由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

福田恆存に関するいくつかの疑問 12(「一匹と九十九匹と」再論)

2024年12月18日 | 文学
メインテキスト:福田恆存「一匹と九十九匹と ひとつの反時代的考察」(『思索』昭和22年春季号三月刊初出。文藝春秋昭和62年刊『福田恆存全集 第一巻』などに所収)
サブテキスト:D.H.ロレンス/福田恆存訳『現代人は愛しうるか 黙示録論』(原著は1930年刊。翻訳初版は昭和26年白水社。中公文庫昭和57年)

福田恆存没後三十年記念シンポジウム 令和6年12月15日
左から林宏之氏、前田嘉則氏、金子光彦氏、由紀草一   撮影:山本直人氏

【シンポジウムでは下記のことをお話しする予定でしたが、時間が足りず(一人15分の持ち時間)、大幅に端折らなければならなくなりました。そこで、僅かな改訂を加えて、ここに発表します。「一匹と九十九匹と」については以前にも書いておりますが、別角度から取り上げていますので、重複は気にしないことにします。】
 私からは稀代の言説者・福田恆存先生の出発点の、少なくとも一つであろうことをお話ししようと思います。以後、「先生」は省きます。

 若い頃の福田恆存に影響を与えた作家というと、まずD.H.ロレンスが挙げられます。福田は昭和16年に彼の最後の著作である『アポカリプス(黙示録)』を訳出。すぐに大東亜戦争が始まったのでこの時は本にならず、戦後に『現代人は愛しうるか』のタイトルで出版されました。
 中公文庫版の「訳者あとがき」では「私に思想というものがあるならば、それはこの本によって形造られたと言ってよからう」と言っています。
 また「一匹と九十九匹と」の末尾には、

 ぼくはこの文章においてかれの「黙示録論」を紹介するつもりで筆をとつたのであるが、そこまでいたらずして終つた。が、ぼくはぼく自身の言葉で語りたかつたし、すでにその目的を果たしてゐる。

とあります。
 この『アポカリプス』の中では「集団的自我」と「個人的自我」ということが言われています。

諦念と瞑想と自己認識の宗教はただ個人のためのものである。しかしながら、人は己の本性のほんの一部においてのみ個人たりうる。他の大きな領域においては、人は集団である。

 直感的にわかりますでしょう。人間は家庭の中で生まれ育ち、現代日本だと、学校という小社会を経て、職業人として、大きな社会、最大の枠組みは国家ですが、その一員として生きる。そこでどういう位置を占めるかが、その人の、いわゆるアイデンティティですね、自分はどういう人間であるかが決まる、と言ってさしつかえない。たいへん頼もしい人だ、とか、なんだかぱっとしない奴だ、というような具合に。
 それに対して、そういう社会的評価は「本当の私」とは違う、少なくとも全てではない、なんて思いも人間は抱きがちなものです。宗教は、もちろん宗教教団の話ではない、広く何かしら超越的なものへの関心をこう呼ぶとして、そういう個人の心の中に生じるのだし、逆に、それがいつの時代にもあるのは、集団には収まりきれない個人の領域があることの証になる。
 ロレンスは後者こそ重要だと思っていました。「共同体はつねに非人間的であり、それもかならず人間以下である」とこのすぐ後では言っています。「国家は絶対にクリスト教的ではありえない。あらゆる国家はそれぞれ一つの権力である。それ以外ではありえないのだ」とも。
 そうすると、国家とは一段低い、ほとんどどうでもいいものだと、言ってはいませんけど、そう感じられる書き方になっています。

 「一匹と九十九匹と」はこの「アポカリプス」を踏まえて、というより、そこから出発して、福田流の人間観を述べたものです。
 当時の、終戦直後の文学界では、「政治と文学論争」というのが盛んで、「一匹と九十九匹と」も、その文脈で読まれたのですが、そんなのは知らなくてもいいです。時代の制約を超えた普遍的な価値のあるエッセイですから。
 ロレンスを参照すると、「九十九匹」が「集団的自我」に、「一匹」が「個人的自我」に当ることはすぐに予想できます。福田先生はこの比喩を、新約聖書の黙示録からではなく、福音書から取っています。即ちイエスの言葉。

「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたずねざらんや」(ルカ傳第十五章八節)

 この教説の解釈は、キリスト教団の内部では、いろいろと、精緻になされているのでしょうが、それもこの際関係ありません。
 素朴に読んだ場合、「え?」と思いませんか? 羊を百匹所有している。そのうちの一匹がいなくなった。そうしたら、九十九匹を、どこか囲いの中じゃなくて野っ原に置き去りにして、一匹が見つかるまで探すだろう、それが当然だ、なんて言われたら。
 「そうかあ?」となりませんか。九十九匹を放っておいて、狼に襲われたり、羊たちの内部で争いごとがおきたりしたらどうするんだ? 最悪、九十九匹も全部失われる結果になってしまうこともあるんじゃないか、と。そっちをちゃんと面倒を見てくれる人がいなかったら、成り立たない話なんですよ。
 つまり、役割分担が必要なのです。福田は、九十九匹の、集団を統べる行為が最も広い意味の政治、集団から必然的に逸れてしまう人間性に関わるものが宗教、宗教一般が昔日の力を失った現在では文学、の仕事になる、と言ったのです。
 その、九十九匹=社会的自己と、一匹=個人的自己の二つのうちどちらがより大切か、とは言いません。そのへん、神がかったところのあるロレンスより、福田恆存の方が健全な常識人であったと言えるでしょう。
 国家なんてどうでもいい、なんて言えません。国家がダメだと、その中にいる人、つまり国民と、時には外部にいる人にまで、たいへんな厄災になる実例は、今も世界中にあるわけで。
 国家も、その中の経済共同体つまり企業とか、地域共同体つまりご近所とか、一番小さいものは家庭ですが、それら共同体の安寧は人間の幸福にとって必要不可欠なものですから、そのために、政治家や公務員はもちろん、一般人も応分の努力しなければならない。
 もっとも、努力した結果、誰にとっても満足な、理想社会が実現するかというと、それは難しいでしょう。
 一応はこんなことですかね。特別な才覚はなくても、一生真面目に働いてさえいれば、誰でも、家を一軒ぐらいは持てて、子供を二、三人は一人前になるまで育てることができる。一昔前の日本はそれに近かったわけで、その程度ならなんとか、できた。私は政治にはそれ以上を期待してはならん、と思いますが、それでみんな、完全に満足か? 何も文句はないか、というと、それは、どうも……、ということになる。人間とは本当にやっかいなものです。
 やっかいなものですが、これが無視されてはならない。そうすれば結局、人間そのものの完全な疎外と抹殺に結びつくから。文学はその一匹の、個人的自己はあると示すことで、結果としてそういう警告を発する。それが言わば文学の、唯一の社会的効用ということになろうかと思います。

 なんですが、ここで近代はさらにやっかいな問題を抱えることになってしまった。

ぼくたちが個人の存在感にひけめを感じるやうになつた原因は、前世紀における個人の勝利そのもののうちに見いだされねばならぬのである。

 「すべて国民は、個人として尊重される」とか、「一人の人間の命は地球より重い」なんて、タテマエなんですけど、タテマエ上の比喩としてであれ、社会と個人の優劣など考えるべきではありません。元来次元の違うものですから。のみならず、比較するとなると、何かしら同一の尺度が必要になります。その場合は、というか尺度と言えばもう、九十九匹の側にしかない。
 その場合、どれくらい社会全体の役に立つかで、個々人の価値は変っていくと自然に感じられる。それが社会、つまり九十九匹の世界というものです。またこの九十九匹を一体として動かすための指導理念、それはその時々の社会正義と呼ばれるわけですが、その有用性も疑うことはできない。
 それでいて、民主的な社会(戦前の大日本帝国も立憲君主国なので民主国家です。為念)では、誰もが自立した個人として、国家が抱える困難な現実に「主体的に」取り組むことが求められる。特に、言葉の、観念の世界で指導者であるはずの知識階層がそうです。
 求められても、戦前の社会の貧困や、国家の最大の危機である戦争の苛烈な現実を前にすると、彼らの知識の中には現実に対応できるものはないことに気づかざるを得なかった。さらにまた、そこで守られるべき個人の価値も、どこにも見出すことができなかった。そこで現実に対応しているように見えるコミュニズムや国家主義には、その理論的な適否とは別に、いっぺんにもっていかれるしかなかった。

この現実に彼等の個人が足をさらはれたといふ意味において、ぼくは戦争中の知識階級の狂態を一時期前のコミュニズムの流行と同一視するのになんのさはりも感じない。その当時にあつても彼等の眼を奪つたものはコミュニズムそのものであるよりは現実の力であり、その反面に彼等の自我の空虚さであつた。

 昭和の終わり頃まで、高名な学者・文芸家たちの大東亜戦争中の言説がほじくり返されることが時折ありました。日本軍を讃え、戦争を鼓吹する内容が、戦後は、文章ぐるみ全部かその部分のみ削除されて、つまり隠されたのです。まことに小狡いやり方と言えますが、これが一人や二人ではない。みんなそうだったと言っても過言ではない。なぜそんなことになるのか? たぶん以下のようなことではなかったでしょうか。
 時代の波に抵抗する術は見つからないので、溺れないために、波に乗って向こう側まで行ってしまった。戦後にその波が突然逆向きになると、もうかつての心事を説明する言葉も見つからない。元来彼等の思索や意見など、厳しい現実の前では何物でもない。その身も蓋もない事実が身も蓋もなく露出してしまったのですから。
 例えば、戦争中、自分は戦争よりもっとやるべき仕事がある、というような、個々人の思いなどはエゴイズムに過ぎない。そう見える。他の多くの国民が兵士として命がけで戦っている時に、そんなものに拘るとしたら、これを正当化する言葉など見つかるもではない。
 しかし、もう一段遡って考えてみよう。エゴイズムはなぜ悪いのか。

社会正義の名によりひとびとが蛇蝎のごとく忌み憎んだエゴイズムとは、かくして社会正義それ自身の専横のもちきたらした当然の帰結にほかならぬのである。

 反論も許さぬ社会正義の押しつけこそ、個々人の欲求を単なる自分勝手にする。それでいて、社会正義のほうは、大勢に関わるから、エゴイズムとは関係ないかと言えばそういうことはない。大勢の都合を無理矢理押しつけようとする姿勢において、それもまたエゴイズムと呼び得る。

社会正義がエゴイズムに支へられてゐること、それはそれでいいが、それでゐてその事実を自覚し是認しないといふことになれば、事態は許しがたいものとならうし、わざわひはほとんど収拾しがたいものとなるであらう。

 戦後の日本社会では、戦前の共産主義、戦後の国家主義に代って平和主義が社会正義の王座を占め、そこで純粋個人は、全く当然のこととして、またしても無視された。そうせねばならぬ、と感じられたのです。

個人は社会的なものをとほして以外に、それ自身の価値を、それ自身の世界をもつことを許されない。社会は個人をその残余としてみとめず、矛盾対立するものとして拒否するのである。だが、矛盾対立するものはなぜ存在してはいけないか。

 矛盾対立するものの相乗と相克こそがこの世界を保つ。これが福田恆存の二元論です。この世界観に立脚して、世の大勢から逸れてしまう一匹の立場を守ろうとすることが、文学をベースとした先生の言論活動を貫く柱となったのです。

現代の風潮は、その左翼と右翼のいづれを問はず、社会の名において個人を抹殺しようともくろんでゐる。ゆゑに個人の名において社会に抗議するものは、反動か時代錯誤のレッテルをはられる。

 昭和22年ではまだ福田は保守反動の名を冠されてはいませんでしたが、やがてそうなるだろうことを、先生自身は早くもこの段階から予想していたようです。

 最後にこの文章では直接触れられていない、福田恆存にとっての大事なポイントを申し上げます。
 社会全体にも抗し得るような個人が成り立つためには、その個人も、共同体も、国家をも超え、また前述した現世の矛盾対立を最終的に止揚する巨大な「全体」の観念が必要なのです。西欧では、キリスト教による唯一絶対神の観念が、衰えたりとはいえ、生活意識の根底に残っているだろうと思われます。
 絶対者の前では、個人も集団もそれ自体としては相対的であるしかない。ならば、例えば国家は、もちろん個人よりはるかに強力ですし、またそうであるべきですが、理念的に、必ず上だということはなく、その意向に、本当はその時々の社会的正義に反したからと言って引け目を感じることはない。そしてまた、このような超巨大な全体の中の一部を占めるという感覚が、一個人に窮極の意味を与えるであろう。ロレンスが宗教は純粋個人のものだとした所以です。
 絶対者の観念の乏しい日本では、そのような思想的な営為は難しいことではあります。それでもなお、人間社会にはエゴイズムは至る所にあり、誰しもがそこから逃れられない現実のなかで、ごまかすことも絶望することもなく生きていくためには、「一匹と九十九匹と」の最後に言うペシミスティック・オプティミズムのためには、最上の処方箋になり得ることは疑いないと考えます。
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福田恆存に関するいくつかの疑問 その11(入門になりそうな二冊)

2024年09月27日 | 文学

三百人劇場 「東京生活日和」より

◎『福田恆存の言葉 処世術から宗教まで』(文春新書令和6年)
 これは懐かしい。本書の元は昭和51年、現代演劇協会の今はない拠点三百人劇場で行われた「土曜講座」での連続講演。ほぼ月に一回で全八回、毎回登壇する福田先生に加えてゲストが各回一人づつする、それぞれ1時間半程度の講演で構成されていました。
 私は当時大学生で福田先生と少しつながりがあり、いや、正確に言うと先生とつながりのある人とつながりがあり、入場券のもぎりなど、雑用のお手伝いをした、いや、正確に言うと、ちょっとしたお手伝いをするという形で、タダで毎回の講演を聴いたのです。ありがたい話でした。第一回目のゲスト講師は小林秀雄(このときの講演の内容は以前紹介したものです)で、この人の人気で会場は大盛況、私は通路の階段に座って聴いたのも良い思い出です。
 以下、敬称は略します。

 この講演が今回活字になったわけですが、書籍化の話は福田の生前からあり、しかし彼は「話がまとまらなかったから」と断ったそうです。今回実現したのは、文藝春秋社と先生の御次男・逸氏の尽力によります。しかし、誰が最終的にまとめたかは知りませんが、たいしたものだと感心しました。思い返せば、と言っても今そんなにちゃんと覚えているわけではないですが、読んで改めて思い出したところでは、ご当人が認めるとおり、この連続講演は、後になるほど話題が多岐に渡り、本筋が見づらくなった、そこをたいへんうまくまとめています。
 そのうまくまとまっていることを短くうまくまとめて言うのは難しい。今回は紹介が目的なので、怪しいな、と思われたら現物にあたっていただけばいいので、怪しいままに書いていくと。
 「処世術から宗教まで」というタイトルは、この中間には人間世界のたいていのことが入るから、何を喋ってもいいようにつけたんだ、と福田は最初の講演で笑って言っていた。実際は処世術、いわゆる世渡りから始まって、それを宗教、つまり神様の話につなげていく、福田独自の論理展開の妙味、というよりは人間観を簡単に味わえる。
 私見によると、一番のキーワードは「主体(性)」です。こういうと、え? と言われるかも。それじゃ福田恆存って、進歩的文化人か、つまらぬ道徳家だってことか? と。これは完全な見当外れではないけれど、肝心なのはそこまでの道筋です。

 福田はまず、ゴマすりは悪くないんだ、と言います。自分の希望、この場合欲望のほうがいいか、を叶えようとしたら、それなりの手練手管、即ち術がいる。いわゆる処世術の一種。「至誠天に通ず」なんてことはないし、第一それはあなたまかせの、怠惰な態度だ、と。
 もちろんその前提として、エゴイズム(利己主義)、というか、余計な誤解を避けるためにエゴセントリズム(自己中心主義)とここでは呼ぶことにしますが、これは認められなくてはならない。それをいけないと言ったり、なくすことができると言うのは、非現実的だし、逆にそう言う人の身勝手さを隠している場合も多い。人は誰しも自分が可愛いし、現実に報いられることを願っている。

 念のために断っておきましょう。これは福田が直接言っておらず、私の推測になりますので、まちがっているかも知れないことは最初にお断りしておいて。
 エゴセントリズムはよいとしても、他人を陥れて自分が上へいこうとするのは良くありません。道徳的にではなく、利害の点で。つまり、そういうのは必ず他人の恨みを買いますので、自分もいつ陥れられないとは限らない。そのリスクだけでも、処世術としては得策ではないのです。そうでないとしても、人は必ず他人と一緒に暮らすので、憎まれていて幸せというわけにはいかない。だからこそまた、他人をいい気分にするゴマすりが有効になるわけでして。

 とはいえ、もちろん、どれほどうまく立ち回っても、何でも思い通りになる人なんていません。それどころか、どう考えても周囲が悪いか、運が悪いかで、酷い目に合う場合も決して稀ではない。
 むしろそのときが肝心なのです。たとえそうでも、できるだけ、現実を思い通りにできない自分の力不足に思いを致すこと。これは道徳的な話であることは否定できませんが、まあ、こういう心がけのほうが個人は幸福になりやすいし、世の中もうまく回りそうだ、と言われている。

 世の中に関する最も大きなところは、大きいので最後のほうに出てきますが、日本の近代化の話です。
 日本のような後発国の場合、近代化とは即ち西洋化のことであった。西洋と東洋、あるいは西洋と日本では、人間観に違いがあり(実際には同じようなものなのに違うと思われることも多いのですが)、また後発ゆえのコンプレックスもあって、明治以来の日本は、西洋崇拝(日本はまだまだオクレている)と西洋排斥(本当は日本のほうがエライ)といった、現れ方としては二極端の傾向に陥ることがよくあった。
 これはもちろんあまり幸福な状態ではありません。それに、西洋の考え方は、あくまで傾向としては、人間の自己中心性を東洋より強く捉えるところがある。強い自己主張は認められるけれど、それだけに、個人の責任も強く求める。黒白をきっぱりはっきりさせたがるので、「程々が良い」と思いがちな日本人の肌には合わない場合がある。
 それで一番困るのは、議会制民主主義のような政治制度や資本主義のような経済制度も、そういう人間観から生まれて発達してきたので、これをうまく運用するためには、日本的微温的な態度では基本的にうまくいかない場合が多い。

 何より重大なのは、民主制も自由主義も、制度であって、それ自体は、便利か不便利かはあっても、良い・悪いはないところです。これを現にいる人間がどう扱うか、こそが問題なのであって。世の中をなるべく自分(たち)で作り上げようする意識及び意欲が乏しいのが、日本の近代化にとって一番大きな障害なのです。

 ここで終わらないのが福田の凄いところです。何事も、制度や他人など、外部の問題と考えず、自分で扱うべきことだ、と考える、そういう意味で主体的であることを勧める。しかし、前に言ったとおり、自分ではどうにもならないことが、実際、世の中には多い。それを骨身にしみて味わうためにも、主体的であることが必要、と言えば逆説が過ぎますが、ここに超越的な絶対者の必要性が出てくる。
 ここが福田の一番根本的な、そしてまた難解なところなので、詳細は当ブログの以前の記事を見ていただくとして、ここではあっさり述べておきます。福田は特定の宗派に帰依することはなく、「カトリックが一番論理的に筋が通っている」という理由で親近感は表明していました。それも、初期の、小鳥と話ができたという聖フランチェスカの時代のものが最良だ、と考えていたことを本書の元の講演で明らかにしています。
 ともかく、ついに相対的でしかない人間が、絶対的なものを、ああだこうだ一見具体的に語ろうとしてはならない。それでは、その絶対を相対にまで引きずり下ろそうとする企てと変わらなくなるから。何かははっきり言うことはできないが、目に見える世界を超えたところに、価値の根源はあって、そことの、これまたはっきりと目には見えないつながりを感じることができれば、我々が生きている意味も、なんとなくわかる。

 このようにして、処世術は宗教へと繋がるのです。この全体的な構図や、個々の道筋に、どれくらい説得力を感じたかで、その人にとっての福田恆存の価値は決まります。彼から何を学ぶかは、それからの話ですので、少しでも興味を惹かれたら、どうぞ読んでみて下さい。


◎『私の幸福論』(初出は「幸福への手帳」の題で講談社の雑誌『若い女性』昭和30年~31年連載。単行本は『幸福への手帳』新潮社昭和31年→『私の幸福論』高木書房昭和54年→ちくま文庫平成10年)
 『福田恆存の言葉』を読んで、本書を思い出した。それというのも、高木書房版の「あとがき」で、「処世術から宗教まで」の講演が終わった後で、その書籍化を同社から打診されたが、特に最後の当たりがまとまらないからと断ったら、その代り、というわけでもないだろうが、本書の復刊を申し込まれた、とあったからだ。
 だから、前掲書と似通ったところはある。まず、両方とも福田にしては優しく語りかけるスタイルが共通する。そして、内容も、だが、それはどういうところか、と言うと、少し難しい。

 だいたい『幸福への手帳』→『私の幸福論』は、女性雑誌に連載されたのだが、一班女性向けの話としては非常に高度な内容である。
 別に女性を馬鹿にしているわけではなく、男にとっても、福田の思考のスタイルに慣れていない場合には、理解するのはたいへんだろう。そういう私自身の読解も、どれほど彼の真意に沿うものか、心許ないのだが、この機会に自分なりの見解を記しておきたい(理解というのは、自分自身の理解力の中に対称を閉じ込めてしまうことだ、と本書にある。だからこの試みは、誰よりも自分自身のためにするものです)。

 以下の文中の引用文はすべてちくま文庫版の『私の幸福論』から、その後の(  )内は章題です。

 のっけの章題が「美醜について」で、容貌の話。女性にとって、のみならず男性にとっても、社会で、つまり他者との関わりの中で、見た目がどれほど重要か、誰でも知っている。それだけに、公然と云々するのは控えるべきだ、という常識(でしょう)がある。それをあっさりと破った。
 なんでこういう常識があるのか? それは多分、見かけの良し悪しは、本人の努力では変えられないからだろう。
 いや、変えられる、現に多くの人が、特に女性が、改善すべく、化粧やエステやらで、努力している、と仰いますか。それはそう。でも所詮は、「ある程度」でしかない。
 それなら、見かけの美醜はその人の責任とは言い難いのだから、それを、また、それで人を評価するのは心ない技ではないか。そうれはそうです。でも、口に出して言われないだけで、評価は現になされている。

 どうするか? 低く評価されても、どうにもならないのだから、あまり過剰に気にしないことだ。これはけっこうよく聞く慰め(でもないか…)だ。福田もまず、そう言う。
 問題はその先だ。顔が良くても性格が悪くてはダメなんだから、とか、フォローになっていない、まるで美人であることが悪いような言論は、昔よく見かけたが、それはルサンチマン(嫉妬・怨恨。復讐感情)を煽り、温存させるだけのことだ。
 だいたい、ここを逆にして、不美人であれば性格がいいんだから、いいんだ、などとは言えない(ほぼそう言っているのと同じ発言を聞くことはあるが、誰でも知っているようにそれは嘘だ)のだから。

