのです。
問題は、F少年が、そんな「教育」ゲームの、ひと駒として使われたんだ、と感じたところです。
今でもそのときのK先生の表情をはつきりおぼえてをります。そこにはふやけた笑顔があつた。その「理解ある」笑顔に私は虚偽を感じとつたのです。それは、人格と人格とが生きて相対してゐないといふ感じ、先生と自分との間の人間関係が本物ではないといふ感じであります。教師が怒りに任せて生徒を打つときにも感じられる生きた人格の真実が、そこには欠けてゐたのです。
成長したかつてのF少年は、このエピソードに続けて次のように言っています。人が人に意識的に教えることができるのは、知識と技術だけである。しかしこの国には昔から珍しくない「教育好き」、あるいは「教育狂」と称すべき人たちは、それ以上を求めたがる。典型的なのが、「知育偏重批判」=「徳育の要請」であろう。
なるほど、区区たる知識・技術より大切な、「真に人間的なるもの」はある。それを子どもたちに伝えようとするのはいけないか? なんとか伝える方法はあり、それができないでいるのは、教師たちが怠慢だからではないのか? さほどの「教育好き」ではなくても、そう聞きたくなる人はいるでしょう。
そこでK先生です。「教育的配慮」に則った言語を使うと、彼はF少年に、ただ勉強ができるだけではなく、恵まれた境遇にいない同級生に優等の座を譲ってあげられるような、「やさしさ」を持つことを教えようとしたことになるのでしょう。知識より「やさしさ」のほうが大切。それはそうです。一般論としてなら、文句のつけようがないくらい正しい。それで具体的に、優しい行為をするように求めた。それだって正しいはず、ですか? 多くの「教育好き」や、「教育好き」の言うことには従わなくてはならないと感じる教師が、陥りやすい罠がここにあります。「正しすぎる」または「ただ正しいだけ」に陥るという罠が。
他でもない、教師や、教師に代わる人が、ある「人間として大切なもの」へ子どもを導こうとするとき、子どもは非常に敏感に、その手つきを見抜くのです。そして、ここでの「教育」は、動機はなんであれ、子どもの心を操ろうとすることであり、そんなことができると、あるいはやる必要があると思われるのは、結局子供だから、一個の人格として尊重される必要はないと思われているからだ、というところまで、感じ取ります。
子どもの心により強く訴えるのはこちらの要素であり、結果として、例えば「やさしさ」を伝えようとする教育者の意図は、確かにあったとしても、雲散霧消してしまいます。
以上を納得してもらうのはなかなか難しい。そういうことをするのが即ち教育じゃないか、と信じている人はけっこう多いですから。「お前は教師のくせに、教育は不要だと言うつもりか」と今まで多くの反発を招きましたし、今も、これからも招くでしょう。
一言弁明しますと、なるほど、一番教えなくてはならない「真に人間的なもの」は、決して意識的に教えることはできず、その点では教育は無力のようですが、それは何もペシミスティックな話ではないのです。子どもは、教師が意図的に教えようとすることより、その「手つき」を見抜く、というところは、逆にも考えられますから。単なる知識の伝達であっても、人間同士が相対して行われる以上、必ず知識以外の何物かも伝わってしまう。つまり、教師が真剣に知識を伝えようとする態度があるなら、その態度そのものから、子どもは、人間として大切な何ものかを学ぶこともある、と期待されるのです。
子どもに最も伝えねばならない大切なことは、学校では、そのようにして昔から伝わってきたのだし、これからもそのようにしか伝わることはないでしょう。そして、それで十分なのです。
二番目の話は、戦後間もなくの頃で、「道徳的な物語」に関連します。道徳教育推進派も、さすがに、抽象的なお説教だけでよし、とはしませんので、偉人のエピソードを教えるなどして、道徳の正しさを具体的に伝えるようにと要望するわけです。
そんな物語はたいていは退屈だ、という以外にも問題はあります。第一に、子どもといえども現実の浮き世(憂き世)にいるのですから、「現実と物語は違う」という真理にすぐぶつかってしまいます。私も小さい頃、自分が物語の主人公になったつもりになって、ひどい目にあった覚えが何度かあります。ただ、まとまった話にはならないので、例として、他人の体験談を使わせてもらいます。
T少年は母子家庭で、とても贅沢ができるような金はなかったが、どうしても映画が見たくて、お母さんがやっていた商売の売り上げ金を盗んで、こっそり見に行きました。それを同級生に告げ口されて、帰りの会で、みんなの前で先生から詰問されるのです。なかなか口を割らないT少年に、先生は、かのワシントンの話をします。
「アメリカにワシントンという立派な人がいました。イタズラでお父さんの大事な桜の木を切ってしまいましたが、正直にお父さんに白状してあやまったといいます。立派な人になりたければ、正直でなければなりません」
この話に、T少年は素直に感動します。「そうか、ワシントンも俺と似たような子だったのか。顔も知らないワシントンが柴田くんと同じような友達に感じられた 」。そこで、「正直に言えば、この屈辱から解放されると 」思って、白状したら、
(前略)私はパチンと頬をぶたれた。山田先生の手のひらがムチのように頬に飛んだのだ。熱い痛みが頬に残った。
「席につきなさい!」
