由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

福田恆存に関するいくつかの疑問 その11(入門になりそうな二冊)

2024年09月27日 | 文学

三百人劇場 「東京生活日和」より

◎『福田恆存の言葉 処世術から宗教まで』(文春新書令和6年)
 これは懐かしい。本書の元は昭和51年、現代演劇協会の今はない拠点三百人劇場で行われた「土曜講座」での連続講演。ほぼ月に一回で全八回、毎回登壇する福田先生に加えてゲストが各回一人づつする、それぞれ1時間半程度の講演で構成されていました。
 私は当時大学生で福田先生と少しつながりがあり、いや、正確に言うと先生とつながりのある人とつながりがあり、入場券のもぎりなど、雑用のお手伝いをした、いや、正確に言うと、ちょっとしたお手伝いをするという形で、タダで毎回の講演を聴いたのです。ありがたい話でした。第一回目のゲスト講師は小林秀雄(このときの講演の内容は以前紹介したものです)で、この人の人気で会場は大盛況、私は通路の階段に座って聴いたのも良い思い出です。
 以下、敬称は略します。

 この講演が今回活字になったわけですが、書籍化の話は福田の生前からあり、しかし彼は「話がまとまらなかったから」と断ったそうです。今回実現したのは、文藝春秋社と先生の御次男・逸氏の尽力によります。しかし、誰が最終的にまとめたかは知りませんが、たいしたものだと感心しました。思い返せば、と言っても今そんなにちゃんと覚えているわけではないですが、読んで改めて思い出したところでは、ご当人が認めるとおり、この連続講演は、後になるほど話題が多岐に渡り、本筋が見づらくなった、そこをたいへんうまくまとめています。
 そのうまくまとまっていることを短くうまくまとめて言うのは難しい。今回は紹介が目的なので、怪しいな、と思われたら現物にあたっていただけばいいので、怪しいままに書いていくと。
 「処世術から宗教まで」というタイトルは、この中間には人間世界のたいていのことが入るから、何を喋ってもいいようにつけたんだ、と福田は最初の講演で笑って言っていた。実際は処世術、いわゆる世渡りから始まって、それを宗教、つまり神様の話につなげていく、福田独自の論理展開の妙味、というよりは人間観を簡単に味わえる。
 私見によると、一番のキーワードは「主体(性)」です。こういうと、え? と言われるかも。それじゃ福田恆存って、進歩的文化人か、つまらぬ道徳家だってことか? と。これは完全な見当外れではないけれど、肝心なのはそこまでの道筋です。

 福田はまず、ゴマすりは悪くないんだ、と言います。自分の希望、この場合欲望のほうがいいか、を叶えようとしたら、それなりの手練手管、即ち術がいる。いわゆる処世術の一種。「至誠天に通ず」なんてことはないし、第一それはあなたまかせの、怠惰な態度だ、と。
 もちろんその前提として、エゴイズム(利己主義)、というか、余計な誤解を避けるためにエゴセントリズム(自己中心主義)とここでは呼ぶことにしますが、これは認められなくてはならない。それをいけないと言ったり、なくすことができると言うのは、非現実的だし、逆にそう言う人の身勝手さを隠している場合も多い。人は誰しも自分が可愛いし、現実に報いられることを願っている。

 念のために断っておきましょう。これは福田が直接言っておらず、私の推測になりますので、まちがっているかも知れないことは最初にお断りしておいて。
 エゴセントリズムはよいとしても、他人を陥れて自分が上へいこうとするのは良くありません。道徳的にではなく、利害の点で。つまり、そういうのは必ず他人の恨みを買いますので、自分もいつ陥れられないとは限らない。そのリスクだけでも、処世術としては得策ではないのです。そうでないとしても、人は必ず他人と一緒に暮らすので、憎まれていて幸せというわけにはいかない。だからこそまた、他人をいい気分にするゴマすりが有効になるわけでして。

 とはいえ、もちろん、どれほどうまく立ち回っても、何でも思い通りになる人なんていません。それどころか、どう考えても周囲が悪いか、運が悪いかで、酷い目に合う場合も決して稀ではない。
 むしろそのときが肝心なのです。たとえそうでも、できるだけ、現実を思い通りにできない自分の力不足に思いを致すこと。これは道徳的な話であることは否定できませんが、まあ、こういう心がけのほうが個人は幸福になりやすいし、世の中もうまく回りそうだ、と言われている。