 福田はそんなことは言わない。観点を一段上げて、こう言ったのだ。自分ではどうにもならない現実は、多かれ少なかれ誰にでも必ずあり、誰もが時にいやな思いをして、苦しむ。しかし、どうにもならない現実があることは、むしろいいことなのだ、と。
 欲望が実現されたら、それはもう欲望ではない、と言ったのはマズローだったか。すべての欲望が叶うとなったら、すべての欲望は消えるだろう、というのも聞いたことがある。これは端的に、事実であろうと思う。果たしてそうなら、その結果は、生きる意欲そのものがなくなってしまうだろう。
 同じく、理想もまた、実現されることはないし、また実現されてはならない。理想というのは人間の最も高く、深いところにある欲望・希望であり、漠然としていたとしても、その人の生きる意味そのものに直接関わるもの、とまずは漠然としか言えない。

 もっとも、漠然と一人で考えているうちには、理想は夢想に過ぎない。例えば、純愛が大切だと思い定めようと、そんなものは無意味だとせせら笑おうと、それは頭の中で観念を弄ぶ、オナニーのようなものだ。いわゆる自己実現は、他者との間でなされなければならないのだ。
 しかし、オナニーにはけっこう快感がある。セックスだと相手を楽しませねばならないから、自慰(自分で自分を慰めるんですな)のほうがましだ、と言った男も知り合いの中にいた。
 だけではない。「(前略)快楽というものをつきつめていくと、どうしてもその極限には、相手を自己の欲望充足手段としか見なさぬ生き方に辿りつくのです」(「十七 快楽と幸福」)。これが現在広範囲に見られる風潮である。
 そして、この流れに身を任せたりしたら、人は決して幸福になれない。なぜなら、他人を手段・道具としか見ないなら、自分も他人からそう看做されることを避けられないからだ。
 だから人は、誰よりも自分自身のために、できるだけ幸福な人間関係を築いていかなくてはならない。そのことは、『福田恆存の言葉』では「処世術」、『私の幸福論』では「うまを合わせていく方法」と呼ばれている。
 まるで道具を扱う方法のような、軽い表現を敢えて使っているが、これは人間共同体の中に長年伝わってきた方法であり、個人はそれを受け継ぎつつまた、新たな共同性の中で新たに創り上げるべきもので、福田はこれを文化・教養(culture)と呼ぶ(「七 教養について」)。

 そしてそれこそが、すべての始まりなのである。他人とうまくやっていこうとして初めて、それはなかなかの難事であって、いつもうまくいくわけではないことがはっきりする。
 いや、そういう自分自身こそ、最も分かりづらく、思うようにならないことも分かるはずだ。この過程を経て初めて、本当に問題にすべき「自分」が出てくる。
 その意味で最も貴重な場所は家庭である。「私は理想的な家庭生活の実践者ではないが、家庭の観念については理想家であります」(「十六 家庭の意義」)。理想の家庭、また家庭の理想とは、夫と妻、また親と子の間にかけがえのない信頼関係を結べる、ということである。「私たちは家庭においてはじめて、完全な生のありかたを実現できるのです」(同前)。

 例えば、夫婦二人きりの家庭であったとしても、片方が幸福で、もう一方が不幸、なんてことがあるだろうか。もしそうなら、離婚はしていなくても、その夫婦関係は、即ち家庭は実質的に崩壊している。
 そういう意味で、この中でこそ我々は、本当にかけがえのない、全人的な関係を生きることができる。この関係性は自己完結して排他的なので、反社会的にさえなり得るが、それでも人間にとってあるべき生の形であることには変わらない。

 とは言え、福田も暗に認めているように、そのような理想を完全に実現・実践するのは、誰にとっても容易ではない。それでも、理想には意味がある。そことの距離感によって、例えば、自分はどういう意味で良き夫・良き親ではないのか、考えることで、現にある自分の姿を明確に見ることができるからだ。
 そしてさらに、自分はそうでしかあり得なかったのだ、と納得できるなら、それが即ち本当に本当の意味で「自分」である。我々は実際には、そういう「自分」見出すことをこそ求めている。快楽だけが問題なら、それを得られれば即ち勝利、得られなければ即ち敗北で、負けた場合にはただ不幸でしかない。
 しかし、本当の自分を知った者は、たとえ敗北したとしても、なお幸福であり得る。
 以上が私から見た福田恆存の人間観の核心です。
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舞姫・明治の国際恋愛

2024年07月31日 | 文学


メインテキスト:六草いちか『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』(講談社平成21年、河出文庫令和2年)
        同『それからのエリス いま明らかになる鷗外「舞姫」の面影』(講談社平成25年)
林尚孝『森鴎外と舞姫事件研究』(公開開始平成26年)

 鷗外森林太郎の小説家としてのデビュー作「舞姫」には基になった事実があることはよく知られている。何より、ドイツから日本まではるばる林太郎を訪ねてきた女性に、彼の親族や友人数名が会っている。しかし二人の関係の詳細は、ほとんどわかっていない。それでも、何しろ我が国近代文学史上屈指の大作家の、しかも、当時は非常に珍しかった国際的な、情痴沙汰ではない、恋愛沙汰である。いろいろな空想を働かせる余地が大きいところも相俟って、現在まで多くの考察の対象となってきた。
 この女性の名前はエリーゼ・ヴィーゲルト(Elise Wiegert)であることは、中川浩一・沢護両氏が明治21年の週刊英字紙『ザ・ジャパン・ウィークリー・メール』に掲載されていた横浜港出入港者名簿から発見して、『朝日新聞』昭和56(1981)年5月26日夕刊に発表していた。
 その後ドイツ在住の作家・六草いちか氏が古い住民票や教会の教会簿を精査し、多くのことを明らかにした。何しろエリーゼの妹の孫と面談するところまでいったのだから、大したものだ。林太郎との関わり合いについては依然としてほとんどわからないままだとはいえ、19世紀末に森林太郎に出会い、特別な間柄になったこのドイツ人女性について、これ以上の情報は今後もおいそれと出てこないだろう。
 私は鷗外という人については、好き嫌いを言えば好きになれないものを感じているが、以前に少し述べたように、近代日本初頭の知識人として、西洋思潮とまともに対峙した人物の一人であることは認めざるを得ない。彼の青年時代の、国境を越えた恋物語はどういうものだったか、それは小説「舞姫」以上に意味深い可能性がある。週刊誌的な、俗な興味もあることは否定しないが、それを交えつつ、この間の彼の心事に思いを馳せてみよう。
 資料、というよりは想像のガイドとしては、前記六草氏の著作とともに、茨城大学農学部の名誉教授で独自にこの問題に取り組み、令和2年に逝去なされた林尚武氏の考察がネット上に出ているので、ありがたく使わせていただく。

 彼女のフルネームはエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルト(Elise Marie Caroline Wiegert)で、1866年9月15日、現在はポーランド領であるシュチェチンで生まれた。因みにこの地名は、「舞姫」中に、主人公・太田豊太郎と添い遂げようとするエリスの決心の堅さを見て、強欲な母親がついに折れ、「わが東に往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんとぞいふなる」というところで一度だけ出てくる。現実のヴィーゲルト家の、縁者もいただろう。あるいはエリーゼは実際、林太郎にこのようなことを言ったのかも知れない。
 ただ、エリーゼの誕生時、彼女の父は既に軍役を終えてベルリンで銀行員として勤務しており、彼女も洗礼が終わるとただちにベルリンへ移った。15歳のときに父が死亡。その後は母が、仕立屋をして女手ひとつでエリーゼとその妹を育てた(「仕立物師」は「舞姫」ではエリスの父の職業になっている)。
 一方林太郎は明治17(1884)年に陸軍派遣留学生としてドイツに到着、ライプツィッヒ→ドレスデン→ミュンヘンでの研究と仕事を経て、明治20年から1年3ヶ月の間ベルリンに滞在した。
 彼とエリーゼの出会いはどのようなものであったかはわからない。林尚孝氏は、林太郎の「獨逸日記」中にある、ミュンヘンで漢詩を贈った「舞師某」、つまりダンスの先生某(なにがし)こそ彼女ではないか、と推測している。それなら「舞姫」と平仄が合うわけだが、その可能性は低い。後年の彼女の職業からして、母親の仕事を手伝っていた、といったところではないだろうか。ほぼ確かなのは、彼らの交流の場は主としてベルリンだったろう、ということぐらいである。

 明治21(1888)年9月8日、林太郎は帰国する。その4日後の12日、エリーゼが横浜に着く。この年、林太郎二十六歳、エリーゼ二十一歳。
 従来、エリーゼが一方的に林太郎を追って来日したのだ、と思われていたが、それは違う。林太郎がベルリンを去ってロンドンやパリで三週間過ごした後、上司である石黒忠悳(いしぐろ ただのり)といっしょにマルセイ港を発ったのは7月29日、エリーゼはその4日前にドイツのブレーメン港を出航している。しかも一等船室の乗客として。
 その船賃は1750マルク。これは林太郎のライプツィッヒ滞在費用の17ヶ月分に相当するそうで、庶民の、母子家庭の娘がおいそれと出せる額ではない、ここから、エリーゼは富裕な家の令嬢であるとか、逆に高級娼婦だったという説も出てきた。しかし、六草氏はこれは林太郎が支払ったのだろうと推察している。官費留学生の身分ではあったが、彼はその頃から欧文の翻訳を多数依頼されており、その謝礼金を貯めればかなりのものになったろうから、と。
 果たしてそうなら、エリーゼ来日の目的は一つしか考えられない。林太郎と結婚するためだ。そしてそれは、林太郎の望みでもあったはずだ。
 それは実現しなかった。それどころか、エリーゼが翌10月17日に離日すると、林太郎はさらに1ヶ月後の11月22日、赤松則良男爵の長女登志子と結納を交わし、正式に婚約している。これはどういうことか。この不思議さが、林尚孝氏らのいわゆる「舞姫事件」の核心であり、また鷗外森林太郎の人物像を観ようとする者に深い陰影を感じさせずにはいられない要素である。

 まず、赤松登志子との縁談について、わかっていることをやや細かく述べる。
 この斡旋をし、後に媒酌人を務めたのは、旧幕臣で当時の政府要人であり、また森家の遠縁で恩人と言ってよい西周(にし あまね)だった。彼が遺した日記は、手書き文字の解読に手間取ったこともあり、この件に関する一級資料である箇所が翻刻されたのは平成10年になってからだった。その、明治21年9月10日の条には次のようにある。
舛子、午後、千住〈の〉森氏を訪ひ、林太郎の帰京を賀し、且赤松との縁談を申し込む。彼方よりの返答を申置く」(舛子は西夫人。〈 〉内は由紀の付け加え)
 林太郎帰国の2日後、エリーゼ来日の3日前という絶妙な時期に、赤松登志子との縁談申し込みがなされた、ということだ。しかしこれは正式な、という意味であって、雑談風の打診なら以前からされていた可能性がある。
 さらに『西周日記』の9月18日には「森ばゞ来り婚約の返辭を述ぶ」とある。初めて話をもちかけてから8日後に返事では、いくら当時でも早すぎる。さらに、この「ばゞ」の部分は最初「林太郎」だと解読され、彼自身が婚約を承諾した、と取られていた。エリーゼはまだ日本にいるにもかかわらず。それならば、林太郎は、本心ではエリーゼとの結婚など望んでいなかったということだろう。しかし実際は、返事をしたのは彼の祖母だった。本人はどうだったのか?
 林太郎の妹・小金井喜美子(星新一の祖母)が書いた「次ぎの兄」という回想記に、この件について、家人が「ただ本人の気持に任せて置きます」と返事をすると、直接に林太郎に尋ね、こちらはまた「両親の気持次第に」と答えた、とある。
 尋ねたのは西家だろう。それが10日以前なら、まだ林太郎の滞欧中に、手紙でしたこと、ということになる。果たしてそうなら、エリーゼを呼び寄せたのは、家族を初め周囲に意中の人を見せつけて、赤松家との話はきっぱりと破談にするつもりだったとも考えられる。が、なにしろ林太郎はそういう果断な行動には及んでいない。
 貴美子の回想にはいろいろ問題があることは現在では知られている。例えば、エリーゼの名を「舞姫」のヒロインそのままのエリスと標記していることなど。しかし、後の結婚後の成り行きからしても、時期はともかく、林太郎がこの件について、しばらくは煮え切らない態度をとっていたのはまずまちがいない。その間に、森家は、特に祖父母が強引に話を進めたものだろう。海軍中将である赤松との婚姻は、軍医としての林太郎の将来も、森家のそれも、明るくするのは間違いないから。
 それだけではない。当時「陸軍武官結婚条例」というものがあり、士官が結婚できるのは「行状端正」であって、またそれを証する者が必要とされていた。林太郎は留学の段階で陸軍軍医として中尉相当の士官の地位にあり、その点でまず外国人女性との結婚には高いハードルがあった。現在でも、警察官や自衛隊員は、国際結婚は可能だしその実例もあるが、出世はまず望めなくなる、と知り合いの元警官から聞いたことがある。
 では林太郎は、出世のために恋人を捨てたのか? 結局は、そういうことになる。しかし、今の一般庶民とはまるで感覚が違うことは考えに入れるべきだろう。
 林太郎は、若くしてその才を帝国陸軍、ひいては大日本帝国から見込まれ、海外留学に送り出された。明治人としては、恩義を感じるのが当然である。それ以上に、まだ出来たばかりで「普請中」(鷗外の後の小説の題名)の明治政府は、特に医学のような国の発展に直接関わる部分では、林太郎のような優秀な頭脳を本当に、切実に必要としていた。男として、その期待に応えなければ嘘だ、と自然に感じられたろう。
 森家から見ても、元津和野藩の御典医だった父・静男は、上京して医院を繁盛させていたが、そろそろ隠退を考えていた。弟が二人いたが、長男で大秀才の林太郎が去ったら、家にとってたいへんな損失である。そのように感じられるのがごく普通の時代だった。そのうえで林太郎は親孝行で、母には絶対服従のようなところがあったらしい(小堀杏奴「晩年の父」)。それで「(結婚は)両親の気持次第に」と言って、時間稼ぎをしようとしたのも不思議はない。
 ただそれも、欧州滞在当時ならまだしもで、帰国して、恋人も近くにいた状態でなおこんな態度だったとしたら、優柔不断にも程があると言えるだろう。悪く言えば、そこを祖父母につけ込まれて、結婚承諾の返事をされてしまった。それにも唯々諾々と従ったのだとすれば、もはや不誠実と変らない。
 それでも、林尚孝氏は、林太郎の欧州からの帰国の旅日記である「還東日乗」中の、特に漢詩「酔太平」などから、彼は陸軍を辞めようとした決意した形跡があると言っている。他にもこれに同意見の人は多い。そうだとしても、同僚からも友人からも家人からも懇願され責められたなら、彼もついに我を折らざるを得なかったのは想像に難くない。ドイツにいればドイツ娘との結婚も可能だと意気込んだが、帰国して日本社会の中に身を置いたら、それはいかにも非現実的な夢だと見えてきた、といったところか。

 エリーゼのほうは、前出の「次ぎの兄」によると、「手芸が上手なので,日本で自活して見る気で『お世話にならなければ好いでしょう』というから,『手先が器用な位でどうしてやれるものか』というと,『まあ考えて見ましょう』といって別れた」と林太郎が母・峰子に打ち明けたそうだ。言葉も満足に話せない日本へ行って、誰の世話にもならず、手芸で自活して、林太郎との結婚の日を待つ、ということか。この通りのことを言ったのだとすると、二十歳そこそこの世間知らずの娘の蛮勇か、あるいは元来勝気な性格か、おそらく両方だったろう。
 日本にいた35日の間は、築地精養軒ホテルに滞在していた。林太郎の両親は、彼女のことも、彼女が日本にいることも知っていたが、一度も会っていない。林太郎の弟の篤次郎(三木竹二)とはけっこう懇意になり、一度買い物に同行すると、彼女は日本の袋物に興味を示したということだ。
 それ以外に貴美子の夫・小金井良精がよく会っているが、彼は森家の意を受けて最初からエリーゼを早く帰国させることに努めたようである。
 そして10月17日、林太郎・篤次郎・小金井良精に、林太郎の親友・賀古鶴戸(かこ つると。相澤謙吉のモデルとされる)の四人は、エリーゼを見送るために横浜港に赴く。林太郎は最初、横浜駅まで行って引き返すつもりだったのを、最後にせめてもの誠意を示すために、艀に乗って客船まで同行したのだろうと、林尚孝氏は推測している。
 このとき、「舷でハンカチイフを振って別れていったエリスの顔に,少しの憂いも見えなかった」という夫・小金井良精の言葉を喜美子が記している。全幅の信頼はおけない喜美子の文中に、さらに伝聞として出てくる情報だし(喜美子はエリーゼには会っていないのだから、彼女に関することはすべて伝聞なのだが)、その上に「様子」を観察した夫の目を通してなのだから、伝言ゲームなみにいろいろな媒介がはさまっていて、実際はどうだったか、即断はできない。しかし、六草氏はここから、このときのエリーゼはまだ林太郎とのことをあきらめていなかったのではないか、と推測している。
 傍証になりそうなものに、林太郎の遺品の一つに、モノグラムと跳ばれる、Mori RintaroのイニシャルMとRを中心にデザインした、ハンカチ入れの刺繍型(上の写真)がある。これは喜美子や林太郎の長男・森於菟らの証言で、エリーゼから林太郎への贈り物だったとされている。古いドイツの風習では、新婦の嫁入り道具として、夫のイニシャルをデザインした刺繍を贈る習慣があったそうで、これによって、二人の間では結婚の約束がされていたのだろう、と言われてきた。
 しかしこれはエリーゼのお手製でも、特注品でさえなく、古道具屋で探せばほぼ同じものが見つかる一般商品の可能性が高いことを発見したのは他ならぬ六草氏だった。それでも同氏は、肝心なのは物ではなく、それを彼に贈った気持ちなのだ、としている。
 それは一方的に裏切られたようである。エリーゼの帰国2ヶ月後に、賀古鶴戸が、陸軍中将山縣有朋(天方拍のモデルとされる)に随行して渡欧している。この時彼は、旧知のエリーゼを尋ね、林太郎の婚約のことを告げたかも知れない。「舞姫」のエリスの叫び「我豊太郎ぬし、かくまでに我をば欺き玉ひしか」は、このときの実際のエリーゼのものだったのかも知れない、と六草氏は言う。
 他方、日本滞在中の森家の扱い、つまり、林太郎の両親が会いに来るでも、向こうから招待されるでもなく、義弟の小金井は最初から帰国を急かす、などからして、少なくとも日本での、林太郎との正式な結婚は無理だ、と一ヶ月ほどの期間で見極めたのではないかと私は思う。さればとて、林太郎がすべてを捨ててドイツの、彼女の元に走っても、待っているのは、それこそ「舞姫」の、豊太郎とエリスと同種の悲劇でしかないではないか。
 林太郎ほど賢明でなくても、その程度の予想はつく。エリーゼは、たいていの男より向こう見ずだったとしても、恋人がそう予想していることは察するだろう。林尚孝氏は、自分のために林太郎が苦境に立たされていることがわかって、身を引いたのかも知れぬ、と言う。私はどちらかと言えばこれに賛成する。帰国の船上で晴れやかな顔を見せたというのが本当なら、「吹っ切れた」というところではないだろうか。
 因みに、エリーゼの帰りの船賃は森家が出して、篤次郎が支度をした。横浜から最初の寄港地神戸までは来たときと同じ一等船室だが、それからジェノヴァまでは二等船室だった。このような扱いも、エリーゼは、ベルリンで甘い時を過ごしたかつての森林太郎以外の日本人には厄介者でしかない、と思い知らせるものだったろう。その林太郎も今となっては畢竟向こう側の人間である。たとえ、彼女の旅費を節約するために、船出の時以外は二等船室に移し、イタリアのジェノヴァからベルリンまでは汽車で行かせるようにしたことは、彼の与り知らぬ事だったとしても。
 
 「舞姫」は、前述の賀古の帰国直後に、わずか一週間ほどで書かれている。これを読んだ人は、ついに一人の女性を破滅に追い込んだ太田豊太郎の優柔不断ぶりに歯がゆい思いがすることだろう。同様の批判は当時からあった。
 明治23年2月に前月「舞姫」が発表されたのと同じ雑誌『國民之友』に文芸評論家の石橋忍月が「舞姫」と題する批評文を気取半之丞の筆名で発表。同作の主人公太田豊太郎が子まで成した女性を捨てて功名出世を選んだからには、「胆大にして且つ冷淡」な人物でなければならないのに、彼は「小心翼々たる慈悲に深く恩愛の情に切なる者」である。これは物語の構成として破綻ではないか、と批判している。
 これに対して林太郎は、相澤謙吉の筆名で、つまり豊太郎にエリスを捨てて帰国することを勧めた親友が豊太郎を語るという体裁で、「舞姫に就きて気取半之丞に与ふる書」を、自身が創刊した文芸誌『しがらみ草子』に出し、反駁している。豊太郎が日本へ帰る戦中で書いた形式の「舞姫」の冒頭近くに、「(前略)人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ変り易きをも悟り得たり。きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感触を、筆に写して誰にか見せむ」とある。つまり彼は、大胆でも冷酷でもなく、心の弱い者であり、エリスとの一件を通じて、そのことを思い知らされることになった、というのが全体の構成であって、それを破綻と言うのは妄評である、と。
 作品評としては林太郎の言うほうが正しいが、作者として、ある意味では悪意よりたちの悪いこのような人格的な弱さをどう感じているのか、作品からも自作評からも浮かんでこない。決して自己弁護はしていないけれど、「わが心の変り易さ」と正面から向き合おうというわけでもない。今後はそれを克服しようというのか、それとも一種の宿痾として抱えていこうというのか。それはフィクションに仮託しても、ついに語り得ないことだったようだ。
 恋愛事件そのものは、もちろん今でもそんなに珍しいものではない。さらに、この頃の官費留学生はエリートであり、現地の女性と懇ろになるのは、むしろ普通だった。日本人の男がそんなにモテたものか、と思う人もいるかも知れないが、ヨーロッパは基本的に階層社会であり、下層の女性には東洋人であっても上層の後光は眩しかったろうし、もっと単純に金銭づくの関係もあった。エリスがそうであったとされたような、劇場の踊り子との関係も、近いものを林太郎も見聞きしていたかも知れない。
 その中に置けば、林太郎のエリーゼへの扱いは、まだしも誠実なものだったと言える。しかしそれも、彼の気持ちの中だけの話であって、社会的な立場をも超えてどうにかするほどの強さはなかった。
 それもまたありふれた話ではある。ただ少し気にかかるのは、林太郎は、結局は権威に屈して愛を捨てた自分の不甲斐なさに苛立ちを感じ、それを文学として昇華することもできず、行き場のないモヤモヤをしばらくの間保っていたかも知れないところである。
 彼は赤松登志子と、翌年2月に結婚、さらに翌年の9月には長男の於菟をもうけているが、その後すぐに離縁している。この頃の林太郎は日に日に痩せ衰えて顔色も悪く、その身を案じた母・峰子が率先して別れさせたらしい。彼女は晩年まで、この結婚を無理に勧めたことを後悔していたそうだ。
 林太郎もまた、登志子とは気が合わない、とは言っていた。しかし、思うに、彼女のほうにばかり原因があったわけではないだろう。この時期の彼は、前出『しがらみ草子』を創刊した一方、医学会誌『東京医事新誌』の主筆に推されたのに、東大時代の恩師らと医学会問題をめぐって対立して、すぐにその座を逐われた。石黒忠悳との仲も悪くなり、後のことになるが、西周からは、離婚問題によって義絶された。彼の生涯で最も多事多難な時期であった。
 それくらいならば、エリーゼと結婚しても、そんなに大きな相違はなかったのかも知れない。あの迷いは、あの不誠実は、なんのためのものだったのか。登志子がそんな、行き場のない苛立ちの行き場にされたのだとしたら、彼女こそこの事件最大の被害者と言えそうだ。彼女はその後、他家に嫁いだか、明治33年、30歳を少し越えた若さで病没している。