〝声″が私に命令した。私はおろおろと歩き出した。教室の床が涙ででこぼこに見えた。笹田【T少年の犯行を告げ口した同級生】が低い声で「ドロボウ」とののしった。席に着くと私の横の席の村上という女の子が、机を持ち上げて私から離した。汚いものでも見るような顔で「ドロボウ」と言った。そして私の机をつき押した。
私はごみになったような気持ちでうつむいていた。ワシントンが、笹田や村上より嫌いになった。
その挙句、山田先生からお母さんにも知らされたので、泣かれて、箒で背中をさんざん叩かれて、その後五日も口をきいてもらえなかったそうです。
遺憾ながら学校には決して珍しくない、インチキな「指導」の一例です。インチキがはっきりしているだけ、先のK先生のやり方よりはマシだとは思いますが。しかし、こんなときにダシに使われて、日本の小学生に嫌われたジョージ・ワシントンは気の毒ですねえ。
もとの話では、ワシントンのお父さんは、ワシントンを叱らず、かえって「お前は正直なよい子だ」とほめたことになっているんですよね。するとこれは子を持つ親向けの教訓話だったのでしょうか。「子どもが悪いことをしても、叱るだけが能ではありませんよ」と。それならいいですが、子ども向けに使ったら、たいてい嘘になるでしょう。「正直者は馬鹿をみる」という、現実の一面を伝えるためにこの話を使うなら、別ですけど。
「正直なのはいいことだ」(Honesty is the best policy.)ということを教えたいんだったら、むしろマイナスです。なぜなら、正直な人がみんなワシントンになれるわけはなく、ワシントンが本当に正直だったとしても、それだけで彼がアメリカ合衆国初代大統領になれたわけはないんですから。「ワシントンは正直だったんだからあなたも正直になりなさい(そうすればワシントンのような立派な人になれます)」なんて理屈、どこをどう押しても出てくるはずはないんです。この話は、たぶん歴史的な事実ではないから嘘だ、というのではなく、子どもに教訓を与えようとして使うところで嘘になってしまうのです。こんなのでも、相手が子どもならバレないだろう、なんて思うとしたら、子どもをナメきった、非常に不道徳的な態度だとしか思われません。
道徳の教材として偉人伝やら古典を使え、というのは保守派の人に多い意見で、教育再生会議の第三次報告 にも「偉人伝、古典、物語、芸術・文化などを活用し感動を与える多様な教科書を作る 」とあるんですが、何を使おうがこのような弊害は免れないでしょう。前にも 同じようなことを申しましたが、敢えて言葉を重ねます。
嘘、と言うと言葉が強すぎるとしても、結局のところ、小林秀雄ふうに言うなら、今人(いまびと)の賢しらで偉大な人物や文学の価値を切り刻み、矮小化することには必ずなります。私の好みからすれば、小学生に英語を教えるくらいなら、日本の古典を教えてもらったほうがいいと思いますが、それなら平凡なお説教とは全く別次元の、古典の全体像を伝えるように努力すべきです。そうでないと、古典に対して失礼、という意味の不道徳を働くことになります。
では道徳教育は不要なのか? そんなことはありません。だいたい、子どもを育てながら、道徳的なことに触れずにいるなんて不可能です。子どもが、自分の家の金であっても、無断で持ち出したりしたら、それは叱らざるを得ません。自分の子どもはもちろんのこと、教師なら生徒など、身近にいる子どもに対しては、そうするのが大人の義務という以前に、そうでなければ「子どもを育てている」ことにはなりません。【でも、できるだけ一人で叱って、恨まれるなら自分だけ恨まれるようにしたいもんですね。】
そしてだいたいにおいて、こういうときに使える言葉は、至極平凡なものです。これも仕方がないことで、従って、「どろぼうはするな」「正直になれ」などの、平凡な徳目自体が不必要だとも言えません。
ただし、ここでのポイントは、ある具体的な状況の中で、肉体を備えた「私」が、同じく肉体を持った「あなた」に呼びかけているというところなのです。「あなたが大切だ」と思っている「誰か」が言うから、言葉は平凡でも、やり方は下手くそでも、何かが伝わることもある、と期待できるのです。
T少年の話には続きがあります。怒りかつ悲しんで、五日間口をきいてくれなかったお母さんですが、五日目にはT少年を風呂に入れて、背中を流してくれながら、「もう泥ぼうするな。母ちゃんはお前のために苦労しよっちょけん 」と泣きながら言ったそうです。その時の顔は今でも忘れられない、とも、成人して有名な歌手兼俳優になったT少年は書いています。つまり、そういうことです。
個人的な関わりの中でなら、生徒に対するその「誰か」に、教師がなることも不可能ではないでしょう。いやむしろ、普通に思われているよりも多く、そうなっているかも知れません。しかし一クラス四十人の生徒を前にした場合、その教師の力量や熱意とは関係なく、そういうことはもともと不可能なのです。そこの彼/彼女は必ず制度的な存在なんですから。
そういうものとしての教師は、クラスの秩序を守るために、私語をしている生徒を注意することはできるし、現代社会で礼儀として定まっている型を教えることもできます。しかし、人格や「心」の根底にまで「仕事として」積極的に関わろうとするのは、むしろ控えるべきです。F少年の例で見たように、どのように偽装しようとも、「制度によって権威づけられた者によるおしつけ」であることは免れないのですから。
押しつけ自体がいけない、と言うのではありません。教育はすべて押しつけと言っていいと私は思います。そうであるからこそ、学校で押しつけることは上に述べたような範囲に限るべきだ、と考えるのです。