 世の中に関する最も大きなところは、大きいので最後のほうに出てきますが、日本の近代化の話です。
 日本のような後発国の場合、近代化とは即ち西洋化のことであった。西洋と東洋、あるいは西洋と日本では、人間観に違いがあり(実際には同じようなものなのに違うと思われることも多いのですが)、また後発ゆえのコンプレックスもあって、明治以来の日本は、西洋崇拝(日本はまだまだオクレている)と西洋排斥(本当は日本のほうがエライ)といった、現れ方としては二極端の傾向に陥ることがよくあった。
 これはもちろんあまり幸福な状態ではありません。それに、西洋の考え方は、あくまで傾向としては、人間の自己中心性を東洋より強く捉えるところがある。強い自己主張は認められるけれど、それだけに、個人の責任も強く求める。黒白をきっぱりはっきりさせたがるので、「程々が良い」と思いがちな日本人の肌には合わない場合がある。
 それで一番困るのは、議会制民主主義のような政治制度や資本主義のような経済制度も、そういう人間観から生まれて発達してきたので、これをうまく運用するためには、日本的微温的な態度では基本的にうまくいかない場合が多い。

 何より重大なのは、民主制も自由主義も、制度であって、それ自体は、便利か不便利かはあっても、良い・悪いはないところです。これを現にいる人間がどう扱うか、こそが問題なのであって。世の中をなるべく自分(たち)で作り上げようする意識及び意欲が乏しいのが、日本の近代化にとって一番大きな障害なのです。

 ここで終わらないのが福田の凄いところです。何事も、制度や他人など、外部の問題と考えず、自分で扱うべきことだ、と考える、そういう意味で主体的であることを勧める。しかし、前に言ったとおり、自分ではどうにもならないことが、実際、世の中には多い。それを骨身にしみて味わうためにも、主体的であることが必要、と言えば逆説が過ぎますが、ここに超越的な絶対者の必要性が出てくる。
 ここが福田の一番根本的な、そしてまた難解なところなので、詳細は当ブログの以前の記事を見ていただくとして、ここではあっさり述べておきます。福田は特定の宗派に帰依することはなく、「カトリックが一番論理的に筋が通っている」という理由で親近感は表明していました。それも、初期の、小鳥と話ができたという聖フランチェスカの時代のものが最良だ、と考えていたことを本書の元の講演で明らかにしています。
 ともかく、ついに相対的でしかない人間が、絶対的なものを、ああだこうだ一見具体的に語ろうとしてはならない。それでは、その絶対を相対にまで引きずり下ろそうとする企てと変わらなくなるから。何かははっきり言うことはできないが、目に見える世界を超えたところに、価値の根源はあって、そことの、これまたはっきりと目には見えないつながりを感じることができれば、我々が生きている意味も、なんとなくわかる。

 このようにして、処世術は宗教へと繋がるのです。この全体的な構図や、個々の道筋に、どれくらい説得力を感じたかで、その人にとっての福田恆存の価値は決まります。彼から何を学ぶかは、それからの話ですので、少しでも興味を惹かれたら、どうぞ読んでみて下さい。


◎『私の幸福論』(初出は「幸福への手帳」の題で講談社の雑誌『若い女性』昭和30年~31年連載。単行本は『幸福への手帳』新潮社昭和31年→『私の幸福論』高木書房昭和54年→ちくま文庫平成10年)
 『福田恆存の言葉』を読んで、本書を思い出した。それというのも、高木書房版の「あとがき」で、「処世術から宗教まで」の講演が終わった後で、その書籍化を同社から打診されたが、特に最後の当たりがまとまらないからと断ったら、その代り、というわけでもないだろうが、本書の復刊を申し込まれた、とあったからだ。
 だから、前掲書と似通ったところはある。まず、両方とも福田にしては優しく語りかけるスタイルが共通する。そして、内容も、だが、それはどういうところか、と言うと、少し難しい。

 だいたい『幸福への手帳』→『私の幸福論』は、女性雑誌に連載されたのだが、一班女性向けの話としては非常に高度な内容である。
 別に女性を馬鹿にしているわけではなく、男にとっても、福田の思考のスタイルに慣れていない場合には、理解するのはたいへんだろう。そういう私自身の読解も、どれほど彼の真意に沿うものか、心許ないのだが、この機会に自分なりの見解を記しておきたい(理解というのは、自分自身の理解力の中に対称を閉じ込めてしまうことだ、と本書にある。だからこの試みは、誰よりも自分自身のためにするものです)。

 以下の文中の引用文はすべてちくま文庫版の『私の幸福論』から、その後の(  )内は章題です。

 のっけの章題が「美醜について」で、容貌の話。女性にとって、のみならず男性にとっても、社会で、つまり他者との関わりの中で、見た目がどれほど重要か、誰でも知っている。それだけに、公然と云々するのは控えるべきだ、という常識(でしょう)がある。それをあっさりと破った。
 なんでこういう常識があるのか? それは多分、見かけの良し悪しは、本人の努力では変えられないからだろう。
 いや、変えられる、現に多くの人が、特に女性が、改善すべく、化粧やエステやらで、努力している、と仰いますか。それはそう。でも所詮は、「ある程度」でしかない。
 それなら、見かけの美醜はその人の責任とは言い難いのだから、それを、また、それで人を評価するのは心ない技ではないか。そうれはそうです。でも、口に出して言われないだけで、評価は現になされている。