 登志子との離婚後に、またエリーゼを呼び寄せて結婚してもよかったのではないか、という疑問がふと頭をよぎったが、それは愚問だ、という答えがすぐに浮かんだ。あの一ヶ月余りのうちに、結婚問題については彼ら二人の間では決着がついたのだろう。人間的な強さや弱さに関わらず、取り返しのつかないことはあるのだ。
 しかしながら、その後も林太郎はエリーゼと長く文通を続けた。これが一番驚くべきことだ。そこで何が語られたのだろう。
 林太郎は、死期が近づいた時、後妻の志げ(茉莉を筆頭とする二女二男の母)に命じて彼女に関わるすべての手紙や写真類を焼却させた。かくして、我が国近代初頭の、国境を超えた類稀な愛(やはり、そう呼ぶべきだろう)の記録は、モノグラムの型を除いて日本からは永遠に失われた。あとは、ドイツで、エリーゼが遺したがものが将来発見される可能性がほんの少しあるだけだ。
 彼女は、帽子制作者として16年間自活して独身で過ごした後、1905年に38歳で結婚している。1902(明治35)年には、林太郎は18歳年下の前記荒木志げと再婚しているので、手紙でそれを知った彼女は今度こそ本当に「吹っ切れた」気分だったのかも知れない。その夫とも1919年に死別、さらに第二次世界大戦をも生き延び、1953年、老人ホームで亡くなっている。享年86歳。
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物語作者としての宮澤賢治 下(銀河鉄道の夜)

2024年04月08日 | 文学

杉井ギサブロー監督 「銀河鉄道の夜」(昭和60年)

メインテキスト:宮澤賢治「銀河鉄道の夜」(ちくま文庫『宮沢賢治全集7』昭和60年刊。第一~三次稿も「異稿」として収録されています)

 「銀河鉄道の夜」は大正末にはすでに一定の形にまでなっていましたが、その後賢治にとっては晩年の昭和五、六年まで改訂が続けられたことは比較的よく知られていました。しかし従来全集や作品集を編纂してきた編集者たちは、賢治の生原稿まで見ることはさほどはなかったようで、刊本によってけっこう異同があったのです。私が小学校の頃に初めて読んだのは、たぶん、谷川徹三編で昭和26年に出た岩波文庫『童話集 銀河鉄道の夜 他十四篇』を基にしたもので、以後これを旧版と呼びます。【岩波文庫には現在もこのテキストで入っています。】
 その後昭和46~48年に、入沢康夫と天沢退二郎が、遺されていたすべての生原稿を精査し、用紙やインクや書体などから、作品の生成過程を可能な限り明らかにしました。その成果は、まず『校本宮澤賢治全集』(筑摩書房全十四巻別巻一)に収められています。
 「銀河鉄道の夜」については、大きな改訂だけでも三回施されています。賢治が生前に手入れした最後のものは、けっこうまとまっているのですが、これを「決定稿」と呼ぶのは入沢・天沢両氏とも反対しています。それでも、この発見以後、「銀河鉄道の夜」と言えば、この第四次稿または新版と呼ばれるものを指すことになり、各種の全集や作品集に入っている他、アニメ映画「銀河鉄道の夜」の原作になったのもこれです。

 第四次稿と第三次以前の原稿は、「風野又三郎」と「風の又三郎」ほど別の話になっているわけではないのですが、かなり重要な変更があります。最大は、第一次稿から登場していて、銀河鉄道の旅を言わば主導していた人物・ブルカニロ博士が消失してしまったことです。
 結論から言うと、これによって、作品のテーマというか、大枠の構造が次のように変化したことが認められます。
 旧版〈少年が宇宙の神秘に目を開かれる〉→新版〈孤独な少年の魂の彷徨〉
 以下、これについて述べます。

 第四次稿=新版ならば、第三次稿=旧版なのかというと、必ずしもそうではありません。
 まず第三次稿には、「一 午后の授業」→「二 活版所」→「三 家」と続く冒頭部分がなく、「ケンタウル祭」から始まります。ジョバンニは街にいて、「ぼくはまるで軽便鉄道の機関車だ」と考えながら元気よく走っているのだが、同級生のザネリとすれちがった時、「どこへ行ったの」と訊き終わる前に「ジョバンニ、お父さんから、らつこの上着が来るよ」と冷たい言葉を投げつけられる。
 そこから主にジョバンニの内面の声によって、
(1)彼の父は遠洋漁業に出て長いこと留守なのだが、実はらっこや海豹の密猟をしていて、そのときのいざこざで人に怪我をさせてどこか遠くの国の牢屋に入っているという噂があること、
(2)彼の母は一家を支えるために農作業に従事していたのだが、無理がたたって体をこわしてしまったこと、
(3)そのためにジョバンニは朝は新聞配達、夜は活版所で働き、せっかくの祭の日なのに、遊びにも行けないこと、などがわかる。そして今彼はおつかさんのために、届かなかった牛乳を取りに来たのだった。
 牛乳は「今日はない」と言われる。金さえあればどこかで買うことが出来るのに。そこから、裕福で、賢くて、誰からも好かれているカムパネルラへ憧れる思いが浮かぶ。歩いていて再びザネリを含む子どもたちの一団とすれ違うと、また「らつこの上着」を囃し立てられる。その中にはカムパネルラもいて「気の毒さうに、だまつて少しわらつて、怒らないだらうかといふやうに」見ていた。
 すっかり悲しくなったジョバンニは、家へは帰らず、川を越えて暗い林を抜けて天気輪の柱のある丘の頂上にまで着く。そこで牛乳の川=milky way=銀河を眺めているうちに、いつの間にか銀河鉄道の中にいる。それも、カムパネルラといっしょに。

 ここから、本作のボディである、魅惑に満ちた銀河の旅が始まるのですが、今回は物語の構成だけを考えます。いきなりブロカニロ博士までいきましょう。もっとも彼は、実際に姿を現すまでに、「セロのやうな声」で「ひかりといふものは、ひとつのエネルギーだよ」など、ジョバンニの心の中に語りかけていろいろ知識を授けるのですが。
 彼が「黒い大きな帽子をかぶつた青白い顔の痩せた」姿を現すのは、旅の終わり、カムパネルラが突然姿を消して、ジョバンニが「はげしく胸をうつて叫びそれからもう咽喉(のど)いつぱい泣きだし」たとき。次のようにジョバンニを教え諭す。

(前略)みんながカムパネルラだ。おまへがあふどんなひとでも、みんな何べんもおまへといつしよに苹果(りんご)をたべたり汽車に乘つたりしたのだ。だからやつぱりおまへはさつき考へたやうに、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなと一しよに早くそこに行くがいい。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいつしよに行けるのだ」

 この次に博士は、一頁が一冊の(地球の各時代の)地歴の本になっている本を開いて、人類の意識の歴史を語り、やがて科学と宗教が一致する真理、人類全体の本当の幸福の時代が訪れる(ということだろうと思います)、そのためにこそ「一しんに勉強しなけあいけない」とジョバンニを励ます。

 やがてジョバンニは元の丘の上にいる。そこにも博士はいて、「私は大へんいい實驗をした。遠くから私の考へを人に傳へる實驗をしたいとさつき考へてゐた」と言うので、銀河鉄道の旅はすべて博士の「考へ」をジョバンニに伝えたものらしい。そして、「僕きつとまつすぐに進みます。きつとほんたうの幸福を求めます」と力強く言うジョバンニに別れを告げ、「さつきの切符です」と、銀河鉄道でズボンのポケットに入っていることを発見した緑色の紙(「こんな不完全な幻想第四次の銀河鐵道なんか、どこまででも行ける」切符だと言われた。曼荼羅ではないかとも言われる)を改めて渡す。林の中を通って家へ帰る途中、ポケットが重いので、調べてみると、緑色の紙の間に金貨が二枚包まれていた。これでおっかさんに牛乳を買える。

 何かいろいろのものが一ぺんにジヨバンニの胸に集つて何とも云へずかなしいやうな親しいやうな氣がするのでした。
 琴の星がずうつと西の方へ移つてそしてまた蕈(きのこ)のやうに足をのばしてゐました。


 以上が、第一次稿から三次稿まで共通した作品の末尾です。

 推測を交えて言うと、旧版は次のようにできあがったのでしょう。
 まず、第四次稿で登場した「一」から「三」まで、つまり、学校の授業で、銀河について説明を求められてうまく応えられないところから、活版所でのアルバイト、家で病気のおっかさんと会話し、彼女のために届かなかった牛乳を取りに出かけるまで、すべてジョバンニの体験として直接描写された部分は活かす。結果として、「四 ケンタウル祭〈第四次稿で「ケンタウル祭の夜」、と改められた〉」で説明過剰になる部分は削る、そこまでは賢治自身がやっています。
 ところで、「三 家」で、おっかさんの直の言葉から新たに与えられた情報があって、ジョバンニの父とカムパネルラの父は小さい頃から仲が良く、その関係で、ジョバンニは、以前はしょっちゅうカムパネルラの家へ行って、いっしょに遊んだ、ということです。
 ここでジョバンニの淋しい生活を描くだけでなく、以前は全く登場していないカムパネルラの父について言及したことは、第三次稿までは宙ぶらりんにされていた二つの〈現実〉の事情、
①カムパネルラはどうなったのか、
②ジョバンニの父は今どういう状態で、これからどうするのか、

をきちんと伝える最初の伏線です。
 実際にここは明らかにされました。カムパネルラは川に落ちたザネリ(ジョバンニを一番苛めていた子)を助けるために自ら川に飛び込み、行方不明になってしまうのです。
 因みに、「三」でジョバンニが外出する直前、おっかさんが「川に入らないでね」と注意します。こういう細かい伏線を張れるのも物語作者としての才能ですね。
 第四次稿初登場のカムパネルラの父は、河原にいて懐中時計を眺めながら「もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから」と言い、またジョバンニに、「あなたのお父さんはもう帰つてゐますか」と問いかける。「ぼくには一昨日大へん元気な便りがあつたんだが。今日あたりもう着くころなんだが。船が遅れたんだな」。

 さて、物語の重要な結束点というべき、原稿用紙で五枚ぐらいのこの場面は、第四次稿で初めて登場したわけですが、これは明らかにあったほうがいいですね。最初は確かに生きて活動していたカムパネルラが、銀河鉄道の中からは消えて、現実世界ではどうなったのか、わからないのではどうしてもおちつかない。
 それでまた、作品中のどこに置かれるべきかと言うと、やはり最後に、言わば謎解きのようにあるのが、一番適当なようです。実際作者・賢治も、わかっている限りでは最後に、そのように物語を締めくくることにした。しかし、では、ブロカニロ博士に勇気を与えられる、元の最後の会話はどうなるか。二つの結末はどうしても並び立たないので、賢治はとりあえず、潔く前のを消すことにしたのですね。
 今思いついたのですが、博士はあくまで銀河鉄道の中にいるだけで、そこから目覚めたジョバンニが川へもどって、カンパネルラの現実の死を知る、という筋立てはできそうです。なぜそうしなかったのか、賢治がもう少し長生きしてなお改稿したら、そんなふうにした可能性があるのかどうか、もちろん想像するしかありません。
 因みに新版の最後は次のようになっています。

 ジョバンニはもういろいろなことで胸がいつぱいでなんにも云へずに博士〈これはブロカニロではなく、カムパネルラの父〉の前をはなれて早くお母さんに牛乳を持つて行つてお父さんの帰ることを知らせやうと思ふともう一目散に河原を街の方へ走りました。

 旧版の最後にある「何とも云へずかなしいやうな親しいやうな氣」のうち、「親しいような」は見当たらなくなります。また、「みんながカンパネルラだ」という言葉もなくなったので、カムパネルラの幻想と現実双方での消失は、ジョバンニにとってどんな象徴的な意味があるのか、よくわかりません。父の帰宅という嬉しいニュースはあるとはいえ、淋しい気分のほうが強く残ります。
 牛乳については、新版では、銀河の旅から目覚めたジョバンニは、川へ行く前にまず再び牛乳屋へ行って無事に手に入れますので、ブロカニロ博士から金貨をもらわなくても、おっかさんに牛乳を持って帰るという外出のミッションを果たすことはできます。それで、新版からは、「セロのやうな声」を含めて、ブロカニロ博士は跡形もなく消されます。
 思うに、旧版の編集者たちは、宮澤賢治の思想を直截に述べていると思えるこの超越的な人物がいなくなることは、どうも了解できなかったのでしょう(単純に、賢治の推敲がちゃんとわからなかっただけの可能性はもちろんありますが)。それで、問題の、カンパネルラの死に関する部分を、銀河鉄道に乗る前にもってきて、その後は第三次稿そのままで完成作としたのでしょう。
 結果として、ジョバンニは、
一度天気輪の丘で眠って→その後川へ行ってカムパネルラの死を知る→その後でなぜかまた丘に戻って→銀河鉄道に乗る、
ということになってしまいました。
 新版が出るまでは気づかなかったのですが、考えてみれば、これは物語としてはけっこう無様、とまでは言わなくても、スマートさには欠けます。賢治という人は、このへんの物語作者としての感覚も、ちゃんと備えていました。

 さて最後に、どうしても暗く淋しい気分が勝る新版、そのために人によっては、旧版のほうがいい、とも言われるこの改変は何に拠るのか。物語の構成をきちんと整えるため、というのは、上で暗示したことで、それは小さな要素ではありません。しかし、それだけではないとすると。
 夢幻譚である「風野又三郎」から「風の又三郎」への改編で、現実の子どもを生き生きと描きながら、その現象の底に潜む奥深い世界をも開示して見せることに成功した賢治が、ここでももっと現実に寄せた物語にしたくなったのでしょうか。それも考えられます。
 もう一つ。旧版では、ジョバンニはブルカニロ博士の実験動物のようです。それで最後に、友を喪う悲哀の意味も、(凡人にはよく理解できないながら)教わり、それが救いになるのです。新版には、ジョバンニを教え導いてくれる大人はもういません。彼はこれから独力で

夢の鐵道の中でなしに本當の世界の火やはげしい波の中を大股にまつすぐに歩いて行かなければいけない〈←旧版の、ブルカニロ博士の言葉〉

のです。その厳しさ。何人かの親友と、最愛の妹とし子を喪った賢治の覚悟と、裏腹の寂寥感が、ここには滲み出ているのかも知れません(これについては以前当ブログ記事「銀河鉄道に乗る前に」で省察を述べました)。
 いや、人間は、さほど厳しい境涯ではなくても、大なり小なり、みんなそうなんじゃないか、とも、今の私の頭の中にはぼんやり浮かびます。
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物語作者としての宮澤賢治 上(風の又三郎)

2024年03月22日 | 文学


メインテキスト:宮澤賢治「風の又三郎」
        同「風野又三郎」
        同「ざしき童子のはなし」
サブテキスト:天沢退二郎『謎解き・風の又三郎』(丸善ライブラリー平成3年)

 別役実さんは、宮澤賢治関連だと、NHK少年ドラマシリーズ「風の又三郎」(昭和51年、上図の引用元)や杉井ギサブロー監督のアニメ映画「銀河鉄道の夜」(昭和60年)のシナリオを手がけています。その彼が、短いエッセイの中で、あるとき「宮澤賢治ってハイカラなんだよね」とふと知人に洩らした話しを書いています。知人からは、怪訝な顔で、「だけど、それだけじゃないよ」と返された、と。そりゃあそうで、そんなことが言いたいわけではないよ、でも、じゃあ、何? というのは言い難い、というところで終わっています(『イーハトーボゆき軽便鉄道』記憶で引用)。

 私もこれは気にかかります。賢治自身は岩手を離れたことはほとんどないのに、明確にこの地を舞台にした童話はほとんどない。それどころか、日本でもない場合が多い。例えばジョバンニとかカンパネルラとかは、イタリア人名です。が、では「銀河鉄道の夜」の舞台はイタリアなのかといえば、どうもそうではない。ケンタウルス祭なんてお祭りは、実際にはどこにもない。
 賢治は、外国かぶれなんてものではないのはもちろんですが、身近な生活感覚を直接描くことは、いくつかの例外を除いて、あまり喜ばなかったようだ。「頭の中でこしらえた観念なんて、しょせんはニセモノだ」なんて信仰が強かった日本では、これ自体が珍しい。

 では、賢治の頭の中にあった場所は? 地名としては、何語ともわからない「イーハトーブ」(あるいはイーハトーボ、イーハトヴ)が有名です。その正体は、『イーハトヴ童話集 注文の多い料理店』(大正13年出版)の広告文の中で「実にこれは著者の心象中にこの様な状景(アリスの辿った鏡の国など)をもつて実在したドリームランドとしての日本岩手県である」と彼自身が打ち明けています。実在の岩手が基だが、そこを詩人の精神で転換した心象(イメージ)、しかし〈心象としては実在する〉世界なのだ、と。
 では、ジョバンニたちがいるのはイーハトーブか。銀河鉄道の旅だけならそう言えても、そこへ行くまでの学校やお店や川がある街は、どうも少し違うように感じます。このへん賢治の世界はあまりにも多様で多元的だ、と凡人の私には平凡そのもののことしか言えないのですが、その入口の一つかな、と思えるところを軽く述べてみます。

 例えば、民話という、ある地域の人々の集合無意識というか、むしろ意識上のかな、のイメージに対しても、このような転換は働くようなのです。

 「ざしき童子のはなし」は、賢治の生前に活字になった数少ない童話の一つ(尾形亀之助主催の雑誌『月曜』大正15年2月号に発表。童子はここでは「ぼっこ」と呼ばれます)で、岩手県に伝わる、しかしたぶん賢治のおかげもあって今や全国的に有名になった、童形の妖怪だか神だかのエピソードを四つ並べたものです。ごく短い作品ですが、不気味だったり悲しかったりユーモラスだったりと、賢治童話の様々なテイストを、端的に味わうことができます。

 因みに、賢治の故郷の花巻、現在の花巻市から山を一つ越すと遠野市になります。ここ出身の佐々木喜善(号は鏡石)が、故郷の民話を柳田國男に語ったものを柳田が文章にまとめた『遠野物語』(明治43年)は、現在民俗学の最初期の古典として知られています。この中にも座敷童子(あるいは、座敷童衆)の話は出てきますが、内容はほぼ同じ話でも、軽妙な語り口は賢治独自のものです。
 いや、軽妙と言っていいかどうかはわかりません。「遠野物語」のもの哀しい山人と、賢治童話のとぼけた味わいを備えた山男の違いのようなものがある、ということです。

【その後故郷に戻った佐々木喜善は、座敷童子関連の話を収拾する活動の一環として、賢治の童話に目をとめ、手紙を出し、そこから二人の交流が始まります。実際に宮澤家を訪れたのは昭和七年、賢治は既に病床にありましたが、その後数回会談しています。賢治は喜善より十歳年少で、喜善が信仰していた大本教を痛烈に批判したりしたのですが、喜善は「宮澤さんにはかなはない」「豪いですね、あの人は。全く豪いです」と言っていたそうで、彼は宮澤賢治のすごさを最も早いうちに認めた一人のようです。】

 話自体が際立って印象的なのは、前から二つ目のエピソードです。
 どこかの家のふるまい(お祝い事、でしょう)におよばれした子どもが十人、座敷で輪になってぐるぐる回って遊んでいた。それがいつのまにか十一人になっていた。「ひとりも知らない顔がなく、ひとりもおんなじ顔がなく」、それでも数えるとどうしても十一人。その増えた一人がざしきぼつこだ、と大人に言われて、「けれどもたれがふえたのか、とにかくみんな、自分だけは、どうしてもざしきぼつこでないと、一生けん命眼を張つて、きちんとすわつてをりました。/こんなのがざしきぼつこです」。

 ちょっとみると、子どもの悪戯の微笑ましさがありそうで、じっくり考えるととても怖い話です。のみならず、生きている者が神隠しにあったり、死んだ者がこの世に甦ってくる『遠野物語』の世界とは違う種類の不気味さを感じます。
 だいたいの感じだと、異界、あるいは異界の者がこちらに入り込むやりかたが、「ハイカラ」なんです。だからこれは宮澤賢治のオリジナルか、原型はあっても、日本のものではないのではないか、と思えるのですが、確信はなく、とんだ勘違いかも知れません。先行話がここにある、と御存知の方は、教えてください。

 天沢退二郎さんは、このざしきぼつここそ、「風の又三郎」に登場する謎の少年の前身ではないか、という説を述べたことがあるそうです。あるいはそうかも知れません。

 天沢さんは、入沢康夫さんと共に(二人とも仏文学者で詩人という共通点がある)、宮澤賢治の生原稿を徹底的に精査し、それまで刊行されていたテキストは賢治が書き残したものとはかなり違う場合があることを発見し、その成果から筑摩書房の『校本宮澤賢治全集』を編んだ人です。特に「銀河鉄道の夜」の、主に構成上の大変更は、私が大学生の時に遭遇した最大の文学的事件でした。これについては後で書きます。
 「銀河鉄道の夜」と並ぶ二大傑作と呼ぶべき「風の又三郎」(しかしこの二作のテイストはずいぶん違います)についても、新事実を教えてもらいました。

 まず、大正13(1924)年頃に完成したらしい原稿があって、そこには明らかに題名として「風野又三郎」と記されていた。冒頭に「どっどど どどうど どどうど」で始まる歌(これにはシンコペーションを使った洋風のかっこいい曲をつけることを、賢治は希望していたそうです)が置かれ、「谷川の岸に小さな四角な学校がありました」(『四角の』は後に削除)と書き出される。夏休みが終わった九月一日、小学生たち(全学年の児童が同じ教室で学ぶ)が登校して外から教室の中を見ると、そこに奇妙な子どもが座っている。これが物語の導入部です。
 この後の部分は、昭和6~8年頃に大改訂された、というより、新たに書かれたとしか言いようのないものになりました。ただし題名は、原稿でも作品について記された各種のメモでも、一貫して「風野又三郎」なのですが、賢治の死後に出版された文圓堂版全集で初めて活字になった時、編集者の考えで「風の又三郎」とされ、以後それが踏襲されているのです。