正しいことならなんでも、できるだけ効果的にとのみ考えて、押しつけていい、いや、押しつけるべきだ、ということでやったら、その「正しいこと」より、押しつけられた屈辱感のほうがずっと後まで残ってしまいます。T少年のように、クラス会での教師と同級生からの糾弾(人民裁判に近いですよね)を経験した者は、たいていそうなります。かくいう私も、その一人です。これは学校によってなされた最大の不道徳だと、今も思っています。
実際問題としては、この「範囲」は曖昧になりがちですが、それでも心がけていかねばならない教師の倫理性だということを、私は、教職に在籍すること三十二年を越えた今まで、疑ったことはありません。
ところで、T少年の話にはさらに続きがありました。お母さんの涙の説諭には、決定的な効果があったかというと、残念ながら。その後怪獣映画「モスラ」が近所で上映されたとき、T少年は誘惑に勝てず、またしても店の金をくすねて見に行った、と著書で白状しています。その時には見つかったものかどうか、それは何も書かれていません。
これについては、「そういうもんだね」と、平凡な親兼教師である私としては、溜息といっしょに言うしかありません。いつの時代の子どもでも、悪さをします。それを完全に防ぐ「道徳教育」は存在しなかったのです(存在したら、逆に、とても恐ろしいと思います)。
そんな目に見える効果とは別に、人と人の心がつながり、何かが伝わり、残っていく、その「何か」が積もり積もって、「人格」と呼ばれるものになる、これがつまり徳育です。「何か」とは何か、一言で言うことはできませんし、言う必要もないでしょう。しかし、制度的にどうこうできるものでないことだけは、確かだと思います。
以上、いろいろ述べてきましたが、「子どもを躾けるのに、何もそんなに理屈をこねる必要はないんじゃないの」という人もいますね。一理あります。藤原正彦『国家の品格』の中で私が唯一共感した箇所に、彼の父(新田次郎)は、「弱いものいじめをするな」「嘘はつくな」などと少年のときの彼に教えたとあります。でも、父の偉かったところは、それには理由はないことをはっきりと認めていたところだ、と。
なるほど、男らしくてなかなかいいですね。いいことはいい、悪いことは悪い、理屈は不要、議論も不要、だったら学校で週一時間授業をするなんて、当然不要。これにて一件落着。……とはいかんでしょうけど、私の話のほうはこれで終わります。
【出典を言わずにすますのは不道徳ですね。F少年とは福田恆存先生のことで、昭和32年の文章「教育・その本質」を、エピソードをほんの少し変えて、使わせていただきました。これは現在、『福田恆存全集 第四巻』(文藝春秋社昭和62年)や『福田恆存評論集 第五巻』(麗澤大学出版局平成20年)に収録されています。
T少年のほうは金八先生こと武田鉄矢氏で、自伝『母に捧げるバラード』(集英社平成2年。現在集英社文庫)から引きました。実はこのエピソードは、以前に、拙著『団塊の世代とは何だったのか』でも使わせていただいておりました。武田氏には、合わせてお礼申し上げます。】
道徳を教科にする、というからには、制度的に次の三つの整備をしなければならないでしょう(ただし、法的な根拠は必ずしもないようです)。(1)教員(免許)、(2)教科書、(3)評価です。前出中教審答申「道徳に係る教育課程の改善等について」 ではそれはどうなっているか、見ていきましょう。
(1)道徳を教える教員についてですが、「3 その他改善が求められる事項」の「(2)教員免許や大学の教員養成課程の改善」に次のようにあります。
「特別の教科 道徳」(仮称)を担当する教員について、特に、中学校については、扱う内容や指導方法の高度化が求められることなどを踏まえ、将来的には専門の免許状を設けるべきとの意見があった。また、学校図書館法に定める司書教諭のように道徳教育に関する一定の講習を修了した者を道徳教育推進教師に充てる仕組みとすべきなどの意見があった。
また、大学の教員養成課程における道徳については、人間に対する理解を深めるとともに、教員としての指導力を身に付けるため、理論面、実践面、実地経験面の三つの側面から改善・充実を図る必要があり、現在、小・中学校に関しては、「道徳の指導法」の2単位、高等学校に関しては、履修が必須ではない状況となっている基準を見直し、道徳教育を専門的に学べるようカリキュラムの改善と履修単位数の増加を検討することが必要との意見があった。あわせて、各大学において道徳教育の指導に当たる教員の養成のためにも、大学における道徳教育に係る教育研究組織の改善・充実に向けた積極的な取組が期待される。
文末が「意見があった」×3+「期待される」でして、要するにまだ何も決まっていない、ということです。それでいて3年後には小学校で「特別な教科 道徳(仮称)」を実施する、というのはどうなのかなあ、と素朴に感じられませんか?
もう一つ素朴な疑問。道徳を教える、ということですと、今の教員にその資格・能力はあるのか、という批判がよく聞かれます。もっともだと思います。だから「専門の免許状を設けるべき」とか「道徳教育に関する一定の講習」を、なんて意見も出てくるんでしょう。しかし、ではいったい、将来道徳の専門家たるにふさわしい教員を養成する大学の先生たちには、それにふさわしいだけの資格・能力はあるのでしょうか? 「理論面、実践面、実地経験面の三つの側面」いずれから見ても申し分ない人材がそろっているのでしょうか?