 どうするか? 低く評価されても、どうにもならないのだから、あまり過剰に気にしないことだ。これはけっこうよく聞く慰め(でもないか…)だ。福田もまず、そう言う。
 問題はその先だ。顔が良くても性格が悪くてはダメなんだから、とか、フォローになっていない、まるで美人であることが悪いような言論は、昔よく見かけたが、それはルサンチマン(嫉妬・怨恨。復讐感情)を煽り、温存させるだけのことだ。
 だいたい、ここを逆にして、不美人であれば性格がいいんだから、いいんだ、などとは言えない(ほぼそう言っているのと同じ発言を聞くことはあるが、誰でも知っているようにそれは嘘だ)のだから。

 福田はそんなことは言わない。観点を一段上げて、こう言ったのだ。自分ではどうにもならない現実は、多かれ少なかれ誰にでも必ずあり、誰もが時にいやな思いをして、苦しむ。しかし、どうにもならない現実があることは、むしろいいことなのだ、と。
 欲望が実現されたら、それはもう欲望ではない、と言ったのはマズローだったか。すべての欲望が叶うとなったら、すべての欲望は消えるだろう、というのも聞いたことがある。これは端的に、事実であろうと思う。果たしてそうなら、その結果は、生きる意欲そのものがなくなってしまうだろう。
 同じく、理想もまた、実現されることはないし、また実現されてはならない。理想というのは人間の最も高く、深いところにある欲望・希望であり、漠然としていたとしても、その人の生きる意味そのものに直接関わるもの、とまずは漠然としか言えない。

 もっとも、漠然と一人で考えているうちには、理想は夢想に過ぎない。例えば、純愛が大切だと思い定めようと、そんなものは無意味だとせせら笑おうと、それは頭の中で観念を弄ぶ、オナニーのようなものだ。いわゆる自己実現は、他者との間でなされなければならないのだ。
 しかし、オナニーにはけっこう快感がある。セックスだと相手を楽しませねばならないから、自慰(自分で自分を慰めるんですな)のほうがましだ、と言った男も知り合いの中にいた。
 だけではない。「(前略)快楽というものをつきつめていくと、どうしてもその極限には、相手を自己の欲望充足手段としか見なさぬ生き方に辿りつくのです」(「十七 快楽と幸福」)。これが現在広範囲に見られる風潮である。
 そして、この流れに身を任せたりしたら、人は決して幸福になれない。なぜなら、他人を手段・道具としか見ないなら、自分も他人からそう看做されることを避けられないからだ。
 だから人は、誰よりも自分自身のために、できるだけ幸福な人間関係を築いていかなくてはならない。そのことは、『福田恆存の言葉』では「処世術」、『私の幸福論』では「うまを合わせていく方法」と呼ばれている。
 まるで道具を扱う方法のような、軽い表現を敢えて使っているが、これは人間共同体の中に長年伝わってきた方法であり、個人はそれを受け継ぎつつまた、新たな共同性の中で新たに創り上げるべきもので、福田はこれを文化・教養(culture)と呼ぶ(「七 教養について」)。

 そしてそれこそが、すべての始まりなのである。他人とうまくやっていこうとして初めて、それはなかなかの難事であって、いつもうまくいくわけではないことがはっきりする。
 いや、そういう自分自身こそ、最も分かりづらく、思うようにならないことも分かるはずだ。この過程を経て初めて、本当に問題にすべき「自分」が出てくる。
 その意味で最も貴重な場所は家庭である。「私は理想的な家庭生活の実践者ではないが、家庭の観念については理想家であります」(「十六 家庭の意義」)。理想の家庭、また家庭の理想とは、夫と妻、また親と子の間にかけがえのない信頼関係を結べる、ということである。「私たちは家庭においてはじめて、完全な生のありかたを実現できるのです」(同前)。

 例えば、夫婦二人きりの家庭であったとしても、片方が幸福で、もう一方が不幸、なんてことがあるだろうか。もしそうなら、離婚はしていなくても、その夫婦関係は、即ち家庭は実質的に崩壊している。
 そういう意味で、この中でこそ我々は、本当にかけがえのない、全人的な関係を生きることができる。この関係性は自己完結して排他的なので、反社会的にさえなり得るが、それでも人間にとってあるべき生の形であることには変わらない。

 とは言え、福田も暗に認めているように、そのような理想を完全に実現・実践するのは、誰にとっても容易ではない。それでも、理想には意味がある。そことの距離感によって、例えば、自分はどういう意味で良き夫・良き親ではないのか、考えることで、現にある自分の姿を明確に見ることができるからだ。
 そしてさらに、自分はそうでしかあり得なかったのだ、と納得できるなら、それが即ち本当に本当の意味で「自分」である。我々は実際には、そういう「自分」見出すことをこそ求めている。快楽だけが問題なら、それを得られれば即ち勝利、得られなければ即ち敗北で、負けた場合にはただ不幸でしかない。
 しかし、本当の自分を知った者は、たとえ敗北したとしても、なお幸福であり得る。
 以上が私から見た福田恆存の人間観の核心です。

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