 最初期の「風野又三郎」も、これはこれでなかなか魅力的ですので、「風の又三郎〈異稿〉」などとされてある程度は知られていたものが、『校本宮澤賢治全集』以来、「風野又三郎」の題で、各種の全集・童話集に収録されています。本稿でもこの名称に従います。

 「風野又三郎」をあと少したどりますと、このとき教室の中にぽつんと一人で座っていた子どもは「をかしな赤い髪」で、「変てこな鼠いろのマントを着て水晶かガラスか、とにかくきれいなすきとほつた沓をはいてゐました」と、実に怪しい。そして教室内に入った小学生が話しかけても何も応えないので、「外国人だな」とも言われます。ガラスの靴って、シンデレラのあれですかね? まあ、この子は、怪しいだけでなく、〈ハイカラ〉なんです。
 その後原稿が何枚か欠けていて、はっきりとはわからないのですが、どうもこの子どもは先生など、大人には見えないらしい。そして、いつの間にか教室から消えている。あれはなんだったのか? と子どもたちが飽きるほど考えていると、次の日の放課後、そのうちの二人が山で再び巡り会う。そして、「汝(うな)ぁ誰だ」と訊かれて、「風野又三郎」と応える。「ああ風の又三郎だ」とこちらは納得する。

 このやりとりから、〈風の又三郎〉はコロボックルとかドワーフとかホビットとか座敷童子とかいう種族あるいは一族名だと推察されます。実際、新潟から東北にかけて、風三郎・風の三郎・風の又三郎などと呼ばれる風の神を祀る信仰は広く認められるそうで。一方〈風野又三郎〉は、おそらくは大正期の、岩手県の小村に現れた童形の者の固有名なのでしょう。
 もっとも、彼の兄も父も叔父も風野又三郎だと言うのですが……。ともかく、神霊という特別な者が人間の姿で現れるのは特別なことなので、特別に特別を重ねたものが風野又三郎なのです。因みに〈風野又三郎〉の表記は自分で名乗る時だけで、あとは子どもたちの言葉でも地の文でも、ただの〈又三郎〉でなければ〈風の又三郎〉表記です。

 風野又三郎は、前述のように、学校に現れたときには何も言わず、次の日に喋り出したときには、名前も正体も少しも隠しません。そして九月九日までの間、自分が風として世界中で体験したことを生き生きと語ります。活動場所は地球全部なので、扮装は洋風だというわけかな、と少し思いますが、それは語られないまま、十日の風の強い日には村を去って行きます。
 村の子どもたちは話を聴くだけで、自分からは何も行動しません。これは弱点ではなく、そういう作品だというだけです。しかし、では、風野又三郎はなぜ、最初小学校の教室に現れて、子どもたちを驚かせたのかなあ、と思うと、うまい回答は見つかりません。

 そのこともあって、だと思いますが、新版の「風の又三郎」だと、焦点の童形の者の正体は曖昧にされ、格好と標準語を話すところが少し変わっていますが、村の子どもたちといっしょに遊びます。
 登場したときには、元の「風野又三郎」と同じく、夏休み明けの教室に一人でぽつんと座っているのですが、格好は、やはり赤毛で「変てこなねずみいろのだぶだぶの上着を着て、白い半ずぼんをはいて、それに赤い革の半靴」と、やはり怪しいけれど、マントはなくなり、また靴も変わっています。その理由は後でわかります。それでやっぱり話が通じず、「外国人だ」と言われ、やはりいつのまにかいなくなっている。

 しかし、その後、先生に連れられて再び姿を現し、お父さんの仕事の都合で「けふからみなさんのお友だちになる」高田三郎くんだ、と紹介される。だけでなく、いつの間にか「白いだぶだぶの麻服を着」た大人が教室の後にいて、学活が終わったとき先生に近づいて「何ぶんどうかよろしくおねがひいたします」と挨拶して、三郎を連れて帰ります。これは三郎のお父さんということで、つまりこの子は家庭まで含めて大人にも存在が認められている、普通の子どもなのです。
 それでも村の子どもたちの間では、少しの言い争いの後、あれは又三郎だということに一決し、以後ずっと「又三郎」と呼びます。当の本人はそう呼ばれても抗議もせず返事をしますが、それ以上自分が又三郎なのかそうでないかについては触れません。因みに地の文では〈三郎〉と表記され、〈風野又三郎〉表記はこちらでは一度も出てきません。

 この後三郎が、一見村の子どもたちと溶け込んで様々な活動するリアルな話が続きます。その筋の運びと描写の手腕は大したものです。しかし一番注目すべきなのは、普通の日常が、異界に接近し、重なる部分の手際のよさです。

 前半のヤマ場は、最初の日の二日後なので九月三日(「風野又三郎」では章題代わりに日付が記されているが、「風の又三郎」ではそれはすべて消えている)。馬が集められている場所へ子どもたちが入り、怖がる様子をからかわれた三郎が口惜しがって競馬をやろうと言い出す。馬は最初なかなか動かなかったが、走り出すと、そのうちの一頭が土手の切れているところから外へ逃げる。三郎と嘉助という少年がそれを追う。土手の向こうはすすきやたかあざみが生い茂って視界が悪く、崖にも接していて危険なので、立ち入りが禁じられている場所だった。嘉助はやがて三郎も馬も見失う。霧も出てきて帰り道がわからなくなり、嘉助はついに草の上の昏倒する。

 そんなことはみんなどこかの遠いできごとのやうでした。
 もう又三郎がすぐ目の前に足を投げだしてだまつて空を見あげてゐるのです。いつかいつものねずみいろの上着の上にガラスのマントを着てゐるのです。それから光るガラスの靴をはいてゐるのです。

(中略)
 又三郎は笑ひもしなければ物も言ひません。ただ小さなくちびるを強さうにきつと結んだまま黙つてそらを見てゐます。いきなり又三郎はひらつとそらへ飛びあがりました。ガラスのマントがギラギラ光りました。

 この前の文に「嘉助はとうとう草の中に倒れてねむつてしまひました」と明らかに書いてあるのに、この時は嘉助は目を覚ますでもなく、まるで以前からそうだったように、又三郎になった三郎がいて、ガラスのマントを光らせて空へ昇ります。いやあ、お洒落ですねえ。

 この時は一人の少年の幻視ですが、やがて村の子どもたち全員の前で、異界が一瞬、口を開きます。

 嘉助は三郎といっしょに救出されて、無事に家に帰ることができ、次の日から普通に皆といっしょに外で遊びます。三郎も、負けん気の強さは折々見せるのですが、まずます無事にその集団に参加しています。その話が続いて最後に、川での〈鬼ごっこ〉の場面になります。
 三郎が〈鬼〉になると、嘉助にからわかれたこともあって、むきになって村の子を川につかまえ、「三郎の髪の毛が赤くてばしやばしやしてゐるのに、あんまり長く水につかつてくちびるもすこし紫いろなので、子どもらはすつかりこわがつてしまひました」と、文字通り〈鬼〉に近い様子になる。すると……、ここは長くなりますがやはり引用しなければならないでしょう。

 そのうちに、いきなり上の野原のあたりで、ごろごろごろと雷が鳴り出しました。と思ふと、まるで山つなみのやうな音がして、一ぺんに夕立がやつて来ました。風までひゆうひゆう吹きだしました。
 淵の水には、大きなぶちぶちがたくさんできて、水だか石だかわからなくなつてしまひました。
 みんなは河原から着物をかかえて、ねむの木の下へ逃げこみました。すると三郎もなんだかはじめてこはくなつたと見えて、さいかちの木の下からどぼんと水へはいつてみんなのはうへ泳ぎだしました。
 すると、だれともなく、
「雨はざつこざつこ雨三郎、
 風はどつこどつこ又三郎。」と叫んだものがありました。
 みんなもすぐ声をそろへて叫びました。
「雨はざつこざつこ雨三郎、
 風はどつこどつこ又三郎。」
 三郎はまるであわてて、何かに足をひつぱられるやうにして淵からとびあがつて、一目散にみんなのところに走つて来て、がたがたふるへながら、
「いま叫んだのはおまへらだちかい。」とききました。
「そでない、そでない。」みんないつしよに叫びました。
 ぺ吉がまた一人出て来て、
「そでない。」と言ひました。
 三郎は気味悪そうに川のほうを見てゐましたが、色のあせたくちびるを、いつものやうにきつとかんで、「なんだい。」と言ひましたが、からだはやはりがくがくふるへてゐました。


 物語「風の又三郎」はあと少し続き、余韻を残す終わりを迎えますが、転校生高田三郎はもはやどんな姿でも村の子どもたちの前に姿を現すことはなく、お母さんがいるという北海道へ戻ると言われます。

 この物語にはいくつかの解釈が可能ですが、一応自分のを言っておきましょう。
 高田三郎はまず普通の子どもですが、村の子に「風の又三郎だ」と言われ、どういう気持ちでだか、その役を演じているうちに、いつか本物の異界を呼び寄せてしまったのです。
 それは山村の人々の無意識と、一番奥底で繋がっていて、時々「遠野物語」に収められた各種の民話として現出するものです。詩人はこれをさらに〈心象としての実在〉として、地方色を脱したスマートに、しかしやはり怖いものとして、描き出すことに成功しました。
 やっぱり平凡なんですが、戦前の日本の田舎にいて、よくこんなものが書けたなあ、と驚嘆するばかりです。
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書評風に その6(夢野久作、スティーヴン・キング、アイラ・レヴィン)

2023年12月28日 | 文学
 極私的怪奇小説ベスト3を挙げます。今はホラーと言ったほうが普通なんでしょうが、後に「小説」をつけると、個人的には「怪奇」のほうがしっくりします。ともかく、超自然の要素(らしきもの、を含む)がある小説の中から、比較的強く記憶に残っている長編三作品、並べてみると、改めて、三作とも、作風というか、主題あるいは中心の思想というか、はまるで違うことがわかりました。そこがまた面白い、とこれまた個人的に思っています。ネタバレを含むことは了承してお読み下さい。

◎夢野久作「ドグラ・マグラ」

「ドグラ・マグラ」 松本俊夫監督 昭和63年

 おそらく世界一奇妙な小説です。わけがわからないということなら、私が若い頃文学オタクの間では流行っていたヌーボー・ロマンとか、たくさんあるんですけど、これは一応わけはわかるのに、奇妙なんです。読んだ人は気が狂う、と言われているようですが、私は(たぶん)大丈夫だったので、大丈夫でしょう。
 何が変なのかって、まず時間感覚。分量はドストエフスキー「罪と罰」と同じぐらい。こちらはエピロローグを除いて、作中で〈現在〉として進行する時間は二週間、そこに折々過去の回想がはさまる。「ドグラ・マグラ」の語り手は記憶喪失者で、彼が体験する〈現在〉は一晩、あるいは一瞬かも知れない。それでいて千年以上前の歴史も絡んでくる。それに、これだけ長い小説なのに、章立てがなく、時間は連続しているが、最初と最後はぴたりと重なって、円環を成す。
 ただし、中ほどには、変人の精神医学者・正木博士が、畢生の大論文「脳髄論」の内容をさまざまな形式で書き遺したという「絶対探偵小説 脳髄は物を考える処に非ず」など六種の文書が、〈私〉に示され、その中身が本作の三分の一ほどの部分を占める。ここで示される脳の機能論(脳はすべての細胞に貯蔵されている記憶をまとめる、オーケストラの指揮者の働きをする)も、全体の時間概念も、一度だけ名前が出てくるベルクソンを思わせるが、もちろん科学的な真相が問題であるわけはない。また、人間は胎児のうちに、細胞中の記憶を夢に見ている、というユングを思わせる説が、重要なプロットとして使われているが、ユングの名は登場せず、作者がどれくらい本気でこれを信じていたかも明らかではない。
 六種中の他の文書の中には、「ドグラ・マグラ」という題名の、大学の付属病院に入院していた学生(それが〈私〉であることは推測できるが、明確にされない)が書いたとされるものもあって、「超常識的な科学物語」か、などと評されている。中身はもちろんこの小説全体ということになるのだろう。こうして作品の〈内〉と〈外〉もメビウスの輪のようにつながっている。
 ここまで凝った構成なのに、〈私〉の語りは平易で、緊張の糸が途切れることなく持続していて、読み終ると、「とても長い短編小説」だな、という気がします。そこが一番すごい。テーマを一言で表現すると、「時間と記憶の鬼ごっこ」というところでしょうか。それがこんな構成を必要としたのだな、ともよく納得されます。
【↑の映画は、原作小説の一つの解釈を軸にして、迷宮のような世界をうまくまとめた名作です。この中で正木博士を好演した桂枝雀がその後鬱病で自殺したのは、多少因縁めいて感じます。】

◎スティーヴン・キング「It」

It, directed by Andy Muschiett, 2017

 一番根幹のはずの、怪物イット〈それ〉の設定が、ちょっとどうかなあ、と思えます。宇宙の誕生時に既にいた、悪の根源なんだとされるんですが、そんな究極的にすごいものが、アメリカの小さな田舎町の地下に潜んで、子どもの恐怖心を餌にしている、というのは、スケール感がちぐはぐじゃないか、と。
 だいたい、〈それ〉の本当に本当の正体なら、小説の最初の頃に、簡潔に言われている。「あいつはこの町そのものなのよ」と。至って平凡な町なのだが、その底には人々の集合無意識と呼ぶべき悪意が淀んでいる。七人の主人公たちは最初ローティーンとして登場し、虐待、喘息、肥満、などが原因で、それぞれトラウマがある。前々回述べたことだが、子どもにとって我が身に降りかかる悲惨は、不条理で、悪意そのもに見えるものだ。彼らが「負け組クラブ」を結成して、悪意の象徴である〈それ〉と戦うことでトラウマを乗り越えようとする、それが本作のプロット。
 しかし子どもの頃には〈それ〉を倒しきることはできず、27年後、町からは再び子どもが消えるようになる。かつての戦いを通じて固い絆で結ばれた七人は、黒人の子一人を除いて、町を出て皆けっこう社会的な成功者になっているのだが、このときの戦い後に交わした約束を思い出し、故郷に戻る。ただし、そのうちの一人は、おぞましい体験が再び甦ってくることに耐えきれず、自殺してしまう。残る六人が、町の不潔な地下道を辿り、再び〈それ〉と巡り会う。
 本作は成長物語です。大人になるためには、発達課題をクリアしなければならない。しかしそれが成し遂げられたとき、辛かったけれど懐かしくもある子ども時代は失われる。その端的な象徴として、成長した元「負け組クラブ」の誰にも子どもはいないし、〈それ〉の消滅とともに、幼い頃の記憶は失われる。後には達成感と裏腹な哀切感が残される。奇怪な冒険物語を借りて、そのような心の過程を痛切に描き出した、そこに本作の真価があります。
【最近できた映画は、けっこうヒットしたようですが、どうも少し……。主人公たちの子ども時代を描いた前編はいいのですが、後編の「End」は(原作では子ども時代編と大人編が交互に、ないまぜに進行するのですが、それを映画でやってはエンタメとしてはあるまじきほどにわかりづらくなるから、時代別に二つに分けた配慮は、しかたないことでしょう)。風船に結ばれて宙に浮いている子どもたちの画像は怖いですけど、ペニーワイズが蜘蛛の格好になって暴れるのは、「これが恐怖の本体だっていうなら、結局全部冗談かよ」という気分になってしまいました。】

◎アイラ・レヴィン「ローズマリーの赤ちゃん」

Rosemary's Baby, directed by Roman Polanski, 1968

 揺るぎない構成が冴え渡っています。題材は「悪魔の花嫁」とでも言うべき、いかにも古いゴシック・ロマンそのものなんですが、それを1960年代のアメリカに完全に生かしきっています。
 夫は駆け出しの俳優で妻は専業主婦の若夫婦が、ニューヨークの近代的なアパート(ジョン・レノンが住んでいて、その前で射殺されたダコタがモデルだという話を聞いたことがある。でもあれ、高級アパートのはずで、売れてない俳優の稼ぎだけで借りられるのか? と少し疑問)に引っ越すことになった夫婦の、日常的な生活の、トリビアに渉る描写から、周到に伏線をはりめぐらせていって、ついに完全に異常な世界にまで違和感を抱かせることなく話を運ぶ。そのために、話の途中で妊娠する(これがキー・ポイント)妻の不安定な心理状態も非常に効果的に使われていて、作者は男性なんですが、よく勉強しているなあ、と思えます。
 そしてまた、母性の強さによって、強大な悪と戦うヒロインの姿は、非常に感動的です。
【こちらの映画は、今日まで名画として知られていますね。ミア・ファローのスクリーン・デヴュー作で、若妻を初々しく演じているのも好感度が高いですし、原作の本質を生かして、さりげなく恐怖感を高めていく演出も見事です。先に小説を読まずに見たら、きっと怖い思いをしたでしょう。】
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書評風に その5(フランツ・カフカ 孤独の三部作)

2023年10月29日 | 文学

The Trial, directed by Orson Welles, 1962

メインテキスト:カフカ/池内紀訳『失踪者』(白水社uブックス平成18年)
        フランツ・カフカ/原田義人訳「審判」
        同「城」

 最近ようやく「失踪者」(元は「アメリカ」と呼ばれていた)を読み、へえ、カフカって人もまともな小説を書こうとしたことがあったのだな、と一瞬思った。
 主人公はカール・ロマンスという十七歳のドイツ人。女性から「可愛いわね」と何度か言われるところからすると、美少年らしい。おかげで、三十代の女中に誘惑されて、孕ませてしまい、両親に家を追い出されて、アメリカへ赴く。カフカ自身はこの新大陸へ行ったことは一度もなく、従ってこの地の描写は読んだり聞いたりしたことから作者がこしらえたものだが、かなりのリアイティを感じさせるのはやはり才能と言うべきだろうか。
 ここで主人公はしょっちゅういさかいばかり起す。招待されて行った銀行家の邸宅では、そこの令嬢と取っ組み合いの喧嘩さえして、しかも負けている(もっとも、勝っていたら、若い女性に暴力を揮ったということで、もっとやっかいなことになっていたろう)。
 そんなこんなで、彼はやっと落ち着いたかな、と思えた場所から必ず追い出される。最後に調理長(女性)の好意で就けたホテルのエレベーター・ボーイの職も逐われる。この部分の筋立ては、濡れ衣を着せられる話で、その経緯はちゃんとわかるように描かれている。
 だから主人公に感情移入しやすいのだが、この作品中の男性たちは、非人間的なまでに厳しく、自分のルールを一方的にカール君に押しつけてきて、しまいには彼を捨ててしまうので、どうも幸福な結末は見えてこない。
 カフカは、チャールズ・ディケンズ「ディビッド・コパフィールド」のような小説が書きたい、と友人のマックス・ブロートに言っていたらしい。これに限らず「オリヴァー・ツイスト」や「大いなる遺産」など、ディケンズの青少年主人公の周りには、悪人も出てくるが、それ以上に親切な人々がいて、主人公を助けるので、彼らは最後には幸せになる。
 どうも都合がよすぎる、いわゆるご都合主義だ、なんて言うのは野暮というもの、それはそういうフィクション(作り事)として楽しむしかない。
 カフカは、読むときはそれでいいとして、自分では書けなかった。才能より、世界観の問題として。だからカール君は、しまいには広大なアメリカ大陸の中で、失踪してしまう、つまり、一定の結末にたどりつく前に消えてしまう。

 さらに言うと、近代の長編小説は、ハッピー・エンドではなくても、首尾一貫した世界を、言葉で構築するものだ。なになにという男/女がいて、かれこれやって、これこれの結末に至る、と。小説だけではなく、一般人でも、自分の体験を人に説明するように求められた時には、嘘をつくつもりはなくても、できごとを取捨選択して、整理して言うので、「事実」とは微妙に違った何かになってしまう。そこまで踏み込むと収拾がつかなくなるので、やめよう。
 とりあえず、バルザックを初めとするリアリズムの大作家たちは、自分から見た世界とは例えばこういうものだ、という雛形を示して見せた。それがどの程度に「事実」に基づくか、作家の頭の中でこしらえたものかは、二次的以下の問題でしかない。ただ、物語全体が、必然性、と感じられるものに貫かれていないと、文字通り話にならない。
 言い換えると、小説とは、普段は現実世界に埋没している一般人に、ある「見通し」を与えるものだと言えるだろう。この場合、作者はいわば神の視点に立つわけで、それ自体が欺瞞と言えば欺瞞だ。なんて言うと前と同じ野暮になる。イヤなら読まなければいいだけの話なんだし。

 でも、自分ではそんな見通しは持てない、と思いつつ、読むだけに止まらず、物語めいたものを書こうとするとどうなるか。
 その一つの実践例が、カフカの三つの長編小説(これを「孤独の三部作」と命名したのは例によってブロート)で、すべて未完になるしかなかった。
 もっとも、「審判」は、最初を書いてからほとんど直ちに、主人公が「犬のようだ」と呟きつつ無残に殺される最後が執筆されたらしい。あとはこの中間を作ればいいわけで、実際かなりの分量が書き残されている。それでも、「あるとき、なぜだかわからないままに告発された」から「やっぱりわからないままに処刑される」までを、必然性を伴って繋いでいく筋を見つけることは、どうしてもできなかったらしい。では、なんのために何を書くというのか?
 カフカを生涯支配した最も強い感情は、この世界は理不尽な支配構造でできている、というところにあったらしい。そこを一部でも可視化する、つまり見通しをつける(例えばジョージ・オーウェル「1984」はそういう小説だ)ことさえできないけれど、この支配は人間を踏みつけにする不当なものだ、という思いは捨てられない。
 そこからして、ジタバタと抗う心理的な必然性はある。特に「城」は、不可解な権力に完全に絡め取られているような状況と、単身で戦い続ける話だ。
 構造がぼんやりとしか見えていない以上、この戦いが有効かどうかもわからない。それでも続けられるのは、カフカは、この世に正当な秩序を与え、善と悪の根拠を、罪と罰の真の照応を、さらには救済をもたらす何か(やっぱりベースはユダヤ教かなあ)はあると信じた、あるいは信じたがっていたからだろう。
 「審判」中の有名な「掟の門」のエピソードにあるように、そこに至る門は、彼のために用意されていて、しかも開かれているのに、なぜかどうしても入ることはできない。しかし、ともかくそれはある。
 あるいは「皇帝の使者」という印象的な短編小説、というより散文詩というべき掌編にあるように、福音(喜ばしい便り)がもたらされる見込みはまずないのに、「夕べが訪れると、君の窓辺に坐り、心のなかでそのたよりを夢想」せずにはいられない「単独者」こそ彼であり、そのような存在に共感が持たれる人のために、かつまた、そこから振り返って見た世界の姿に悪夢のような説得力を感じる人のために、カフカの文学はある、と言えるだろう。