そこまで考えたら、道徳の教科化は当分の間、あるいは永久にできない。だから、考えずにやってしまおう、という人が多いようですが、私はそのような態度は道徳的とは言い難いように思います。そうでなければ道徳の教科化はできないということなら、やめるべきだ、とも思っているわけです。
(2)教科書。「2 道徳に係る教育課程の改善方策」の「(5)「特別の教科 道徳」(仮称)に検定教科書を導入する」より。
現在、道徳教育用教材として文部科学省が作成した「私たちの道徳」が全国の小・中学生に配布され、道徳の時間をはじめ、学校の教育活動全体で行う道徳教育において、また、家庭や地域との連携などにおいて活用されている。
道徳教育の充実を図るためには、充実した教材が不可欠であり、今後、道徳教育の要である「特別の教科 道徳」(仮称)の中心となる教材として、全ての児童生徒に無償で給与される検定教科書を導入することが適当である。
このため、「特別の教科 道徳」(仮称)を学校教育法施行規則及び学習指導要領に位置付けるための制度改正を行った後、「特別の教科 道徳」(仮称)の特性を踏まえ、教材として具備すべき要件に留意しつつ、民間発行者の創意工夫を生かすとともに、バランスのとれた多様な教科書を認めるという基本的な観点に立ち、教科書検定の具体化に取り組む必要がある。また、学習指導要領の改訂においては、教科書の著作・編集や検定の実施を念頭に、これまでよりも目標や内容、内容の取扱い等について具体的に示すなどの配慮が求められる。
ここでも具体的なことは何も決まっていないわけですが、「特性を踏まえ」るべきモデルとして、「心のノート」を引き継いだ「私たちの道徳」(中学校用。小学校編は「わたしたちの道徳」で、1~2年用、3~4年用、5~6年用の三つに分かれている)が現にあります。ここから推測されることを述べますと。
『私たちの道徳 中学校』は、短いもので一行のいわゆる箴言(スピノザや魯迅、なぜか井上ひさし、などの有名人の著作から抜粋したもの)、長くて8頁の「読みもの」(既存の文科省編著の文集から選ばれたものが多い)などで構成された文集です。章立てと頁数は、「1 自分を見つめ伸ばして」38頁「2 人と支え合って」50頁「3 生命を輝かせて」36頁「4 社会に生きる一員として」106頁。【因みに、今もなお話題になる「愛国心」が扱われているのは「4」中の「(9)国を愛し、伝統の継承と文化の創造を」で、全8頁。それも写真や表、それに生徒に書き込ませるところが大部分で、文章は末尾のコラム「人物探訪」を含めても半分にも足りません。】
「2」と「4」はすぐに分かるように直結した主題を扱っています。そしてこの、広い意味の「社会性」に関する部分が全体の約66パーセント、つまり三分の二を占めていることからも、どの面の「特性の涵養」が主に目指されているかは明らかです。因みに『わたしたちの道徳』も、(息子が持っているものなどから)管見の限りでは、同じような構成です。
このこと自体は妥当だと言えるでしょう。学校とは、今日、家庭の外に出た子どもが行くべき第一の場所であり、子どもの社会化を促すところに第一の機能があると考えられるからです。そして人間とは、「人と支え合って、社会の一員として生きる」者であることに、間違いはありません。間違いがなさすぎるので、ことさらに、教科として、児童生徒に伝える意味は本当にあるのか、と思えてこないでしょうか。
例えば、「2」の章末には、茨木のり子の「知命」という詩が置かれています。最後の二連は、「ある日 卒然と悟らされる/もしかしたら たぶんそう/沢山のやさしい手が添えられたのだ」「一人で処理してきたと思っている/わたくしの幾つかの結節点にも/今日までそれと気づかせぬほどのさりげなさで」 。人間が生きていくうえでどうしても避けられないゴタゴタ、たいていは些末で、わざわざ言挙げするのも憚られるようなものではあるのですが、けっこうストレスになり消耗する、そういう問題を、人は、(たいていは)やり過ごすことも含めて、自分一人で処理してきた、と思いがちです。しかし実際は、つい見過ごしてしまうほどのさりげなさで、優しい他人の手が差し出されていた、それに気づいた、ということです。
大事な気づきです。ただ教材としてこれを見た場合に少し気になるのは、この詩の前のほうでは、他の人がやってきて、こんがらがってほどけなくなった糸の束をなんとかしてくれ、と言うので、「(前略)仕方なく手伝う もそもそと/生きてるよしみに/こういうのが生きてるってことの/おおよそか それにしてもあんまりな」「まきこまれ/ふりまわされ/くたびれはてて」 で、前出の二連に続くのです。糸がほどけないならいっそ断ち切ってしまえばいい、と言ってもそれもならず、一応ほどく手伝いをしてみる、結果こちらもけっこう消耗する、そういうのが人生か、あんまりだ。しかし気づいてみれば自分だって……というわけで、中年以上まで生き延びた人間が抱きがちな、人生に対する苦い思いが背景としてあるわけです。この部分も中学生に伝えるんですか?