 せっかくだから、未完とはいえ、このような文芸作品が登場した背景について、思うところを書きつけておきます。
 これらの作品の執筆時期は、「失踪者」が1912―14年、「審判」が1914―15年、「城」が1922年。つまり、20世紀の初頭。
 その少し前に、前回述べたロシアのアントン・チェホフが人生に意味を見出せず、苦しんでいる者たちの劇を書いた。それでも彼らは、孤独と徒労感に耐えて生き続けることを選ぶ。「ああ、可愛い妹たち、わたしたちの生活は、まだお仕舞いじゃないわ。生きていきましょうよ! (中略)もう少ししたら、なんのために私たちが生きているのか、なんのために苦しんでいるのか、わかるような気がするわ」などと言って(「三人姉妹」神西清訳)。
 彼らが静かに生活していけるのは、ぎりぎりのところで、神、としか呼びようのないものを信じているからだ。カフカもそれを完全に捨てているわけではないのは前述した通りだが、「ワーニャ伯父さん」(1900年)や「三人姉妹」(1901年)にあるような、深い諦念を抱えて生きる心境を描くことはできなかった。
 それは、本人の性格の他に、勤労者の身分がけっこう関係しているかも知れない。
 チェホフ劇に出てくるのは、当時のロシア社会の上流か、中の上には属する人々で、働いてはいても、生活のために是非そうしなければならないというほどのことはない。だから、他人に使われている意識は薄く、社会的上位者(上司)からの圧迫は、さほど感じずにすんでいる。
 一方、例えば「城」の主人公・Kは、測量士を職業としている。城に住む領主・伯爵に雇われて、ある村にやってきた、はずなのだが、「城の一部だ」と自称する村人たちには疑われ、証拠を見せても、まともに相手にされない。城には行けず、責任者には会えないし、連絡もつかない。そうなると、彼がここにいいる最低の権利も認められない。それなら、普通、そんな場所からはさっさと離れるか、正式なお達しがくるまで大人しく待ってみるか、だと思うのだが、Kはどちらも選ばなかった。
 彼はあくまで自分の正当性を主張した。対手の村人は、それに正面から反論するのではなく、宥めたりすかしたり、脅したり(「そういう態度はあなたの不利になるばかりですよ」など)するばかり。どうも彼ら自身が、Kの雇用の実態についてはまるで無知だし、城と村の権力関係についても詳細は知らず、ただ昔からの慣習に従っているばかりのようだ。
 いわゆる「お役所仕事」で、このようなことを経験した人は少なくないだろう。これは実は、本当の権力者と直接対峙するより、徒労感が増すから、よりやっかいだと言えるし、すると、こういう曖昧な層を纏うことが、権力構造を守る役にも立っているようでもある。
 これに対してKは、「ああ言えばこう言う」方式を倦まずに繰り返し、葛藤し続ける。そのやりとりは、焦点が定まらず、従って決して噛み合わない。思い返してみると、これまた、我々の日常生活のコミュニケーションには、その類いはたくさんある。だからリアルなのだが、小説という枠組みの中に大幅に取り入れたのは、カフカをもって嚆矢とするのではないかと思う。
 そのようなコミュニケーション不全の関わりを続けるKを、宿屋の女将は「反抗的で子供のよう」だと評する。「いつでも『ちがう、ちがう』といって、自分の頭だけでうけ合い、どんな好意ある忠告さえも聞きのがす」のだ、と。そうだ、Kも、「審判」のヨーゼフ・Kも、「失踪者」のカール少年と同様、あるいはそれ以上に子どもっぽい。
 だからカフカが憧れつつ反抗しているものに敢えて名をつけるとしたら、ユダヤ教の強い家父長制下の「父」であることは、ごく一般的な見方で、異論はない。後の作品の方向性を決めたとされる短編「判決」(1916年発表)は、父に完全に否定されたために、自殺する青年の話だ。「失踪者」や「審判」に実際に登場して主人公を叱ったり否定したりするのは、父ではなく伯父だが、これは家庭の構造を一般社会にまで広げて見るための工夫と言ってよい。
 とはいえ、「変身」(角川文庫)の最新の訳者である川島隆によると、フランツ・カフカの父は行商人から身を起こして、アクセサリーショップのオーナーとして成功した苦労人だが、特に高圧的ではなく、当時の水準ではむしろリベラルと呼んでもいいくらいだった。子どもへの体罰用の鞭が家庭に備えてあるのも珍しくなかったこの時代で、フランツを殴ったこともたぶん一度もなかった。
 ただ、一度、夜中に起きて水が飲みたいと言ったフランツを怒って、一晩中ベランダに置いていたことは、「父への手紙」(実際の手紙だが、母や妹の反対で父のもとにはもたらされなかった)に恨みがましく書かれている。
 そんなことか、と思えるだろう。しかし、多くの場合、親を筆頭とする大人の要求は子どもにとって非常に理不尽なものであり、子どもには、そんなことにも従わねばならない屈辱感を残す。出来事自体は成長するにつれて忘れてしまうから、それは「そんなこと」になる。大人になっても、よほど幸運な人でない限り、職場や家族、近所づきあいで何度か同じような目に合うが、それもやり過ごして、忘れてしまう。やはり、ぼんやりした屈辱感だけを残して。子どもの時の体験は、それに耐える訓練にはなるだろうか。
 そして、やがて自分が父になったときには、「これが普通だ」と思って、同じように子どもを躾ける。それが本当に正当かどうかはわからない。いちいちそんなことを考えていたのでは生きる障りになるばかりだし。
 カフカ自身は、三度婚約しながら、よくわからない理由で破談にしている。思うに、自らが圧政的な家長になるのが、とりわけ、そうなるしかないと感じることが、本当に恐ろしかったのだろう。
 「掟の門」の説話を語る教誨師の僧は、また次のようにも言う。「すべてを真実だなどと考えてはいけない、ただそれを必然だと考えなくてはならないのだ」。主人公のヨーゼフ・Kは応える。「憂鬱な意見ですね。虚偽が世界秩序にされているわけだ」。

 フェミニズムの観点からすれば、これこそ「男性原理(あるいは父性原理)による社会構造だ」ということになりそうだ。そうも言えるかも。この用語の意味するものを非常に広くとればだが。
 なぜなら、カフカの世界では、女性は、一般に男性よりは好意的に描かれているようだが、最終的な救いをもたらすものではないからだ。「審判」のエルザも、「城」のフリーザも、主人公に一時の慰安を与えながら、いつのまにか消えてしまう。
 「君はあまり他人の援助を求めすぎる」とも、先の僧は言っている。「そして特に女にだ。いったい、そんなのはあてにならぬ援助だということがわからないのかね?」。これに対しては、二、三人の女を自由に使えたら、うまくやることもできる、とKは返すのだが、これは「ああ言えばこう言う」の一例で、実際にそんなことができる男など、めったにいるものではない。
 そして、女性、というか「女性的なもの」は、支配構造を作り出すものとは別種であるように見えても、現実世界にある以上、やはり構造の一部であるしかない。好例は「変身」中の母と妹で、最初は虫になった主人公の世話をするが、結局は彼を排除する側にまわる。そして、彼を埋葬することで、父と彼女たちの一家は幸せになる。

 支配と排除がなければ、人間世界は保たれないのだろうか。ここにこそ、人間の不完全性が最も端的に現れている。いかにも、憂鬱な見解だ。しかし、この根本的な人間の条件を一遍に変えようと夢想し、実行に移したら、革命党派によるものでも宗教団体によるものでも、いつもさらなる悲惨しかもたらさなかった。

 文芸の世界では、1954年にサミュエル・ベケットが、どことも知れない場所で何者ともしれぬ者をただ待ち続ける劇を書いた。ベケットはこれを喜劇だと考えていたらしい。【ただし、バスター・キートンとチャールズ・チャップリンに演じさせたいと言っていたという話の真偽は不明。】
 そしてチェホフも、「かもめ」(1896)と「桜の園」(1904)は、はっきり喜劇と銘打たれているし、この間に挟まる前出二作も、喜劇的色彩はある。状況に適応しないドタバタを演じる古典的な道化劇で、それを見出すには、かなり引いた視点が必要になる。これも神の視点と言ってもいいかも知れないが、なんらかの意味や見通しを与えるものではなく、逆に、こちらをじっと見つめるだけの視点。
 そこに浮かぶ人間の姿は、滑稽で悲惨だが、同時に、非常に愛おしい。それだけで、希望は何も見出せないとしても、人間として生きることを放棄するのはまちがっていると思えてくる。現代文学のもたらす、不思議な効用であろう。

【オーソン・ウェルズ監督「審判」は、類稀な場面構成に、膨大なエキストラ、さらにはジャンヌ・モロー、ロミー・シュナイダー、エルサ・マルティネッリなどの名だたる美人女優を贅沢に使っていて、ずいぶん金をかけてウェルズのこだわりを全開させた映画です。個人的には、アンソニー・パーキンスの演じるヨーゼフ・Kは、むしろ軽い演技で、カフカ作品の、状況と行為のズレからくる喜劇性を際立たせているところが一番印象的でした。】
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銀河鉄道に乗る前に

2023年03月31日 | 文学

成島出監督 「銀河鉄道の父」 令和5年

メインテキスト;菅原千恵子『宮沢賢治の青春 “ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』(宝島社平成6年、角川文庫平成9年)
今野勉『宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人』(新潮社平成29年、新潮文庫令和2年)
       
 宮澤トシ(詩の中では「とし子」)と言えば、高村智恵子と並び、日本近代文芸上に清冽な刻印を残す女性である。そのため、聖女のようなイメージが持たれるからだろう、学生時代に恋愛事件を起こしていたことは、一般にはあまり知られていない。
 大正3年、トシは十六歳で、花巻高等女学校の四年生だった。新任の音楽教師鈴木竹松が、希望者には放課後ヴァイオリンの個人指導をすると告げたのに応じることにした。何人かの受講者の中でトシは特に熱心で、鈴木の下宿にも折々訪れるようになった。
 現在の高校でも、こういうことは噂にならずにはすまない。少し違うのは、噂の範囲で、卒業式の直前に、地元の新聞に醜聞として、それも三日に渡る連載記事で、書きたてられた。さすがに実名は伏せられていたが、少し事情を知る者にはすぐにわかる形で。これはこの地域の政治的な対立から、一方の代表格と見られていた宮澤家を陥れる目的からだったろうと思われる。
 この時、女学校は公式な問題にしはしなかった。鈴木はその翌年まで奉職していたし、一年生の時から常に学年成績トップだったトシは、卒業式でも総代として答辞を書き、読んだ。そして、ただちに東京の伯父を頼って上京、従姉妹が在籍していた日本女子大に入った。世間体を憚った所為に見える。家族にとってはそうだったろう。
 トシ自身にとっての内面の葛藤は、むしろこのときから始まった。トシは、兄・賢治と同じく、頭脳明晰で感受性豊かだったが、何より、自分自身を破壊しかねないほどに厳しい倫理観の持ち主だった。
 大学では、牧師だったこともある成瀬仁蔵が、個々の宗教の枠にはとらわれずに総合して編み上げた実践道徳を伝えまた追求する場として創設したものだった。トシは「宇宙自我」を究極的な理想とする成瀬の講義を熱心に聴講し、一時は傾倒したが、最終的にそこに安住することはできなかった。
 かなり後に、大正9年2月9日の日付のある、ノートに細かい字でびっしりと書かれた文書が宮澤家で見つかった。署名はないが、内容と筆跡から、それはトシの書いたものだとされた。発見者によって「自省録」と名付けられたこの文章が一般に公開されたのは平成元年のことになる(宮澤淳郎『伯父は賢治』八重岳書房所収)。ここでは、事件当時の自分は「彼女」と呼ばれている。多分、突き放して冷徹に分析しようとしたのだろう。文体も、若い女性が書いたものとは思えない硬質なものだ。
 と言って、出来事の詳細が叙述されているわけではない。そもそも他人に読まれることを想定したものでもなく、自分に向かって自分の内面を語ったものだ(だから「自省録」)。
 憧れの男性といっしょに過ごす時間は「彼女」にとって「享楽」であった。それが世間にはどう見られるかをあまり意識していなかったので、仲のいい三人の同級生には話してしまった。おかげで評判になり、当の相手からは疎まれるようになった。思えば、「彼女」は彼を理想化し過ぎていた、その上での恋愛もどきであり、それまではなんの落度もなく、人から賞賛されるばかりだった「彼女」の恥辱になった。
 彼は彼女の「ある方面に於ける無智に乗ずる事なく彼女に不当な何ものも求めなかった」と言うのだから、そういう関係はなかった。若いうちにはありがちな浮ついた気持ちがあっただけ。それなのに、「彼女と彼との間の感情は排他的傾向を持ってゐた」と言う。確かに、悪評を立てられた家族には迷惑をかけた、と言えるかも知れないが、彼女の内省はずっと先まで行っている。

利己の狭苦しい陋屋から脱れて一歩人間が神に近づき得る唯一の路であるべき「愛情」が美しいままに終わる事が少なくて、往往罪悪と暗黒との手をひきあうて来る事は実にdelicateな問題である。愛の至難な醇化の試練に堪え得ぬものが愛を抱く時――それは個人に向けられたものであらうと家庭や国家にむけられたものであらうと――頑迷な痴愚な愛は、自他を傷つけずにはおかないであらう。

 かくて、「凡ての人人に平等な無私な愛を持ちたい」というのが彼女の切なる願いとなった。「うまれでくるたて/こんどはこたにわりやのごとばかりで/くるしまなあよにうまれてくる」(「永訣の朝」)という末期の言葉の背景にも多分これがあった。また、賢治の言葉「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(「農民芸術概論綱要」)を思い浮かべる人もいるだろう。
 兄の影響をここに見るべきだろうか。いや、賢治のほうが妹の影響を受けていたのかも知れない。
 いずれにしても、このような幸福観は、一回りした倨傲にさえ見えてこないだろうか。それが個人的なものである限り、普通の意味の幸福を求める思いと行いさえ、「痴愚な愛」と呼ばれ、否定されているようだから。そこまでは言わずとも、相対的で猥雑な人間世界でこんな純粋な希求を保ち続けているとしたら、行く末は悲劇しかない。
 もちろんこの兄妹にも家族はあった以上、普通の生活はあった。トシは大正9年には病を得て花巻に帰省し、半年だけだが、辛い思い出のある高等女学校で英語と家事を教えた。前記「自省録」は、それに先立って、改めてあの事件を見直すために書かれたと思しい。以後は病状が悪化し、11年に逝去するまで、療養生活を続けた。
 他の家人といっしょに賢治も彼女の看病をしている。「自省録」を読み、女学校時代の妹の恋を知ったのはこの時期だったろうと推定される。

 トシが音楽教師との交情に胸を焦がしていた大正3年、賢治は盛岡中学校の最上級生で、島地大等編著『漢和対照妙法蓮華経』に出会って、家の宗派には背くことになる信仰の方向を決めた。また、家業の質屋兼古着屋を継げと言う祖父と父をなんとか説得し、トシが日本女子大へ進学したのと同じ4年4月に、盛岡高等農林学校を受験、入学することができた。
 そして5年には、大きな出会いがあった。それは男性で、保阪嘉内という。父は山梨県の役場の職員だったが、トルストイに傾倒して百姓の仕事は崇高だと考え、まず東北帝大札幌農科大学を受験して失敗、そのため、賢治と同年だが、一年遅れて農林学校に入って来た。
 二人の接点はまず文学で、他の学友とともに、謄写版刷りの同人誌『アザリア』を創刊、短歌を中心にした創作を発表し、批評し合った。6年には第二号が出て、深夜まで続いた熱気溢れる合評会後、その余勢を駆って夜通し歩こうと言い出す者がいて、主要メンバー四人が秋田街道を約17キロ歩き通した。嘉内はこれを「馬鹿旅行」と読んでいる。
 その一週間後、今度は賢治と嘉内の二人で、岩手山に登っている。このとき二人で交わした「誓い」があったことが、後に賢治が嘉内に送った手紙で言われている。彼らには文学以外に、宗教に関心が深く、「絶対真理」を見出して、それに帰依したいと望む、求道者的性格でも共通していた。それも自分だけではない、万人にとってのパラダイス、「まことの国」への道を、ともに進もう、と山上で、満天の星の下で誓いを交わしたものらしい。
 理想の具体的な中身は、このときはあまり問題にされなかったようだ。彼らは二十一歳の学生で、これらの観念的で大仰な言葉のみで酔える年代だった。
 しかし、この夜の感激については、賢治と嘉内とではけっこう温度差があったかも知れない。よくわからないのは、賢治の嘉内宛の書簡七二通は、昭和43年に公表されたが、嘉内から賢治へのものは一つも見つかっていないからだ。ただ、後の友情の成り行きからは、そういう疑念も出てくる。
 翌7年3月、嘉内は突然退学になる。『アザリア』第五号に出した彼の文章「社会と自分」中の「おい今だ、今だ、帝室をくつがえすの時は。ナイヒリズム」なる文言が問題にされたらしい。嘉内は共産主義者でもアナーキストでもなく、たぶん青年客気に浮かされて、ツルゲーネフなどのロシア文学から得た思いつきを書きつけた、そんなところだろう。それでも、賢治や嘉内父の嘆願もむなしく処分は実行され、嘉内は農学校を辞めて故郷へ帰る。
 このとき賢治は前記島地大等の編著を送っている。またこの頃の手紙に、「どうか諸共に私共丈ども、暫くの間は深く無上の法を得る為に一心に旅をして行かうではありませんか」「南無妙法蓮華経どうかどうか保阪さんすぐに唱へて下さいとは願へないかも知れません。先づあの赤い経巻(引用者註、前掲書)は一切衆生の帰趣である事を幾分なりとも御信じ下され(下略)」などとある。
 賢治にとって「絶対真理」とは即ち法華経のことになっていたのだ。しかし、嘉内にとってはそうではない。彼は退学直後に母親を亡くし、他学への進学を断念、志願して一年間軍隊に入った。賢治はそんな嘉内にもちろん同情しながら、それにかぶせて、信心の勧誘ともとれる言葉を並べる。好意から、というより、農学校卒業前後に、職も決まらず、家業を継ぐ気にもならず、従って家族との軋轢も強くなっていた賢治にとって、信仰そのものと同様、その道を伴に歩んでくれそうな友の存在は、何よりも貴重だったからだ。
 「(前略)夏に岩手山に行く途中誓われた心が今荒び給ふならば私は一人の友もなく自らと人とにかよわな戦を続けなければなりません」「私が友保阪嘉内、私が友保阪嘉内、我を棄てるな」などとも手紙中にある。このような必死な呼びかけも、少し距離を置いて見れば、独りよがりの押しつけがましさと変わらないものになる。
 大正10年7月、賢治と嘉内は、上野の図書館で再会した。賢治は前年、家出同然に上京し、日蓮宗の教団で国粋主義の色彩の強い國柱會に入り、印刷工の傍ら布教活動をしていた。このとき嘉内は法華経への入信も國柱會への入会も、冷ややかに(と、賢治には見えた)断ったものらしい。やがてトシの病状が悪化して、看病のために賢治は帰省し、12月には花巻農学校の教諭となった。嘉内は山梨で農業と青年教育に従事した。この後も手紙のやりとりは続いたが、二人が会うことは二度となかった。

 賢治の生前慣行された唯一の詩集『心象スケッチ 春と修羅』には、大正11~12年に書かれた詩が納められている。中でトシの死の前後を歌った「無声慟哭」シリーズは現在最も有名であり、宮澤賢治といえば「雨ニモ負ケズ」よりこちらを思い浮かべる人が多いだろう。
 トシは家族中で賢治の法華経信仰に最もよく理解を示した者だった。彼女から大きな勇気をもらっていた。(あめゆじゆとてちてけんじや)という願いは「死ぬといふいまごろになつて/わたしをいつしやうあかるくするために/こんなさつぱりした雪のひとわんを/おまへはわたくしにたのんだのだ」ものだと思えた。「ありがたうわたくしのけなげないもうとよ/わたくしもまつすぐにすすんでいくから」(以上「永訣の朝」)。
 しかし話はここでは終わらない。このシリーズの最後の詩「白い鳥」には「どうしてそれらの鳥は二羽/そんなにかなしく聞こえるか/それはじぶんにすくふちからをうしなつたとき/わたくしのいもうとをうしなつた/そのかなしみによるのだが」とある。この鳥は「死んだわたくしのいもうとだ」とはっきり言われているのだが、それならどうして二羽なのか。いろいろ考えられるのだが、私は単純に、もう一羽はトシに寄り添おうとする賢治自身のことだと思っている。それを見て悲しい声を聴いている賢治も他方にいるが、する自分とそれを見て記述する自分の分裂は、文学作品では珍しくない。
 そこで鳥に仮託された賢治は、「すくふちから」が失われていることを悲しんでいる。彼にとって法華経は、この頃から終生、「絶対真理」ではあったが、それがそのまま人を救う力になるとは限らない。そうであるためには、やはり人間は、体も心も、弱すぎる。。
 大正12年、賢治は青森から北海道・樺太まで汽車で旅行した。花巻農学校教諭になっていたので、生徒の就職先への挨拶回りのためだったが、内面ではトシの魂の行方を求める彷徨となった。こちらは、「春と修羅」中では「無声慟哭」シリーズの後の「オホーツク挽歌」シリーズとして歌われている。
 「とし子はみんなが死ぬとなづける/そのやりかたを通つて行き/それからさきどこへ行つたかわからない/それはおれたちの空間の方向ではかられない」輪廻を信じてはいても、なお死は厳しい断絶であった。かけがえのない存在を失った寂しさは埋めようがない。
 絶対真理に帰依した以上、「あいつはどこへ堕ちようと/もう無上道に属してゐる/力にみちてそこを進むものは/どの空間にでも勇んでとびこんで行く」ことになるが、そこから来る厳しすぎる要請にはやはり苛まれる。「みんなむかしからのきやうだいなのだから/けつしてひとりをいのつてはいけない」と。そこで言い訳がましくこう付け加えねばならなかった。「あいつがなくなつてからあとのよるひる/わたくしはただの一どたりと/あいつだけがいいとこに行けばいいと/さういのりはしなかつたとおもひます」(以上「青森挽歌」)。

 大正13年、賢治は「銀河鉄道の夜」の初期稿を書いている。前年の汽車の旅を、純粋な想像のレベルでもう一度たどる趣があるが、トシの面影はここには直接登場しない。それは男性である主人公・ジョバンニの哀しみの中に溶かし込まれているようだ。
 彼は、どうやら原則として死者しか乗れない「不完全な幻想第四次の銀河鉄道」を進む。いつのまにか、「どこでも勝手にあるける通行券」を持っているのだが、そのため、さしあたりどこへ行けばわからず、途方に暮れているようだ。
 同行者として、ジョバンニが現実世界で唯一心を許した友・カムパネルラがいる。このモデルは保阪嘉内だろう、というのは、菅原千恵子以来有力になっている。なるほど、そう言われればいくつか腑に落ちるところがある。
 そのうち最も大きなものは、途中で「おつかさんは、ぼくをゆるして下さるだらうか」と言い出すこと。カムパネルラの母の話は、ここまで全く出てこないにもかかわらず。前述のように、嘉内は盛岡高等農林学校を退学直後に、母を亡くしている。その理由はどうあれ、死期の迫った母に悲しい思いをさせたことに変わりはない。嘉内は罪の意識を持ったろう。
 しかし、このへんの話の運びは、少し混乱している。カムパネルラの言葉に応じて、ジョバンニは、「ああ、さうだ、ぼくのおつかさんは、あの遠い一つのちりのやうに見える橙いろの三角標のあたりにゐらつしやつて、いまぼくのことを考へてゐるんだった」などと考えるのだが、ジョバンニの母なら現実世界で、彼が牛乳を持って帰るのを待っている。ここはカムパネルラの思いが乗り移ってきたとでも考えるしかない。
 それはそうと、ここからお馴染みの、倫理的な問題がカムパネルラの口から出てくる。