それは、中学生といえども、人間関係のゴタゴタで苦しむことは少なくありません。こんがらがって容易に解きほぐせない、といって一思いに切り捨てる勇気もなかなか持てない、というような。でも、「それがつまり人生だ」と、教えられますか? 経験が乏しい、殊に今現在苦しみの最中にいる者には、「たくさんのやさしい手」に気づくのは容易ではありません、という以上に、「それにしてもあんまりな」と、いい大人でもつい愚痴をこぼしたくなる人生の実相を、少なくともその一面を、伝えられるか、ということなんです。できるとしても、やったほうがいいと思いますか?
私同様、多くの人が、それには二の足を踏むでしょう。そして、「人と人の支え合いの大切さ」のみを言うことになると思います。しかしそれでは、この詩の味わいは半分以下に減ってしまいます。
ついでながら、茨木のり子 でもう一つ。彼女の最も有名な詩は、国語の教科書にはよく取り上げられることもあって、「わたしが一番きれいだったとき」ですね。この詩は反戦詩ということになっているようですが、それは少し違うんじゃないかなあと思います。六連目には戦後のことが言われているんです。「わたしが一番きれいだったとき/ラジオからはジャズが溢れた/禁煙を破ったときのようにくらくらしながら/わたしは異国の甘い音楽をむさぼった」 と。だから戦争が終わってよかった、という話ではありません。続く七連目は、「わたしが一番きれいだったとき/わたしはとてもふしあわせ/わたしはとてもとんちんかん/わたしはめっぽうさびしかった」 でして、彼女のふしあわせでとんちんかんでさびしい状態は、戦後も続いたと見るのが妥当です。だいたい、戦争でおしゃれも恋もちゃんとできなかった、そして「わたしの頭はからっぽで/わたしの心はかたくなで」 あったから、戦争はいけないんだ、なんぞというと、別の詩では「駄目なことの一切を/時代のせいにはするな/わずかに光る尊厳の放棄」「自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」 (「自分の感受性くらい」)と歌っている茨木さんから怒られるんじゃないですか?
要するにこの詩では、いついかなる時代であっても、総体としての他者である世の中・社会に違和感を抱きがちな、自意識と呼ばれる、感性のあり方が表現されているのです。それでも、というかむしろそれだからこそ、他者との関わり・支え合いは大切だ、とは言えます。言えますけど、そう言われたからといって「生きづらさ」が消え去るわけでもありません。
というようなことがらは、文学の領分であって、だから国語の教材にはなっても、道徳では使えない、と普通は感じられるのでしょう。教訓になりませんものね。これ、「道徳の壁」と言うべきものです。つまり、道徳的な訓話・お説教というものは、正しいことは知ってはいてもなかなかそうは生きられない、もっと言えば、正しいだけでは生きられない、人間の根源的な弱さ、そこから来る苦しみと悲しみを捨象するからこそ、完璧に正しくなるのです。そんなの、いわば「ただ正しいだけ」であって、無意味以上に、苛立たしいだけだ 、と私は思います。それはお前のようなひねくれ者だけで、道徳的な教訓に素直に感動できる人もいるんだ、と言われるかもしれません。でも、それほど素直な人には、殊更道徳なんて教える必要は最初からないんじゃないですか?
道徳の正式な教科書ができるのはこれからですから、この「道徳の壁」があってもなお、各社の「創意工夫」で、多少は面白いものも出てくる可能性までは否定できません。それは今後のお楽しみとして、現時点での私からの希望を言いますと、有名人からの片言隻句を並べるのは控えたほうがいいんではないか、と。まあ、「ゲーテ曰く」式のことは、私もついやってしまいがちではありますけど、やり過ぎるのはねえ。作品(詩)の全体が載っている茨木のり子だって、つまみ食いになるだろうと予想されるんです。まして、スピノザとか、ハイデッカーとか。彼らの思想総体から切り取られて、そこらのおじさんでも言いそうな箴言にしたものを陳列するなんて、大思想家に対して失礼だし、愚かな権威主義にしか見えないんじゃないですか。それなら、黙っていたほうがまだしも道徳的だと思います。
(3)評価。これこそ問題中の問題です。「2 道徳に係る教育課程の改善方策」中の「(6)一人一人のよさを伸ばし、成長を促すための評価を充実する」より。
道徳教育における評価は、指導を通じて表れる児童生徒の道徳性の変容を、指導のねらいや内容に即して把握するものである。このことを通じて、児童生徒が自らの成長を実感し、学習意欲を高め、道徳性の向上につなげていくとともに、評価を踏まえ、教員が道徳教育に関する目標や計画、指導方法の改善・充実に取り組むことが期待される。
現行学習指導要領においては、道徳教育の評価について、「児童の道徳性については、常にその実態を把握して指導に生かすよう努める必要がある。ただし、道徳の時間に関して数値などによる評価は行わないものとする。」(小学校学習指導要領。中学校学習指導要領においても同旨。)とされている。
また、指導要録は、児童生徒の学籍並びに指導の過程及び結果の要約を記録し、その後の指導及び外部に対する証明等に役立たせるための原簿であり、文部科学省が示した参考様式をもとに、学校の設置者が様式を定めているものである。
現在の参考様式の「指導に関する記録」には、道徳の時間の記録欄が示されていない。一方、各教科、道徳、外国語活動(小学校)、総合的な学習の時間、特別活動やその他学校生活全体にわたって認められる児童生徒の行動については、「行動の記録」欄が設けられている。同欄については、学習指導要領の総則及び道徳の目標や内容、行動の記録の評価項目及びその趣旨を参考にして、設置者が項目を適切に設定するとともに、各学校が自らの教育目標に沿って項目を追加できるようになっており、各項目の趣旨に照らして十分に満足できる状況にあると判断される場合に、○印を記入することとされている。
①評価に当たっての基本的な考え方について
道徳性の評価の基盤には、教員と児童生徒との人格的な触れ合いによる共感的な理解が存在することが重要である。その上で、児童生徒の成長を見守り、努力を認めたり、励ましたりすることによって、児童生徒が自らの成長を実感し、更に意欲的に取り組もうとするきっかけとなるような評価を目指すべきと考える。
なお、道徳性は、極めて多様な児童生徒の人格全体に関わるものであることから、個人内の成長の過程を重視すべきであって、「特別の教科 道徳」(仮称)について、指導要録等に示す評価として、数値などによる評価は導入すべきではない。
道徳性の評価に当たっては、指導のねらいや内容に照らし、児童生徒の学習状況を把握するために、児童生徒の作文やノート、質問紙、発言や行動の観察、面接など、様々な方法で資料等を収集することになる。その上で、例えば、指導のねらいに即した観点による評価、学習活動における表現や態度などの観察による評価(「パフォーマンス評価」など)、学習の過程や成果などの記録の積み上げによる評価(「ポートフォリオ評価」など)のほか、児童生徒の自己評価など多種多様な方法の中から適切な方法を用いて評価を行い、課題を明確にして指導の充実を図ることが望まれる。
「①評価にあたっての基本的な考え方」の前は、戦後から現在まで道徳(的なものを含む)が記録としてはどう扱われてきたか略記した部分です。後の叙述に便利なので挙げました。先に①のほうを見ましょう。簡単に書いてありますが、ずいぶん無理な、矛盾を含んだ「基本」もあったものだと、感心してしまいます。
因みに、これに先行する文書としては、文科省のサイトで「資料2 道徳教育の評価について」 というのが閲覧できます。中教審の中の道徳教育専門部会(第6回、平成26年6月19日)の配付資料で、それまでに出た意見を集約したもののようです。「これまでの主な指摘事項」の最初は以下です。
数値による評価を行うことは不適切であり、この考え方は引き続き維持すべき。児童生徒の内面そのものを評価の対象としたり、入学者選抜等の他の判断の基礎としたりすることについても厳に慎むべき。
まことにごもっとも。しかしこれでは道徳の評価はできません(だから、やるな、というのが私の考えであるわけです)。「君は~の面でとても成長した」などと言えば、内面を、即ちいわゆる人物・人格を評価したことになってしまうでしょう。もっとも、「内面」に「そのもの」がついているところがミソかも知れませんが。
ともかく、道徳を教科化するのはもう決まったことである。ならば、内面を評価するのはやむを得ない。しかし、数値化はしない。A君は人物評価はAである、B君はそれより劣るBである、なんてことがしたいわけではない。記述式で、即ち文章で、その生徒の「努力を認めたり、励ましたりする」ようなものにする。そのへんを落としどころにしたいようですが、さて、どうでしょうか。
まず、評価とは何なのか。今の学校では、道徳以外でも、「観点別評価」なんて有害無益なものがありますので、これについては稿を改めて詳述したいと思います。簡単に言いますと、飲み会や井戸端会議での無責任な「評判」ではない、公的な機関がやるに相応しいちゃんとした評価はどういうものでしょうか。私見では、不完全な人間には所詮不完全な評価しかできないので、むしろそれはちゃんと心得た上で、せめて「何を、どういう方法で評価するのか」の基準が明らかになっていることをもって、「ちゃんとしている」とするべきでしょう。
学校が昔からやっている普通教科の評価、いわゆる成績は、国語なら国語、数学なら数学という限られた分野で、全生徒に同じ条件でテスト(いわゆる客観テスト)をして、その結果をおおもととする、というところに客観性が備わっています。それがナンボのもんじゃい、と言われるなら、いかにも、大したことはないかも知れません(だからこそよい、とまでは言えなくても、大きな問題にはならずにすんでいるのです)。ともかく、発問は適正であったかどうか、本当に全員公平な状態でテストが実施されたか、やろうと思えば後から検討できます。公正性とは、つまりそんなものです。
「特別な教科 道徳」ではそんなの必要ないんだ、と言いたげですね。何しろ、他人との比較が問題なわけではないんだから、と。そうはいかんでしょう。どういうのが道徳的に好ましい人間なのかのイメージ(「期待される人間像」ですな)と、子どもはそこに向かってどのように成長していくべきなのか、教える側にある程度の共通了解がなければ、一年かそれ以上にわたって子どもを教導するなんて、できない道理です。この了解が、そのまま評価基準になります。
候補としては、発達心理学による年齢ごとの発達段階、及び発達課題というものがあります。私は、個人的な経験から、その科学的客観的な妥当性を疑う者ですが、しかしよく知られているんですから、一応の有用性はあるんだ、としましょう。また、「心のノート」は実際には河合隼雄門下の心理学者たちの編著とのことなので、「特別な教科 道徳」には臨床心理学がいくらかは入り込んでくるんだろうと予想されます(因みに、「共感的な理解」というのは元来はカウンセリングの用語です)。しかし、前面には出ないでしょう。DSM-5(精神疾患の診断・統計マニュアル)などを応用した発達段階のチェック表などはもういくつか出ていますが、そこでは当然、精神疾患・発達障害、とまでは言わなくても、「発達課題をちゃんと果たし終えていない」というようなマイナス評価はあり得るのです。