「ぼくはおつかさんが、ほんたうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いつたいどんなことが、おつかさんのいちばんの幸なんだらう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえてゐるやうでした。
「きみのおつかさんは、なんにもひどいことないぢやないの。」ジョバンニはびつくりして叫びました。
「ぼくわからない。けれども、誰だつて、ほんたうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ。だから、おつかさんは、ぼくをゆるして下さると思ふ。」カムパネルラは、なにかほんたうに決心してゐるやうに見えました。

 カムパネルラは意地悪でジョバンニをいじめていた同級生が川で溺れたのを救って、自分は犠牲になっていたのだった。この全き無償の自己犠牲こそ、「ほんたうにいいこと」なのだろうか。そのために大切な誰かを悲しませることになったとしても?
 この大問題に対する回答はない。元来、人間に答えられるようなものではない。
 そして「母」は、物語の旅を終わらせるトリガーにもなっている。
 「僕もうあんな大きな暗やみの中だってこわくない。きつとみんなのほんたうのさいはひをさがしに行く。どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう」とジョバンニが言うのに、「ああきつと行くよ。ああ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集つてるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あつあすこにゐるのぼくのお母さんだよ」と答える。ジョバンニがそちらを見ても、そんなものは何も見えない。「二本の電信ばしらが丁度両方から腕を組んだやうに赤い腕木をつらねて立つて」いるばかり。「何とも云へずさびしい気がして」振り返ると、カムパネルラはもういなくなっていた。
 なぜカムパネルラと別れねばならないか。それはこの作品中最大の謎である。嘉内との訣別が表現されているのだろう、というのは一つの解ではある。しかし、では賢治と嘉内が味わったであろう思想信仰上の齟齬は、「おつかさん」というキーワードだけで伝わってくるとは思えない。もっとも、大きいところだけでも全部で三回書き直された「銀河鉄道の夜」は、現行の第四次稿(昭和6年頃書かれた)が決定稿というわけではない可能性も高いのだが。
 その段階で確実なのは、「一人の友もなく自らと人とにかよわな戦を続けなければな」い決意と、その裏腹な孤独感だ。第三次稿まではジョバンニを教え導いたブルカニロ博士も姿を消し、かつて妹が呟いた「Ora Orade Shitori egumo」(「永訣の朝」)の決意を胸に秘めて、現実と幻想の世界を行かねばならない者の。

(『宮沢賢治の真実』をご紹介してくださり、また宮澤トシ「自省録」のコピーをくださった濱田玲央氏に心からお礼申し上げます)
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科学的真理と文学的(仮称)真実

2023年01月28日 | 文学
メインテキスト:小林秀雄『人生について』(中公文庫昭和53年、改版令和元年)


遅蒔きながら、明けましてお目出度う御座います。
 お正月に相応しい話題はないかな、と漫然と考えておりましたら、いつの間にか小林さんの「信ずることと知ること」を思い出しました。相応しいかどうかわかりませんけど、それに因んだお話しをしてみます。
 これは昭和49年8月に、九州の霧島で行われた講演で、大学生になりたての私は長路はるばる聴きに行ったのです。この頃はまだ、熱烈な小林ファンでしたから。
 講演は超能力の話(小林さんは「念力」と言っていました)から始まりました。この年ユリ・ゲラーが初来日して、日本の、主にTVで、たいへんな話題になっていたのです。小林さんはゲラーの能力を信じていたようで、これにはちょっとびっくりしました。私はあんなのは怪しい奴だと当時から思っていましたから。しかしそれはほんのマクラで、話題はベルクソンから柳田國男へと進み、古今亭志ん生そっくりの語り口で、小林さんの真価を存分に発揮したよい講演でした。
 今回はそのうち、ベルクソン(小林さんは当時の日本の一般的な呼び方で「ベルグソン」と言っています)にまつわるところを紹介します。

 1913年にロンドン心霊研究会で行った講演(「生きている人のまぼろしと心霊研究」というタイトルで、白水社『ベルクソン全集』第五巻に所収)中で、彼はこんな話をしている。
 ある会合で、いわゆる「正夢」が話題になった。一人の兵士が戦死する。同時刻に、遠く離れた母国にいる夫人が、その様子をまざまざと夢に見た。後でそのとき一緒にいた戦友から話を聴くと、その範囲では、夫人の夢は現実と寸分たがわず一致していたことがわかった。
 これに対して高名な医師が次のように言った。私もその夫人を直接知っている。人格的にとても立派で、嘘をつくような人ではないから、その夢を見た話は信じよう。また、同種の話はこれまでにたくさんある。しかし、ここに困ったことがあって、現実とはなんの関わりもない夢のほうがはるかに多いのだ。その大多数の事例を考えずに、例外的に当った場合のみを取り上げるのはいかがなものか。
 これを傍で聴いていた若い女性が、「先生の話はとても論理的で正しいのですけれど、でも私にはどうしても先生が間違っていると思えるのです」と言い、それをまた傍で聴いていたベルクソンは、私はこの娘さんのほうが正しいと思った、ということです。
 こういうところを土台にして、小林さんはベルクソン哲学を祖述しようとして、それには失敗した、と本人が認めるに到るのですが、上だけでも非常に印象深くて示唆的です。

 一番大雑把に言うと、人間の世界には科学的な真理と文学的(仮称)真実があるんだ、ということになりましょうか。
 近代科学は計量可能なことしか問題にしない、と小林さんが言うところを、ちょっと私の言葉で言ってみます。この方面の知識には乏しいので、以前にも書いたことの繰り返しになりますが。
 空中に放り出された物質は例外なく下に落ちる。計ってみると、そのものの重さや大きさには関わらず、落下速度も加速度も、原則として一定。これは、現在でも立派な大人でも誤解している場合があるぐらい不思議なことだ。一方、空に浮かんでいる月はいつまでたっても落ちてこないという不思議もある。これらすべての現象を作り出す力を、仮に重力とか引力とか名付ける。本当にそんなものがあるかどうか、わかったものではないが、ともかくあることにして、観察と計量に基づき、その力の働き方を法則としてまとめる。うまくまとまった法則を使えば、ある条件下では次に何が起こるか、地球上のみならず宇宙空間でも正確に予測することができ、また人為的に条件を作り出して、人間の生活に役立てることもできる。
 こういったことの積み重ねの結果できた、たとえばパソコンを、私も今現に使っているので、これを悪く言うことはできません。どうも小林さんには、文学的な真理・価値を擁護しようとするあまり、こちらを軽視しすぎる傾向があり(科学的なことがわからなかった、という意味ではありません)、その悪影響を私も多分に受けています。いやもちろん、悪いのは私の怠惰と軽率のほうであるのは明かなんですが。

 科学的な真理が軽視された場合の害は、超能力・超常現象の話にはつきものです。
 普通に擦っただけでは曲ったりしないスプーンが曲るのは、いかにも不思議です。しかし、ある特定の人にだけそれが繰り返してできるのは、その人が、本当はやり方をうまく隠しているからではないか、とまずは疑った方がよい。
 この「やり方」にも一種の法則はあるでしょうが、実際を隠した虚構を人目に見せるのが最初からの狙いなので、「トリック」と呼ばれるわけです。
 娯楽としてのトリックは、「手品」あるいは「魔術」という芸です。昔の手品師は「種も仕掛け(=トリック)もありません」と言いながらやったようで、観客はだまされることまで含めて楽しんでいたのだから、それでいいのですが、「いや、これはトリックではなく、特殊な能力でやっている」と、虚構をもう一段引き上げると、罪作りにもなる。
 あの当時、日本でもたくさんの超能力少年が出て来て、TVで紹介されたのですが、彼らはその後どうなったのか。それから、「空中浮遊」の超能力を看板にして多くの信者を獲得したあの教団のことを思い浮かべたら、「簡単には信じない」という素直でない心は、小林さんは嫌っていましたが、それも大事なんだな、と思わずにはいられません。

 ベルクソンや小林さんが言っているのはもちろんそんなことではありません。
 遠いところで亡くなった夫の姿をまざまざと見る。その根底には夫婦で過ごしたすべての時間と感情とが横たわっていることでしょう。よそから思いやれるのはそこまでであって、それ以上の内実に立ち入ることなどできません。どれくらいの年月をどう過ごせばそういう夢を見るのか、などと計量することなどもちろん不可能。他の夢と比べてどうこう言うのも、現実と見比べて合っているか間違っているか、などというのも無意味です。
 全く個人的な、一回限りの体験がそこにある、としか言いようがない。小林さんはさらにこう言います。このような体験を不思議だとか不気味だとか言うのは、後から振り返った場合の「解釈」である。小林さん自身の体験として、ご母堂が亡くなられた後、大きな螢を見て、母は螢になったのだな、とそれこそ素直に、ごく自然に信じられた、と「感想」(中断したベルクソン論の第一章)には書かれています。
 こういうのが「解釈を拒絶して動かないもの」(「無常といふ事」)なんでしょう。それを除いた人生には、究極のところ意味も価値も無い。言い換えると、正夢を見たことが「事実」であるかどうか、科学的な証明は不可能ですが、だから無意味だというなら、個人も、人生も、結局無意味だということになってしまう。
 小林さんの文学的な営為は、全体として、個人としての人間の価値を闡明しようとするものだ、と言ってよいでしょう。いつの時代でもそうなんでしょうが、近現代でも、様々な形で、それを無視し、踏みにじろうとする動きは、人間集団の中から絶えず出て来ますので。
 私はこれこそ最も貴重だと信じる者です。しかし、ここでまた、素朴かも知れませんけど、大きな問題が出て来ます。純粋に個人的な、他所からは決して窺い知れない切実な体験が万人にあるのはそうであるとして、ではそれを他へ伝えようとする試みはいったいなんなのか。それ自体が一種の背理としか言いようがないのではないか、という。
 これに対する明確な答えは、小林さんの著作からは読み取れませんでしたが、『人生について』に収録されている「人形」という短いエッセイが、多少の参考になりそうな気がします。

 エッセイと言い条、文庫で二頁と五行、極小のショートショートの味わいのある、不思議な掌編です。ずいぶん前に読んだ覚えがあるんですが、いつぞや小浜逸郎さんが「あれはいいね」とおっしゃるのを聞くまではすっかり忘れていました。
 それくらいだから話はいたって簡単。「私」が急行列車の食堂車で、四人がけのテーブルで一人で夕飯を食べていると、六十年配の上品な老夫婦がやって来て、テーブルの向こう側に座った。
 細君のほうは、大きな人形を抱えていた。背広にネクタイ、外套を羽織っていて、外套と同じ柄の鳥打ち帽をかぶっている。服装はまだ新しいが、人形のほうはずっとだいぶ年数を経ている。
 帽子が床に落ちた。細君が目配せすると、夫が拾い上げ、「私」と目を合わせると、軽く目配せした。「どうも失礼」というふうに。
 夫婦のスープとパンが運ばれてくると、細君はスプーンで掬って、まず人形の口元に運び、それから自分の口にいれる。それをずっと繰り返した。「私」は自分の手元にあったバター皿からバターを細君のパン皿に入れてやった。細君は気づかない。夫が「これは恐縮」と礼を言った。
 ところへ、大学生ぐらいの娘が来て、「私」の隣に座った。彼女は「若い女性の鋭敏」ですぐに場に順応した。それで何をしたのかは書いてないが、つまり何も言わず、目の前の夫婦をジロジロ見たりもせず、普通に食事をしたのだろう。

 いや、「普通に」って……。
 私が文中の「私」の立場だったとしたら? お婆さんがママゴトをしてる、微笑ましいなあ……とは思わなかったでしょうねえ。怖くてその場を逃げ出す、が一番ありそうです。
 筆者の小林さんは、イコール文中の「私」とは限りませんが、最後に、
異様な会食は、極く当り前に。静かに、敢へて言へば、和やかに終つたのだが、もし、誰かが、人形について余計な発言でもしたら、どうなつたであらうか
 と、書いています。普通に、静かに食事をする以外は、すべて「余計な」ことだと言いたいらしい。
 普通の小説なら、「私」は、夫から話を聞くなり何かで、この夫婦の事情を知ることになり、それこそが作品の本体になるでしょう。それが「余計なこと」なら、近代文学は余計なことばかり書いていることになります。
 けれど、そういう好奇心も人間には普通なんですから、読者の興味をつなぐためには欠かせない要素になるのは仕方ないことだと言えるでしょう。
 それに第一、「私」も簡単になら思いを巡らしています。この人形は息子に違いない。古びたさまからして、相当前から、彼女の手元にあるのだろう。息子は戦死したのか(この文章の初出は昭和37年10月6日朝日新聞PR版)。夫は妻の乱心を鎮めるためにこの人形を与えたのだが、彼女が回復することはなく、爾来こうして人形ぐるみで連れて歩いているのか。まあそんなところだろうか。
 これは「推察」であり、「解釈」です。先のほうでは、次の推量もあります。
もしかしたら、彼女は、全く正気なのかも知れない。身についてしまつた習慣的行為かも知れない。とすれば、これまでになるのには、周囲のあさはかな好奇心とすいぶん戦はねばならなかつたらう。それほど彼女の悲しみは深いのか
 「あさはか」と言って、そんなことですましていられるのは、畢竟「私」がこの老婦人にとって所詮ゆきずりの他人にしかすぎないからだ、と「周囲」からは言われるかも知れません。
 その「周囲」の人々は、夫に対しては、彼をも狂気とみなすか、そうでなければ「無責任」だと非難したかも。「どうして医者にみせないのか」と。こういうところでは、昭和37年当時より現在のほうが、見る目が厳しくなっているように思いますが。
 それで、医者にかかったとすれば? たぶん、統合失調症とか分裂病とか、なんらかの診断名がついたでしょう。それによって夫人は、この社会の中で一定の「立場」が与えられたような感じになり、人々は安心したわけでしょう。
 言い換えると、理解出来ない行為の理解できなさには理由があるのだ、と納得させてもらえるような気にはなる。
 それによって、夫婦がより幸せになるかどうかはわからない。だから精神医療は無意味だとまでは言いません。社会の安寧秩序を守る決まりごとのうちには、そういったことも含まれるのですから。
 ただ、それとは関係のないところに、彼女の深い悲しみはある。それは誰にも、どうすることもできない。絶対に彼女一人のものだ。それを認めることが、つまり彼女を認めるということに他ならない。それで。
 夫は妻のやることに合わせる。食堂車でたまたま同席した「私」と若い女性は、好奇な目を向けず、何も穿鑿がましいことはしなかった。敢えて言えば、「そういうもんだろう」というだけ。「黙ってやり過ごす」のと変わらない。
 そのうえで、少しの穿鑿がましい「解釈」も加えながら、一人の人間の内部にはどれほど大きなものが秘められているかを、それには畢竟直接手は触れられない悲しみも含めて示すことができるなら、文学の存在価値もある、と言える。そうではありませんか?

【冒頭の写真は、「「信ずることと知ること」を解題して『信ずることと考えること―講義・質疑応答 (新潮CD講演 小林秀雄講演 第2巻)』としてCD化したものです。このうち、今回話題にしたベルクソンに関するところを、N GOという人がYou Tubeにアップしてくれています。
https://www.youtube.com/watch?v=NI02GR0FpeA】

【「信じることと知ること」の題名でfrom_nagatoという人がアップしてくださった講演録もあるのですが、こちらは昭和51年に東京の三百人劇場で行われたもので、私はこちらも直に聞きました。内容は二年前の講演の、柳田國男に関するところを「前にも話したことがあるが」と、ほぼ繰り返したものです。
 些末で僭越な訂正をしますと、柳田が幼少期を過ごした茨城県の村「布川」を、小林さんは「ぬのかわ」と言っていますが、これは「ふかわ」が正しいのです。わりあいと近所なので、たまたま知っていました。
https://www.youtube.com/watch?v=D4GKZr0jMfE】



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書評風に その4(谷崎潤一郞「細雪」)

2022年12月26日 | 文学
メインテキスト:谷崎潤一郞「細雪」(初出は『中央公論』昭和18年1月号と3月号、昭和19年7月、私家版『上巻』を出版。『婦人公論』昭和22年3月号~昭和23年年10月号。昭和33年刊中央公論社新書版『谷崎潤一郞全集』第24~26巻より引用)

倚松庵

 今年この大長編を読み返してみて、今更ながらな特異な作品だなあ、と感じ入りました。
 作中の年代は昭和11年11月から16年11月までの五年間。15(1940)年9月には日独伊三国同盟が締結され、日本はいよいよ破局へのポイント・オブ・ノーリターンを越えたのだが、内地の一般国民レベルでは、まだ戦火を直接自分たちの身に及ぶものとはさほど感じていない時期に当たる。
 昭和20年の神戸大空襲の折には、谷崎がいた魚崎も大規模な空襲を受け、潤一郞・松子夫妻も命からがら防空壕に逃げ込んでいる。この時点で作品は中巻まで完成していた。
 その直後の敗戦によって、日本の気高いもの・美しいものは滅び去ったのだ、と坂口安吾の「堕落論」にある。共感する人はけっこう多い。安吾は、滅びちゃったものはしょうがない、生きるために堕落するのが正しい、と言う。それにつけても、滅び去った後から回想で眺めれば、気高く美しいものはより輝いて見える。これを文字なり劇なりで定着するのは、悲劇として過去を再構成することであって、古今東西の文学の王道の一つだろう。
 「細雪」もそうで、失われつつあるものとしての、上方の、上流だか中の上の社会の、華麗にして繊細な女性文化を活写している。それは間違いないのだが、今回の再読では、もっと重い部分が印象に残った。それはつまり、作品の根底にある近代文明批判である。
 一つには、ヒロインである蒔岡四姉妹、と言っても長女鶴子はほとんど登場しないので、次女以下三人の描き方が、女性崇拝者・谷崎潤一郞にしては、他にちょっと例がないぐらい生々しい。「こいさん(末娘)」の悦子は下巻で赤痢になって、その病状が詳細に、具体的に叙述されている。三女・雪子は、外見はお人形のように綺麗な、「本当にトイレへ行くの?」と思えるほどの女性だと思うが、彼女が下痢に苦しむところが小説のラストに置かれる。次女の幸子は妊娠中に、妹の見合いの席に出て、粗相しないかと気にかけたりして、挙句にやがて流産してしまう。
 どうやら谷崎は、生理の段階まで女性と一体化して、その視点を我が物にしようとしていたようだ。それがどの程度に成功しているかどうか、男性である私には判定できないわけだが、そうしようとする意欲がどこから来るか、ある程度理解出来たように思う。

 中心プロットは、作品世界そのものである蒔岡家の崩壊過程であることも見やすい。小説が始まった時点で、それはもう壊れかけている。
 つまり、船場の老舗大問屋であるこの家は、四姉妹の父の放蕩のおかげで、店を手放している。長女鶴子の婿・辰雄は銀行員だが、蒔岡家の「当主」ではあり、当時の家父長制の慣習上、姉妹全員を指導監督する権限と責任がある。
 とはいえ、家付き娘の姉妹から見たら、辰雄は他所から入って来た新参者であり、幸子を初めとした義妹たちは結託して彼をいじめていたことは何度か言われている。「小姑鬼千匹」なる言葉は、大家族が減って以来聞かれなくなったが、このへん、身につまされて女は怖い……、なんて個人的な思いはさておき、この時点で、「家」の秩序は実質的にはもう失われている。もっとも、似たような事情の大分限家は、江戸時代からあったろうが。
 次女の幸子もサラリーマンの婿をとって「分家」として芦屋で暮らし、その下の三女雪子、四女妙子は、大阪の「本家」と「分家」を行き来している。これが決定的に分断されるのは、出世を願った辰雄が東京へ「栄転」を決めてからだ。
 すると本来「本家」の保護監督の元におかれるべき未婚の娘たちは、東京へついてくるのが当然、ということになる。これが作中最大の問題になる。生まれた時からずっと上方で過ごしてきた姉妹にとって、東京は「水に合わない」のだ。

しかし正直なことを云ふと、彼女(引用者註・幸子)はそんなに東京が好きなのではなかつた。瑞雲棚引(ずいうんたなび)く千代田城のめでたさは申すも畏(かしこ)いこととして、東京の魅力は何処にあるかと云へば、そのお城の松を中心にした丸の内一帯、江戸時代の築城の規模がそのまま壮麗なビル街を前景の裡に抱へ込んでゐる雄大な眺め、見附やお濠端の翠色、等々に尽きる。寔(まこと)に、こればかりは京都にも大阪にもないもので、幾度見ても飽きないけれども、外にはそんなに惹き着けられるものはないと云つてよい。銀座から日本橋界隈の街通りは、立派と云えば立派だけれども、何か空気がカサカサ乾枯(ひから)びてゐるやうで、彼女などには住みよい土地とは思へなかつた。分けても彼女は東京の場末の街の殺風景なのが嫌いであつたが、今日も青山の通りを渋谷の方へ進んで行くに従ひ、夏の夕暮であるにも拘らず、何となく寒々としたものが感じられ、遠い遠い見知らぬ国へ来てしまつたやうな心地がした。(中巻十四)

 江戸が東京になるにつれて見せつけるようになった壮麗さと雄大さ、その反面の殺風景な寒々しさは、正に近代日本の歩みそのものの表象であろう。これを力強く推し進めてきたものは、(実はあまり好きではない言葉を敢えて使えば)男性原理と名付けてもよいだろう。歩みの果てに、日本はじきに破局を迎えるのだが、それをも乗り越えて再び「経済大国」を現出させたのもまた、同じ力。そのうち一回りして新たな廃墟を迎えるかも知れないが、歩みそのものを止めることはできそうにない。
 というような理屈は、小説家谷崎潤一郞の好むところではなかったようだ。ただ、日本文化のニュアンスに富む「陰影」をこよなく愛する彼は、関東大震災(大正12年)からの復興以後、いよいよ殺風景の度合いを増す、と彼には思えた生まれ故郷の東京を去り、関西に居を構える。その感覚を、生粋の関西人である女性のものとしてここで提出したわけだが、時代と環境の変化につれて、このような感覚自体もまた、様々な陰影を帯びざるを得ない。それを詳細に描いていくのが「細雪」の眼目である。