客観的な評価基準とはそういうものです。具体的な誰それとの比較はしなくても、発達心理学だったら、例えば、この年齢の子どもならこの程度の社会性は身についているはずといった、それこそ基準を統計的に割り出した上で、テストを使ってそれと比較して、「この子は発達の遅れが見られる」との診断(≒評価)を出すわけです。
それがない、ということなら、どれだけ資料を積み重ねようと、どれほど精緻に観察しようと、出て来るのは恣意的な評価、としか言いようがなくなります。それでも、ないことにするんでしょうね。何しろ、必ずほめなくてはならないようですから、そうせざるを得ません。例えば「他人に対する思いやり」でも、それがどの程度にあるのか、客観的に測る基準があったとしたら、「他の子よりは足りない子」が出てきてしまいますんで。いろんな資料を用意したり子どもを細かく観察する教員の、膨大な手間は今は度外視するとしても、なんという奇妙なことをやらせようとするのか、思いやっていただくことはできないもんでしょうかね。
話はこれで終わりません。実は、この妙ちきりんな「評価」に近いことを、学校は今まででもずっとやってきているのです。せっかく文科省が機会を与えてくれたのですから、そこにも光を当てておきましょう。それは前出の中教審答申からの引用文中、「①評価にあたっての基本的な考え方」よりも前の部分に出ている「行動の記録」です。
「行動の記録」と言っても、すぐにはわからない人が多いでしょう。「基本的生活習慣」「責任感」「協調性」「公正」等々の項目があって、いくつかに○がついていたりするやつです。「そう言えば、通知表の中にそんなのがあったな」と思い出していただけましたか。考えてみたらこれ、「内面の評価」ですわな。私の年代ですと、A・B・Cの三段階で、「数値評価」がなされておりました。実は、中身は現行も同じです。A→B→Cが、○→空欄→×、になって、わかりづらくなっただけです。
ただし、よくは覚えていないのですが、昔もC評価はほとんどつかなかったと思います。現在、×は慣習として、つけないことになっています。「劣っている」評価はほぼない、ということです。ここでまだしも、学校という公的な機関が「内面の評価」なんてことをやる恐ろしさには、一応の歯止めがかかっていると言えないこともないです。
それ以上に、これが現在までほとんど問題にならないできたのは、上級学校(中学なら高校、高校なら大学)へ進学するとき、つまり入試の時の資料として、「行動の記録」は、ほとんど使われないからです。主に使われるのは、普通教科に関する五段階または十段階評価、つまり、ごく普通に言う「成績」です。まあごくごく稀には、以前に拙ブログで述べた内申書裁判時のような例外 はありますけど。
それから、学校の、生徒に関する公式記録簿である指導要録には、「行動の記録」欄の下に「所見」とか「備考」とかいう欄がありまして、ここは文章で、例えば、「本人は三年間野球部に所属してチームのために貢献し、クラスでは環境美化委員としてよく義務を果たして」云々などと書きます。これまた、原則として、悪いことは書きません。茨城県では、「他の生徒との比較ではなく、本人の長所を見つけて」書くように、というような上からのお達しまで現にあります。
これに基づいて内申書(正式には「調査書」。中学校から高校へ送られるものは慣習的にこう呼ばれている)の「所見」あるいは「備考」も書かれることになっておりますので、当然ながら、特例を除き、本人の不利になるようなことは書かれません。すると、入試という、選抜試験の材料としてはほとんど使われません。それはそうでしょう。「他人との比較」は度外視して書かれたはずの記録を、全受験者分なんらかのやり方で比較したうえで、合格者と不合格者に振り分ける材料にするなんて、あからさまな矛盾ですから。で、これも誰も気にしない、とは言い切れない、受験シーンではみんなナーバスになるんで、内申書に何が書かれているか、気がかりにもなるでしょう。が、それが過ぎたらすぐに忘れます。その程度のものです。
道徳の評価もその程度のものなら、指導要録に記入欄ができ、通知表で児童生徒や保護者にも伝えられ、さらに調査書で上級学校(中学なら高校、高校なら大学)にも知らされるとしても、ほとんど問題にならないでしょう。「行動の記録」及び記述式の欄が今のままで、その上に道徳の「評価」の記述があっても(これもどうなるか、現段階ではまだ決まっていません)、それを書く教師の手間が増えるだけで、ほとんど誰も気にしない、ということです。
本当はみんな知っているように、学校でやることの社会的な効用は、九割以上、上の学校への受験にどれくらい関わるか、によってが決まるんです。関わりが少ないものについては、まず保護者があまり気にしない。それなら、児童生徒も気にしなくなる。すると、教師も、たいていは、そんなに気にしてはいられなくなります。学校もまた、現実の需要によって最も動かされるのですから。今まで教科ではなかった道徳が、あまりきちんと取り組まれなかった理由はつまりこれです。教科になってからでも、「入学者選抜等の他の判断の基礎としたりする」ことはない、と明言したりしたら(それは潔くて立派だな、とは思いますけど)、いったいなんのためにこんなものがあるのか、誰にもわからない、なんてことにすらなりかねません。
道徳教育を推進しようとする側にとっては、これは当然面白くないでしょう。どうすればいいのか。手っ取り早いやり方は、上で述べたことから自然に浮かんでくるでしょう。「資料2 道徳教育の評価について」にあった指摘とは真逆に、入試で使わせることです。
さすがにそれはない、と信じたいですねえ。道徳の授業をちゃんとやって評価がよくなると、いい高校・大学へ行きやすくなる。だからちゃんとやる、なんてことが道徳的と言えますか? こんなところにつながりがちなので、私は制度(この場合具体的には学校制度)が道徳に直接関わろうとするのはやめるべきだと考えるのです。関わること自体が不道徳的だとさえ言えるんじゃないか、と。
実際問題としては、現在、ちょっと危ないかな、と思える方向は、道徳教育からは別の場所から出てきています。大学入試を「人物(評価)重視」に改めるという、一部では話題になっているアレです。ただ、マスコミの報道とは違い、政府側の、中教審などから出てきている文書には、この言葉はほとんど見当たりません。具体的な改革の方針としてまとまったものだと、教育再生実行会議が平成25年10月31日に出した「高等学校教育と大学教育との接続・大学入学者選抜の在り方について」(第四次提言) 中の次の文が端的に伝えています。
○ 各大学は、学力水準の達成度の判定を行うとともに、面接(意見発表、集団討論等)、論文、高等学校の推薦書、生徒が能動的・主体的に取り組んだ多様な活動(生徒会活動、部活動、インターンシップ、ボランティア、海外留学、文化・芸術活動やスポーツ活動、大学や地域と連携した活動等)、大学入学後の学修計画案を評価するなど、アドミッションポリシーに基づき、多様な方法による入学者選抜を実施し、これらの丁寧な選抜による入学者割合の大幅な増加を図る。その際、企業人など学外の人材による面接を加えることなども検討する。
一言で言えばAO入試を拡大しろ、ということです。その際、様々な記録(ポートフォリオ)やら面接(パフォーマンス)から受験生の人物(でしょう?)を評価すべきなんだと。ところで、同じようなことを、道徳の評価についても言われていたのです。それが記録され、調査書にも記載される。それでいて入試選抜の材料に使わない理由なんて、ありますか?
で、使う、それもかなり大きな比重で、となった日には、前述の問題の他に、その評価の適正さはしばしば疑問視されることにもなるでしょう。数値ではない、基準もはっきりしない評価には、いかようにも文句をつけられますから、評価者である教員がよほどうまくやらない限り、収拾がつかない事態になることだってあり得ます。そうなったほうが面白いかもな、それで初めてみんな、この種の「評価」の危うさを意識するだろうから、なんて気分にもついなってしまいがちな私です。
しかしそれにしても。道徳教育からは少し離れますが、この種の入試改革案は、一昔前からずっと続いてきていて、今までに何をもたらしたのでしょう。AO入試は、低偏差値大学では、学力にも「人物」にもほとんど関係なく、経営の見地から、学生を早い段階で集める「青田刈り」の手段と化しています。現在の教育再生会議の座長は早稲田大学の総長(因みに中教審の会長は元慶応義塾塾長)ですが、自分とこのAO入試ではどういう成果があったのか。重要な参考になると思うのに、なんで資料を出さないんでしょう。
単に事務的な話でも、例えば面接なんて本当にやるつもりでいるんでしょうか。早稲田大学法学部には六千人からの受験者がいます。本当を言えば、調査書だってそんなにちゃんと見ているとは思えません。全員を面接するとしたら、一日に百人やるとして六十日、つまり二か月かかります。たぶん、ペーパーテストや書類審査で定員の倍ぐらいにしぼってから実施する、なんて考えているのかも知れませんが、それでも定員は約七百人ですから、千四百人は面接することになります。外部の人の手を借りるにしても、複数の面接官、それも全受験者を見ているわけではない(一人で千四百人には会えませんよね)人々の間の、採点基準の統一を「丁寧に」図ることはできるのか。【実際は、定員のせいぜい一割ほどを別枠にして、それも調査書の評定平均が5段階で4.5以上とかの受験資格を設けて絞り込んだうえで、この別枠受験者にだけは面接をする、ということになるでしょう。これなら、二百人以内で済みそうです。今のAO入試もこんなもんですが、名前だけ変えたりしましてね。肝心なのは、実質的には、大した変りはない、変えることはできない、というところです。】
まあ、私などには余計な心配でしかありませんが、どうも余計な苦労を自ら招いているように思えてなりません。、
最後に、この第四次提言で、唯一「人物評価」という言葉が出ているところを紹介しましょう。
国は、メリハリある財政支援により、以上の取組を行う大学を積極的に支援する。国及び大学は、大学入学者選抜の改革について、その成果を検証し、継続的な改善に取り組む。公務員の採用においては、特に平成14年度以降、人物評価の重視に向けた見直しが図られてきており、引き続き能力・適性等の多面的・総合的な評価による多様な人材の採用が行われることが期待される。
人物評価重視は、直接には公務員採用について言われているわけです。それで、その結果、平成14年度以降になった人は、みんな立派な公務員なんでしょうか? 出し惜しみせずに、資料を見せてくださいよ。
それからまた、「メリハリある財政支援」とは、先ほどの入試会改革を積極的にやる大学には予算・補助金を多く与えよう、ということですね。「金をやるから、言う通りにしろ」と。お上の諮問機関も、ずいぶん道徳的なことを言うもんなんだなあ、と思わざるを得ません。