 四姉妹の長女鶴子には、東京か関西かについて選択の余地はない。この時代、「単身赴任」なんてものは、夫が戦地に行くときぐらいだったろう。この人は妹たちと違って旅行ででも東京の地を踏んだことはなかったのに、妻として母親として、渋谷の道玄坂の、手狭な安普請の家で奮闘することになる。
「(前略)東京と云ふとこは、女がめいめい個性を貴んで、流行云ふもんに囚はれんと、何でも自分に似合ふもんを着ると云ふ風やさかい、さう云ふ点は大阪よりもええ」(上巻二十六)などと言って。
 因みに、「個性」といういかにも戦後的な言葉が出てくるのは、ここと、「(蒔岡家の姉妹は)似てゐるやうでそれぞれ個性がはつきりしてをられ」(下巻二十七)ると言われるところだけ。つまり、いい意味で使われてはいるが、ヒロインたちのうち、特に幸子と雪子は、そんなものを重んじる気はさらさらない。
 雪子は「あのざはざはした、埃つぽい、白ツちやけた東京と云ふ所は何と云ふ厭な都会であらう。東京と此方(こっち、関西のこと)とでは風の肌触りからして違ふと」(中巻二十)口癖のように言い、この点では完全にすぐ上の姉と一致している。
 彼女たちは帝都・東京や、「個性(尊重)」というような言葉に現される近代的なものに、感性のレベルで抗っている。そうしたいと思ってやるというよりは、そうならざるを得ない存在なのだ。
 家族制度や、女は結婚するのが当り前、それも、姉妹があるなら年齢順に、というような因習を、貴重だと思っているわけではないけれど、さればとて理をたてて正面からぶつかることはしない。そういうのは観念的で野暮な、男という動物のやることだ。だから雪子は、苦痛を堪えながら、東京の本家に引き取られて過ごす。

 女性は論理的ではない、理屈がわからない、などというわけではない。

利用出来るうちは先途(せんど)利用しといて、もう利用価値ないやうになつた云ふて、低能の坊々(ぼんぼん)に好え口があるやたら、一人で満洲へ行つてしまへやたら、ようそんなことが云へたもんや思ふわ。(下巻二十六)

 雪子が末娘妙子の男関係の不行跡を詰る時の、最後のとどめの言葉だが、ここでの彼女は、作中のどの男よりも理も弁も立っていて、容赦がない。論理的にも倫理的にも、まことにちゃんとした人である。因みに彼女は、二人の義兄をも、こんなふうにやっつけたことがあったらしい。楚々とした美女にやられたのでは、男としてはキツイでしょうなあ。
 ところが、これだけのことを言っても、この姉妹は決裂せず、次の日からも同じように、普通に、仲良く口を利く。行蔵の善し悪しは一つのこと、それよりはもっと身についた文化感覚、としか言いようのないもので、彼女たちは深く結びついている。

 この雪子さん、「ほんたうの昔の箱入娘、荒い風にも当らないで育つたと云ふ感じの、弱々しいが楚々とした美しさを持つた顔」(上巻九)と言われている。姪しかいない時には、兎の耳を足の指で捕まえるというようなお茶目もやるが、それも今風に言えばギャップ萌になるような人なのだろう。一方、幸子からは、「雪子ちやんは黙つてて何でも自分の思ふこと徹さな措かん人やわ」「見てて御覧、今に旦那さん持つたかて、きつと自分の云ふなりにしてしまふよつてに」(上巻二十九)とも。
 家族以外の、特に男には、自分の感情や考えをできるだけ表に出さず、全く煮え切らないので、見合いに失敗もするが、たぶん、本当に嫌だと思ったらテコでも動かないだろう。でも、それほど嫌でもないなら、姉や義兄たちの言う通りに結婚もしましょう。そういう嗜みが身についている、という意味でまことに反近代的な女性なのである。
 対して末娘の妙子は、性的魅力に富み、初期の谷崎が好んだ妖婦に最も近い。どうしても東京の本家に入ろうとせず(東京よりは、家長の辰雄が嫌いなのだが)、ために義絶されてしまう。「自分の結婚相手は自分で決める」という、現代では当り前の理念を持っていたかどうかまでは定かではないが、多くの男性遍歴を経て、姉妹中一番酷い目にあう。
 だったら雪子のほうが幸せなのかと言えば、必ずしもそうではない。結婚が決まってもなんとなく気が塞ぎ、前述のように下痢に悩まされる、というところでこの大長編は終わる。
 結婚相手は華族(旧公家)に連なる名家の出あり、大阪に住むことになるから、嫌いな東京を離れることはできる。しかし彼女が最も落ちつける場はそこにはない。姉妹の仲にこそあるのだ。そのたおやかな女性文化の場から、決定的に永遠に引き離されることからくる不安が体調不良になって現われているようだ。
 それでも、結婚生活が始まれば、世間に向ってもはきはきした口を利く賢夫人になり、幸子の言うように、夫をもうまく操縦するかも知れない。
 こういう強さはすごい。男が理屈をつけて宣揚する文化や文明は、それが壊れるべき理屈もきっと見つかるという意味で、脆い。女性の感覚の中に根ざした生活様式は、社会情勢に応じて表面的には変わっても、基底は根強く残り、容易に滅びない。和服美人を街中で見かける機会はめっきり減っても、決して消失したわけではないように。
 私も、谷崎同様、このような女性性には、深い畏敬の念を持たざるを得ない。
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宮澤賢治の「信仰心」

2022年10月22日 | 文学
メインテキスト:宮澤賢治「二十六夜」「ビジテリアン大祭」
法隆寺蔵 玉虫厨子に描かれた 捨身飼虎の図
 
 宮澤賢治は私にとって長い間非常に特別な存在でした。他の大作家は、ドストエフスキーでも夏目漱石でも、畏敬は感じつつも、生意気にも論評してやろうという気になるのですが、この人は、そうしようとしてポツポツ読み返すと、作品世界の豊穣さに圧倒されて、何も言えなくなってしまう。そういうことを若い頃からずっと繰り返してきました。
 ここへきて、一応表現者である者として、そんなことを繰り返してもしかたないと思えてきましたので、ポツポツやってみようと思います。
 まず、賢治の「自己犠牲」と呼ばれるものについて。

 一番端的に示されているのは、「銀河鉄道の夜」中の、女の子(かおる、か、かおる子という名)が語る、蠍の火のエピソードだろう。
 バルドラの野原というところに一匹の蠍がいて、小さな虫を殺して食べていた。ある日いたちに追いかけられ、逃げて、井戸に落ちて、溺れ死にそうになった。その時の祈り。

ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとつたかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになつてしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまつていたちに呉れてやらなかつたらう。そしたらいたちも一日生きのびたらうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸ひのために私のからだをおつかひ下さい。

 気がつくと蠍の体は空で燃える星になっていた。
 宮澤賢治に親しんだ人にはすぐにわかるように、これは「よだかの星」の原型、あるいは、もしもこちらのほうが後に書かれたのだとしたら、「よだかの星」などに現われているモチーフを、簡潔にまとめたものだ。
 そしてこれが、賢治の「自己犠牲」の中核にある思想と感情なのである。「身を殺して仁をなす」(「論語」)というようなのとは、微妙でも決定的な違いがある(「グスコーブドリの伝記」のような、外部的な自然災害との戦いを描いた作品は例外)。生そのものに対する根源的な罪の意識から発生しているのだから。といって、キリスト教の「原罪」とも違う。
 例えば、食物連鎖。一例は、植物を草食動物が食べ、その草食動物を肉食動物(人間を含む)が食べ、肉食動物の死体は地中の微生物に分解され、植物を育てる養分となる。持ちつ持たれつ、とも言えそうだが、動物の段階になると、本能的に個体の死を恐れるようだ。
 人間に到っては、「命は大切だ」なんて言ってる。しかし、そうなると、他の生物の生命を奪って食物として、自分が延命するのは矛盾ではないか?
 もちろん人間だけではない。たいていの生命体が、能動的に殺すかどうかの別はあっても、他の生命の死に依存しなければ、生き延びることはできないし、この世に種を残すこともできない。すると、生命そのものが矛盾していることになる。

 「そんなことを言われたって……」と言いたくなりますね。どうしようもないのだから。虎に自分の体を食物として差し出しても(捨身飼虎)、蠍が狐に食われてやって一日生き延びさせても、かえって、その一日でさらに多くの生き物の命が奪われる結果になるわけだし。
 ここには「救い」なんてものが成り立つ余地はない、ように思える。それなのに、食物連鎖なんてことが考え出されるずっと以前から、このような矛盾を「業」と呼び、積極的に直面するように求めた宗教もあるようだ。
 厳しすぎる考え方にも取り柄はある。「献金しなければ救われない」=「献金すれば救われる」なんてことには決してなりようがないのだから。
 でも、「救い」はなんにもなし、だとしたら、普通の意味で宗教にはならないのでは? それでも、成り立つとすれば。

 賢治の初期の童話に「二十六夜」がある。梟の僧侶が三晩に渡って(二十四夜から二十六夜まで)梟たちに説教する説教会を描く。お経まで創作され、それが四回繰り返さえる。
 説教の内容は、お前たち(梟たち)は、虫や小鳥を捕らえて殺すという悪行を、現世だけでなく、輪廻転生による過去生でも来世でも繰り返すしかない哀れな者なのだから、自力救済などは思いも寄らない。ただ、この宿業から解脱した疾翔大力(別名は捨身大菩薩。元は雀の聖鳥)の大慈悲にお縋りせよ。といったもので、これは賢治が信仰していた日蓮宗より、家族が帰依していた(賢治は改宗させようと試みて失敗した)浄土真宗の教えに近い。
 この最中に、説教に飽きた子どもの、兄弟梟が三匹、逃げ出してよその林へ行く、そこで一番年下で一番大人しい穂吉が人間の子どもに捕まる。次の夜には逃がしてもらえるのだが、気紛れに足を折られて、ついに死んでしまう。穂吉は、人間に対して何も悪いことはしていないにもかかわらず。
 若い梟たちは、色めき立って、人間に仕返しに行こうと騒ぐが、坊さんの梟は止める。それでは今度は向こうの心に恨みが生じ、復讐が始まるだろう。そのようにして「一の悪業によって一の悪果を見る。その悪果故に、又新なる悪業を作る」。かくて悪は子々孫々にまで絶えることなく、さなきだに悲惨な現世に、さらに無数の悲惨を加えるだけだから、と。
 言葉の内容は、賢治的な基準からして、全く正しい、と言える。しかしこれを、高みから説教されると、何か、どうも……。自分もまたその宿業から免れ得ないことをちゃんと自覚しているなら、こんなに偉そうに言えるもんかな、と疑問が湧いてくる。ただそれは、作中の、梟の僧侶の話。
 宮澤賢治の真価は、他人にどうせよ、と教える前に、この巨大な罪業を解決不能な「悲しみ」として背負い、そこから、せめて「まことのみんなの幸ひ(とは何か、また難解ですが)のために」生きたい、という祈りが出てくる、これを基に創作と実践を遂行していったところにある。
 前記「よだかの星」や「なめとこ山の熊」といった、まさに珠玉のような作品には、この祈りが結実している。結末には救いが描かれているようにも見えるが、主人公たちの心持ちはわからない。ここにあるのは何かの過程でも結果でもなく、悲哀と祈りの純粋結晶なのだ、と考えたほうが、素直に胸に落ちる。

 ここで終わりにしてもいいのだが、宮澤賢治には別の面もある。たいてい失敗したが、社会運動の実践家でもあり、また科学者として、理論の世界に生きる人でもあった。実生活では、ベジタリアンで、しかも後年になるに従ってどんどん過激な、今で言うヴィーガンに近くなり、そのために命を縮めた可能性も大きい。
 理論面では、「ビジタリアン大祭」という童話に、この思想が語られている。ビジタリアンはベジタリアンのこと、でいいのだろう。童話、と言っても、宗教や科学の術語がふんだんに散りばめられ、親鸞や孟子の名前も出てくる異色作。
 内容はニュウファウンドランド島の村・ヒルテイで行われた、ビジテリアン大祭に日本代表として出席した「私」の体験記の体裁をとっている。そこでは、会が始まる前から反ビジタリアンによるパンフレットが多数撒かれているのを目にし、会場にも反対派がいて、論戦をしかけてくる。それを「私」を含むビジタリアンたちが次々と論破していく、というもの。
 この論戦にはなかなか迫力があり、賢治にはポレミック(論争家)の面も欠けていなかったのだとわかる。
 議論の前提としての「私」の立場は以下。ビジタリアンには大別して二種あり、同情派と予防派。後者は、肉食は健康に悪い、というもので、今もある。ここは措く。「私」自身は同情派に属し、その核心の考えは。

結局はほかの動物がかあいさうだからたべないのだ、(中略)もしたくさんのいのちの為に、どうしても一つのいのちが入用なときは、仕方ないから泣きながらでも食べていい、そのかはりもしその一人が自分になつた場合でも敢えて避けないとかう云ふのです。けれどもそんな非常の場合は、実に実に少いから、ふだんはもちろん、なるべく植物をとり、動物を殺さないようにしなければならない、くれぐれも自分一人気持ちをさっぱりすることにばかりかかわって、大切の精神を忘れてはいけないと斯う云ふのであります。

 どうですか? すんなり納得できますか?
 ぱっと見て、問題が二つ。後のほうから言うと、数が問題なの? あなたが森で狼の群れに囲まれたら、こっちは一人、向こうは複数なんだから、戦ったり逃げようとしてはならない? 大人しく食われてやれ、ということ? 
 こう言うと皮肉に聞こえるかもしれないが、宮澤賢治を心から畏敬している私が、ここで皮肉を言いたいわけはない。自然にそうなってしまうぐらい、生物としては不自然な考えだということだ。それを敢えてやるのが菩薩行というものか。捨身飼虎は確かに、そういう話ではある。救いのため、解脱のためには必要なのかも知れない。でも、そういうことはできないから凡夫凡婦なんでしょう?
 まあ、そんな場合はめったにないから心配しなくてもよい、と。え? ここへ来て現実的になるのか? と思えるのは押さえて、肝腎な、「動物がかあいそう」の「大切の精神」のほうへいくと。

 生物であっても、植物は最初から対象外。たぶん意識はなく、苦痛も感じないから、いいんだ、ということらしい。それから、農作物を収穫するためにも、害虫(人間にとって害がある、ということですね)を駆除する必要はあるんじゃないか、と思うが、それについては一個のキャベツを作るのに青虫(やがて蝶になる)百匹を殺さねばならん、という話が少し出て来る。
 そして、植物だか動物だかわからないバクテリアの話とまとめて、支那人の陳氏というベジタリアンが反論する。アンチ・ベジタリアンは「バクテリアも動物で、それを殺してはいかんということなら、空気中にも多いときには一万もいるのだから、我々はうっかり呼吸もできないことになる」(引用ではなく、要約)などと言うのだが、そんな極端な例を持ち出されても困る、と。
 「常識的に」馬を殺すのとバクテリアを殺すのは大きな違いで、我々は馬は可哀そうに思うが、バクテリアはそうではない(青虫もそうではないんだろうな)。「それでいいのです。又仕方ないのです」、ただし将来人間の文明が進めば、また変わってくるかもしれないが、と。
 穏健妥当? それだけに、これを教義とするのは少し弱いのではないだろうか。可哀想だと思うから食べない、ということは、可哀想だと思いさえしなければ食べてもいい、ということになってしまう。可哀想だと思うのが人間としては当り前だと言いたいらしいが、これもまた、結局は個々人がどう感じるかに拠るしかない。「人として何が正道か」の感覚は、何しろでかすぎる上に複雑至極な問題なので、植物と動物の境目以上に、曖昧になりがちなのだし。
 それが悪く働いている例は、陳君自身の話の中に見出せる。「私の国の孟子(メンシアス)と云ふ人は徳の高い人は家畜の殺される処又料理される処を見ないと云ひました」。これは「君子は厨房を遠ざくる也」という成句の元になったお話。君子=徳の高い人というのは、生きている動物を見たりその声を聞いたりすれば、可哀想になってその肉を食べる気が失せる。ゆえに君子は調理場には近づかないのだ、と。
 でも、この君子は肉を食わない、という話ではない。殺されて調理されるところに立ち会いさえしなければ、可哀想に思う心(惻隠の情)は起こらず、安らかに美味しい肉を食える、ということ。それではさすがに、ビジタリアンの立場からして、いいとは言えないから、陳君もそのことは詳述しない。
 また皮肉か、なんて言われないように、必要以上に怒りを表明しておく。こんなの、欺瞞でしかない。嫌なことは下の者に任せておけばいいんだ、という身分社会には「常識」だった差別意識に基づくところ、欺瞞が二重になっている。そして陳君は、議論に勝つために、意識的にか無意識的にか、それには目を瞑っている。

 この童話の最後には、キリスト教国生まれでありながら仏教徒、それも浄土真宗本願寺派の信徒だという人が登壇し、「二十六夜」の梟の僧侶と同主旨のことを言います。曰く「この世界は苦である」、この世界で行われることはすべて矛盾であり、罪悪である。我々が感じる正義なるものはすべて、自分が気持ちがいいというだけのことなのだ(だから、肉食が気持ちがいいなら、それを止める根拠は、我々の内からは出てこない、ということになる)。ただ阿弥陀仏に帰依せよ。すべてはそこから始まるべきなのだ、と。
 これに対して「私」が激昂して反論します。お釈迦様が肉食を禁じたかどうかの高度な仏典の解釈は、私にはわからないので、措く。最後のあたりに言われているのは以下。
 宗教の真髄は、仏教でもキリスト教でも愛である。また、生命は生々流転を永遠に繰り返すので、我々のまわりの生物はみな永い間の親子兄弟である(これは仏教独自の考えだろう)。親子兄弟を愛するならば、これを殺して食べるなどということがどうしてできようか。僧侶でありながら肉食を認めた親鸞などは、堕落した仏教徒である、とは言っていないが、理の当然で、そういうことになるだろう。
 「私」=宮澤賢治、とは即断できないが、賢治の思想の一部はここに、かなり簡潔かつ明瞭に出ている、とみていいだろう。そのためにかえって、生き物の悲しみを見つめ続けるところからくる諦念は感じられない。前述したように、それこそ我々を深く感動させるものだろう。結果「ビジテリアン大祭」は、彼の遺した著作物の中で比較的知られていないものになっているのだと思う。

 それは賢治にもけっこうわかっていたのではないだろうか。
 この童話の最後では、それまでビジタリアン達を論難していた者たちが皆改心して、ビジタリアンになる。そこで驚いていると、さらにまたどんでん返しがあって、すべてが、最初から仕組まれた余興の芝居であったことがわかる。つまり、作中の反対派は実際はビジタリアンなのであって、デイベートよろしく、本当は信じていない批判を述べて、論破されてみせた、というのが真相なのだ。
 事前にそれを知らされておらず、すっかりだまされた「私」はあっけにとられて、「あんまりぼんやりしましたので愉快なビジテリアン大祭の幻想はもうこわれました」と最後に述べる。
 どんな信仰も思想も、個人の内にある限り、純粋なものであり得る。社会運動になって、多くの人を巻き込もうとするなら、どこかに欺瞞を含むようにならざるを得ず、また運動が大きくなればその部分も大きくなってしまう。ほぼすべての革命運動が、成功してみれば革命以前より多くの犠牲を出してしまうのは、この理由からだ。
 熱心な仏教徒であった宮澤賢治は、この矛盾も人間の悲しむべきところの一部として、感得していたのではないだろうか。
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書評風に その3(ドストエフスキー「罪と罰」)

2022年07月29日 | 文学
メインテキスト:フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」(原著の出版年は1866年。工藤精一郎訳新潮文庫上下二巻昭和62年)

上演台本・演出:フィリップ・ブリーン 翻訳:木内宏昌 「罪と罰」シアターコクーン令和元年

 ドストエフスキー(長いんで、以下「ドストさん」)について述べます。多分、世界最高の作家でしょう。それはもちろん好みにも拠りますが、小説という形式によって、驚嘆すべきことを成し遂げた人ではあります。

 社会主義運動に加わったとして、死刑判決を受け、処刑直前に減刑され(これは帝政ロシアの官権によってあらかじめ決まっていた筋書きで、死の恐怖によって不穏分子を「更生」させようとする茶番)、シベリア抑留(1849ー1854年)を経験して10年後の中編「地下室の手記」(1864)から、この人の独自の歩みが始まった、でいいでのでしょう。が、これ以前の「白夜」(1848)や、晩年の「おとなしい女」(1876)などの一人称小説の主人公もまた、自意識過剰で、やたらに饒舌だという特徴があります。
 現代の「ひきこもり」みたいな、どうしても社会に適合できない部分を抱えてしまった人間は、近代に入ってから増えたのでしょう。革命以前のロシアの都会にはかなり多かったのかな。よくわかりませんが、ドストさんは彼らを語った。彼らに語らせる、という形式で。なんかわけのわからないことをしゃべくるんですけど、それ自体がもちろん当時の社会や思想状況の反映ではあるのでしょう。
 しかしねえ、こういうのを面白いと思う人は多くはないと思います。たいがいうんざりしますでしょう。ドストさんがこの段階にとどまっていたら、フランツ・カフカに匹敵するほどの作家でもない。少なくとも私にとってはそうです。
 しかしあるとき、この主人公(男性)は、自分を慰めてくれるような女性だけを求める段階を越えて、殺人という形で思いを社会に投げ出した。ここからドストさんの偉大な四大長編小説が出現したのです。

 自意識そのものからは一歩離れた、客観的な視点を出してから、ドストさんの小説は、思想・観念をストーリーの動力とするようになりました(「白痴」はまあ、例外。これも非常に好きな小説ですが)。その第一歩が「罪と罰」です。
 ちょい遡りますと。
 古来、物語(ロマンス)というのは、いわゆる波瀾万丈の、曲折に富んだ運命を描くものです。主人公は並外れた人物であることもあれば、そうでないこともありますが、性格や境遇が長々と描かれることはありません。そんなの、普通に言って面白くないし、物語の中では余計な夾雑物になります。強い人はどこまでも強い英雄豪傑なのですし、美女は絶世の美女であって、またいかにもそれらしく振る舞うのです。
 大きな変化は、19世紀に起こりました。
 ドストさんとギュスターブ・フローベールが同年(1821年)の生まれ、それも一ヶ月違い、だと知ったときには、世の中には面白い偶然があるものだと思ったことを、今も覚えています。
 後者はいわゆる近代リアリズム小説の完成者だと言われているわけです。特別な性格や境遇があるわけではない市井の平凡人でも、時には自殺することも、犯罪に走ることもある。それぞれが、それぞれの物語を生きている。それを描くこと、だけではなく、その人の環境ぐるみで「人間」の全貌を紙の上に写し取り、もって逆に、背景の社会の具体的な像をも刻むこと(フローベールについては、そう単純には言えない要素も思い浮かびますが、それは措きます)。
 こういうのがその後「純文学」(この言葉は日本にしかないのかも知れませんが、単なる娯楽読み物ではない、高級な文学ということなら、西欧にも概念はあります)の王道とされました。主に20世紀になってから、この軛から意識的に逃れようとする作家が何人も出ましたが、それは逆に、ここで確立された方法論がいかに強固かを示すものでしょう。

 ドストさんは、小説制作方法の問題そのものには無関心だったように見えます。
 七歳年下にはレフ・トルストイというフローベール以上の天才がいて、複数の主人公を並行してリアリズムで描き、広さでも深さでも圧倒的な小説世界を創造しました。ドストさんは、「アンナ・カレーニナ」を「芸術上の完璧であって、現代、ヨーロッパの文学中、なに一つこれに比肩することのできないような作品である」と絶賛するなど、その価値も十分に認めたのですが、自身は、この時代に西洋社会の表面に出現した観念上のデーモン(過激な思想)に強く興味を惹かれた結果、でしょう、それが跳梁跋扈する一種の活劇を物語る道を歩んだのです。

 「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフ(長いんで、以下「ラスコ君」)はどういう人物だったか。
 まずのっけに、「驚くほどの美青年」であることが直接言われ、次に、幼い頃老馬が虐殺される場面を目撃して、同情と怒りに駆られて、殺した農夫に殴りかかっていったほど、優しくて繊細な心の持ち主であることが語られます。以上は「説明」ですが、作中ではラスコ君は幼児期の体験を夢で「体験」し直すのです。学生としては、気難しくて寡黙で、友人は一人もいなかったことは説明されています。
 以上が作品のごく最初のほうに記されていることです。それから一気に飛んで、「エピロローグ」になってから、ラスコ君の犯罪後に友人になったラズミーヒンが、彼の刑期を短くするために、次のような証言をします。彼は学生時代に同窓の貧しい病弱な青年がいたのだが、彼自身のみならず、彼の死後、その父親の面倒までみた。さらに、火事の時にもう火がまわっている家から、自身が火傷を負いつつ、二人の子どもを救出した。
 ここからすると、気難しいところを除けば、純愛物語のヒーローに相応しい好青年ということになりそうです。そういうのは、「純文学」ではない。そこで、彼を夢中にさせたのは美女ではなく、抽象的な思想だったのです。

 次に物語の構成の点から見ると、けっこう凝っていると言えます。第一部の第三章までに主要登場人物のほとんどの名前は出てきて、マルメラードフ家の悲劇と、ラスコ君の妹ドゥーニャの結婚話という、二つのサブプロットの発端も書き込まれています。
 エピロローグを除く話の全体が、きっかり二週間で始まって終わります。それ以外に、いろいろ細かい工夫を凝らしていることは、江川卓『謎解き「罪と罰」』などで夙に指摘されています。
 ただし、筋の運びの点では。一般にあんまり感心しないと考えられている偶然の要素をけっこう入れています。老婆殺しの時、見込みはどんどん外れていくのに、偶然の幸運のおかげで発覚を免れるのはいいです。実際にもこういうことはあり、犯罪小説としてのスリルが十二分に発揮されている。
 しかしその後。マルメラードフ一家とドゥーニャの婚約者だったルージンが、たまたま同じアパート、のようなところに住んでいて、行き倒れたマルメラードフをラスコ君が助けて、運び入れて、娘のソーニャにお金を渡すところまで見ている、というのは。
 本当に問題なのはこの後です。ラスコ君に邪魔されてドゥーニャとの結婚がダメになったんだと思い込んだルージンは、マルメラードフの通夜の前に、招待に来たソーニャのポケットにこっそりお札を忍ばせておき、後でそれをソーニャが盗んだんだと難癖をつける。
 なぜそんなことをするのかと言うと、ラスコ君とソーニャはどうやら親密である。その女性が娼婦であるばかりではなく、盗みまでするのだとしたら、ラスコ君の人柄も怪しい。そうなったら妹のドゥーニャも兄を見限り、自分に戻ってくるのではないか、という目論見。
 これ、かなりの無理筋だと思いませんか? ソーニャがよくない女だという印象を与えるところまでは成功したとしても、そのソーニャの恋人だという一事で、小さい頃からいっしょに育った兄もダメなんだ、とすぐに思うなんて、普通はないでしょう。さらに、それによってドゥーニャがまた自分を見直すなんて保証はなおさら、ない。
 「風が吹けば桶屋が儲かる」並に頼りない、こじつけめいた連鎖反応を期待した計画で、こんなのを考えて実行するなんてずいぶん馬鹿な奴だとしか思いようがない。ところが、ルージンは、後述のように、腹黒い俗物ではあっても、馬鹿ではない。どうも、よく練られた筋とは思えない。

 それでも、「罪と罰」は駄作ではない。ということは、作品の焦点がこういうところにはない、ということです。ラスコ君は決して悪人ではないのに、妙な思想に取り憑かれて犯罪に走るのです。
 人間にはナポレオン(超人)としらみ(凡人)の二種類あって、前者は必要とあれば後者を殺す権利があるんだ、という。言葉としては、当時けっこうありふれたつまらんものだったと、作者に地の文で言われ、作中随一の怪人スヴィドリガイロフにも言われています。
 しかし、それに則って殺人を実行するとは。すると次に犯罪者となった生身の彼の心に生じるのは何か。具に、生き生きと描くことに成功したところが、「罪と罰」が傑作である所以です。

 今回は主要プロットの部分は措いて、当時から現在まで社会の主潮になっていると思える思想に、ごく簡単に触れた部分に注目しておきたいと思います。
 これは、かのルージン(ツルゲーネフがアナーキスト・バクーニンをモデルにして書いたと言われる、1856年発表の「ルージン」の主人公と同姓なのは偶然か)が「新しい有益な思想」として述べているものです。
 彼の論は、キリスト教の隣人愛「汝の隣人を愛せ」、への批判から始まります。

(隣人愛の教えに従えば)、わたしが上着を半分にさいて隣人にわけてやる、そして二人とも半分裸の状態になってしまう。ロシアの諺にあるじゃありませんか《二兎を追う者は一兎をも得ず》と。科学はおしえてくれます。まず自分一人を愛せよ、なぜなら世の中のすべてはその基礎を個人の利益においているからである、と。自分一人を愛すれば、自分の問題もしかるべく処理することができるし、上衣もさかずにすむでしょう。経済学の真理は更に次のように付け加えています、社会に安定した個人の事業と、いわゆる完全な上衣が多ければ多いほど、ますます社会の基盤は強固となり、従って公共事業もますます多く設立することになる、とね。つまり、わたしはもっぱら自分一人だけのために儲けながら、そうすること自体によってみんなにも利益をあたえていることになり、そして結局は隣人が半分にさけたものよりはいくらかましな上衣をもらうことになるのです。それももう隣人の恵みではなく、全般的な繁栄の結果なのです。簡単な思想ですが、不幸なことに、あまりにも長い間わたしたちを訪れませんでした。有頂天になりやすい傾向と空想癖に蔽われていたためです。しかしすこし知恵があれば、わかると思うんですがねえ……。

 きわめて適確かつ簡潔に、資本主義の原理を要約しているところ、今でもとても感心します。
 そして、社会全体が豊かになるにはこの道筋しかなかった、それ以外の方法を人類は見つけていない、ということも、遺憾ながら、本当のようです。
 ドストさんはこの考えは嫌いで、そのために嫌いな登場人物に言わせたのでしょう。それでも、変に歪めて、戯画化したりせず、少なくとも一面の真実ではある、と認めざるを得ない形で表現したのは、立派なものです。
 何が正しいのかって、多少コムズカシク言い直すと、資本主義の強みは、個々人の欲望追求に、なんら道徳的な制限を設けないところ。そのようにして、すべての人の前にニンジンがぶら下がられた時、人々は一番一所懸命働く。ルージンの言うように、まことに簡単な思想ですが、簡単で単純なものが結局一番強いんです。
 でもそれなら、社会的な強者は、弱者から富や富の元を奪おうとするから、悲惨さは募るばかりではないか、と社会主義者たちは考えましたし、これまた部分的には正しいようです。
 ラスコ君は、「あなたがさっき説教していたことを、最後までおしつめていくと、人を殺してもかまわんということになりますよ……」と決めつけています。そう言われると確かにこれは、彼が取り憑かれた「ナポレオンか虱か」を緩やかにしたもののように見えます。
 それに対してルージンは、「何事にも程度ということがあります」と応えています。そうですね。だいたい、金儲けに結びつかないのに、わざわざ人を殺すなんて、普通はしません。戦争で金儲けしようなんぞという輩は、いたし、今もいるでしょうけど。

 それから、これはさすがにドストさんの頭にはなかったんじゃないかと思うんですが、以前にこのブログでとりあげたフォーディズムの問題があります。
 収奪するためには、相手がまず収奪するに足るだけのものを持っていなくてはならない。昔はそれは労働力だけだったのだが、19世紀末から20世紀初頭にかけて、フォード・モーターズ創業者のヘンリ-・フォードを初めとする何人かの資本家たちが、労働者は同時に消費者でもあることに気づいた。
 そこで彼らは、オートメーション化の徹底によって製品の、フォードの場合には自動車の、生産コストを節減して価格を下げ、同時に労働者たちに従来と比べたら破格の賃金を出して、自社の製品を買いやすくした。
 かくて、大量生産→大量消費の回転で、モノ(サービスを含む)が社会の隅々にまで及び、また新しいモノを作るだけの余分なお金も広まった状態を、豊かな社会、と普通言っているのです。
 このような状態そのものを悪く言うことはできません。ラスコーリニコフ家に金銭的な余裕があったら、あの犯罪はたぶんなかったのです。ソーニャの幼い弟妹たちは、スヴィドリガイロフの出した怪しい金がなかったら、生きていくことも困難だったでしょう。
 しかしもちろん、すべて万々歳というわけにはいきません。ソーニャの父のマルメラードフは? このような性格の弱さを抱えている人は、どこでも、いつの時代でも、います。彼らを救う原理は資本主義にはありません。そもそも、そんなこと、「余計な配慮」だとすることも、ルージンの教説から直接出てきます。
 現に、ごく最近の日本にも、「ホームレスの救済のために、俺の払った税金が使われるなんて、冗談じゃない」なんて言った人がいましたでしょう。

 やや皮肉めいた言い方ながら、このようなことの救いになるのは、普通の人間はそんなに合理一辺倒ではやっていけない、という事実なのです。お互いにできるだけは助け合おうという思いやりが全くない社会に、いかなる愛着が持てますか。すると結局、商取引=交換を基調として営まれる資本主義も成り立たなくなりそうです。信用できない相手とは、あんまり取引したくないですもんねえ
 だから、利害とは別の原理も、必要である、と。両者の間で調和が取れれば、なんて、言うだけなら簡単ですが。例えば、神様抜きの「隣人愛」は成り立ちますか? 言葉を換えて同胞愛とか共同性などと言ってみても、宗教や国家(これらはこれらでまた、大きな厄災をもたらすのですが)の具体的な枠組みなしで、存続し得るものでしょうか。
 予断はできません。今やグローバル化時代とやらで、資本は国家を超えて跋扈するようになっておりますから。我々の共同体はどのように保たれるのか。ドストさんが提出した問題は、このレベルでもまだ我々に突きつけられているのです。
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書評風に その2(芥川龍之介)

2022年02月26日 | 文学
豊田四郎監督「地獄変」(昭和44年)

◎芥川龍之介「地獄変」
 これは芥川の「王朝物」と呼ばれる、平安時代かな、を舞台にした一連の作品の中でも有名なものの一つですから、お読みになった方も多いでしょう。ただ、非常に残酷で、後味が悪いので、そういう趣向が嫌いな人にはお勧めできません。
 ここでは、この作品で使われている「信頼できない語り手」の問題について考えてみたいと思います。
 Unreliable narratorとは、米国の文芸評論家ウェイン・ブースが1961年の著書『フィクションの修辞学』で初めて使った用語だそうですが、この作はずっと古い、大正7年(1918)の発表ですし、さらにもっと前からいくつかの小説で見受けられるので、理論を学ぶ必要なんてありません。要するに、主に一人称小説で、語り手がウソをつくか、まちがった認識を持っていて、結果読者も、少なくとも途中まではダマされてしまう、そのことの効果を意識的に狙った作品です。
 これで一番有名なのは、やっぱり推理小説で、アガサ・クリスティーのアレ(自主既成)ですね。クリスティー自身、これは生涯一度しか使えない、と言っているのですが、これもウソで😉、後年もう一回使ってます。また、クリスティーが最初かと言うと、そうでもなくて、アントン・チェホフの中編「狩場の悲劇」(1884年)はほぼ同じ趣向です。それよりもっと前があるかも知れません。ご存知の方は教えてください。

 この範囲に含まれる芥川の作品で、黒澤明監督の名画「羅生門」の原作にもなったので特に有名なのは、「藪の中」ですね。これも平安時代、山脇の藪の中で、殺人事件が起きる。その当事者三人の証言(一人は被害者で、死んでいるので、巫女の口寄せに拠る)で作品の大部分が構成されるのですが、各々の語る内容が大きく食い違っていて、真相が何かは最後まで明らかにされないのです。それでいて異様な迫力があり、忘れがたい名編です。
 推理小説の変形と見ると、解決編がなくて、それは読者一人一人が探偵になってつきとめてください、と言っているようにも見える。黒澤の映画も、解答例を示したものと言えますし、他にも沢山、解釈を示したものがあります。やってみるのも一興かな、とは思います。



 「地獄変」はこれとは違って、真相は、直接語られることはないけれど、けっこう明らかで、またこういうひねくれた語り方にした理由もわかる、と自分では思っています。ネタバレ全開で述べますので、どうぞご意見をください。
 物語の語り手は、時の権力者「堀川の大殿」に仕える家人(家来)。大殿のモデルは藤原道長か誰か、ともかく摂関政治期の大立て者の一人と思えばいい。まずのっけに、「堀川の大殿様のやうな方は、これまでは固(もと)より、後の世にも恐らく二人とはゐらつしやいますまい」と言われ、政治家としても、「下々の事まで御考へになる、云はば天下と共に楽しむとでも申しさうな、大腹中の御器量がございました」と大絶賛している。
 これが全くウソで、大殿は非常に腹黒く酷薄な人物であることは、物語の中途まで読めば自然にわかるようになっている。だから、会話文ではない、いわゆる地の文でも、大殿について言われていることは、文字通りにとってはならない。
 もう一人の主人公である絵師・良秀については、さんざんに罵られている。ケチで横柄で高慢で、中でも許しがたいのは、本朝第一の絵師ということを鼻に掛け、「それも画道の上ばかりならまだしもでございますが、あの男の負け惜しみになりますと、世間の習慣(ならはし)とか慣例(しきたり)とか申すやうなものまで、すべて莫迦(ばか)に致さずには置かないのでございます」。こちらは、少なくとも世間の評判に関する限り、この通りであったろうと納得される。
 
 さて、良秀には娘が一人いて、これが全く父に似ない愛らしくて性格も優しい子で、父思い。良秀も彼女だけは人が変わったように可愛がっていた。十五歳になって、堀川の大殿の女房(女官)になっていたものを、良秀は何度か家に帰してくれるように頼んだが、大殿は決して許さなかったし、どうやらそのために良秀を見る目も冷たくなっていった。それは色好みのためだろうという噂もあったが、大殿は「如何に美しいにした所で、絵師風情の娘などに、想ひを御懸けになる方ではない」し、「中には地獄変の屏風の由来も、実は娘が大殿様の御意に従はなかつたからだなどと申すものも居りますが、元よりさやうな事がある筈はございません」と、信頼できない語り手は言う。
 そして、こちらは現実だと信じられるが、あるとき、どうやら娘の寝所を誰かが襲ったらしい後の場面を見る。慌ただしく去って行く足音を耳にして、「誰です」と尋ねても、娘は口惜しそうな様子で堅く唇を噛みしめ、首を横にふるばかり。真相は明らかにされない。これが第一の伏線。
 第二の伏線、というより、クライマックスに直結するプロットは、大殿が良秀に。地獄の有様を描写した地獄変の屏風絵を描くように依頼したこと。その時から前にも増した良秀の奇行が始まる。その挙句、絵は八部通り出来上がったらしいのに、良秀はひどく浮かない様子になった。
 あるとき、大殿の前に罷り出て言うには、自分は総じて目に見たものしか描けない。地獄を描くに当って、鬼の獄卒たちは、毎晩のように夢に出てきたので、それを思い出して描いたし、弟子を縛ったり耳木兎(みゝづく)に襲わせたりした様子を、責め苦に苛まれる罪人たちのモデルにすることもできた。ただ一つ、是非描きたいのに描けないものがある。豪奢な牛車が、燃えながら空から落ちてくる。その中で、「一人のあでやかな上藹が、猛火の中に黒髪を乱しながら、悶え苦しんでゐる」。地獄変の絵を完成させるためにどうか……。

 ここまで書けば、恐ろしいクライマックスの説明をする必要はないでしょう。結末だけ言いますと、愛娘を犠牲にして出来上がった絵の出来映えは凄まじく、良秀に反感を持っている人々をも感嘆させた。良秀は、絵が完成した翌日、首を吊って死んだ。
 これは権力に対する芸術の勝利と言えるのでしょうか? この作を芥川の「芸術至上主義」の現れと言う人もいますが、そもそも芥川という人は、芸術を絶対視するような、否、絶対視できるような人だったのでしょうか。
 仮にそうだとすると、普通の人は反問するでしょう。どれほどの大傑作であろうと、これほど大きな代償を払ってよいはずはない、と。そういう普通の道徳観は芥川の中にもちゃんとあって、それが良秀の、たった一行で書かれた哀れな最期に現れているようです。それでもそれは、地獄を描くために自ら地獄に墜ちた芸術家の、必然的な姿ではあります。
 この最後の意味は、幾重にも反転するのです。堀川の大殿からすれば、この振る舞いは、自分の意のままにならぬ良秀父娘への復讐であったのでしょう。良秀は、権力に抗えるはずもなく、敗れ去るのですが、その敗北がそのまま芸術上の勝利になる。ただしこの勝利は、彼自身を含めた何者も救済しない。どこまでも曖昧な二重性。それが作品叙述の曖昧さにも適合しているように思います。

 ところで、「地獄変」の続編である「邪宗門」では、芥川は大殿に罰を与えています。これも非常に曖昧に描かれているのですが、ある女房の夢に、「良秀の娘の乗つたやうな」火に包まれた車が天から下りてきて、中からやさしい声で、「大殿様をこれへ御迎へ申せ」と呼ぶ者があった。その車を惹く獣は人面で、どうやら良秀の面影があった。それからしばらくして大殿は、ふいに熱病となり、寒い時節だったのにまるで内側から焼け死ぬような無残な死をとげるのです。

 「邪宗門」は、「地獄変」の最初にちょっと出てきた、大殿の息子の若殿を主人公にして、たいていの娯楽小説が決して及ばないほど面白い展開を見せてくれます。「芥川さん、こんなに面白い小説が書けるんだったら、もっと他にも書いて欲しかったなあ」と思わんばかりですが、最大のクライマックスに来た、と思ったら中断されています。「やっぱり、こういうのは完全には書けない運命だったのかなあ」なんて思いになります。
 上記「藪の中」「地獄変」「邪宗門」三作とも、画像の岩波文庫に入っています。
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書評風に その1(山本周五郞/ジョルジュ・シムノン/中島敦)

2021年12月27日 | 文学
 今年の8月に入ったFacebook上の読書クラブに投稿した小説評のうちいくつかを、最小限の訂正をしたうえで、再録します。


◎山本周五郞「柳橋物語」(新潮文庫『柳橋物語・昔も今も』所収)
 私は一応山周ファンなんですが、なんせ作品総数が膨大なんで、まだ半分も読んでいないでしょう。
 中で、中編「柳橋物語」には圧倒されました。絶対神の伝統的な観念のないこの国の、それも江戸の下町を舞台にして、「精神の勝利」というべきことが、たいへん説得的に描かれているからです。
 ネタバレはどうかな、とも思いましたが、まあいい、この作品の真価は、実物を読まねばわからないのは明かなのだから、以下に、大筋の骨組みだけを「起承転結」に分けて語ってみます。

 【起】一人のヒロインを恋する二人の男がいた。男Aが結婚を申込み、ただし上方に修業に行くから、帰ってくるまで待ってくれ、と頼む。ヒロインは「待っているわ」と応え、操をたてるために、男Bには、もう家に来ないでくれ、と申し渡す。
 【承】大火災が起こり、危ういところへ駆けつけたBによって、ヒロインは助けられるが、Bは死亡する。そのときたまたま傍に投げ出されていたどこかの赤ん坊を、ヒロインは憐憫から育てることにする。
 【転】ヒロインは懸命に生きるが、あの子どもはBとの間の子だろうという噂が立つ。帰ってきたAはその噂を信じて、ヒロインを詰り、別の娘と結婚してしまう。
 【結】自分を本当に愛してくれたのは誰だったか悟ったヒロインは、件の子どもを実際にBの忘れ形見として育てていく決心をする。

 「真実の愛」の発見物語であるわけです。【転】の部分のヒロインの心持ちをもう少し詳しく述べますと。
 確かに、誤解されても仕方がない状況はあった。しかし、誤解はどこまでも誤解である。それを一方的に信じて、自分の言うことを聞こうともしないのは、つまり自分を本当には愛していなかったからだ。自分もまた。あのとき「待っているわ」と応えたのは、未経験な娘心の軽はずみだったのだ。それに縛られ続けたので、自分を含めて複数の人間が不幸になった。
 これがヒロイン・おせんの「発見」なのですが、どこまでが本当に本当かは、疑問の余地はあります。大火災がなく、普通にAが戻ってきて、約束通り夫婦になれば、もうBのことなど思い出しもしなかった公算大です。そんなことは、神様にしかわからないのです。
 おせんが偉大なのは、どれほど理不尽な災害や誤解でも、自分の身の上に起きたことはすべて自分のものだとして、引き受けていく強さにあります。これが英雄とも言える人間の生き方であって、なんぞと言ってお前にはできるのか、と問われたら……ですけどね。


◎ジョルジュ・シムノン「片道切符」
 シムノン。これは凄い作家です。何が凄いって、凄いところがなかなか言えないところがとにかく凄い。
 フランス産のシリーズとしては、アルセーヌ・ルパンものと一、二を争うぐらい有名なメグレ警視主人公の警察小説を量産する傍ら、これまたかなりの数の本格小説(ロマン)を遺した。その多く(と言っても私は半分も読んでいませんが)が犯罪をプロットの中心にしているので、犯罪小説と呼ばれていいようですが、犯罪にまつわるハラハラドキドキが興味の焦点というわけではない。では、何? ええと。
 読んだ限りでは、「片道切符」(原題「クーデルの寡婦」)と「雪は汚れていた」の二作が代表作と言っていいようです。後者は『キリスト教文学の世界』(主婦の友社)に採られているほど深く宗教的世界観が埋め込まれた作品で、もう一度精読しなければ何も言えません。前者について、ちょっと、軽く語ってみます。
 アルベール・カミュ「異邦人」と同じ1942年。同じ出版社(ガリマール社)から出て、似ている、と言われたようです。これについてアンドレ・ジッドがシムノン宛て私信で次のように絶賛しているのはよく引用されます。
『異邦人』との酷似が云々されていますが、あなたのほうがもっと遠くまで行っているのではないでしょうか? いつのまにか、とでも言ったらいいかと思いますが、芸術の絶頂にまで達しています」
 これは過褒ではありません(私はカミュも好きですけど)。芸術の絶頂、というとよくわかりませんが、小説の、ある極点は示していると思います。

 筋はいたって単純。ギャンブルのトラブルから殺人を犯して出所した青年が、農婦の家で住み込みの下男になり、彼女の亡き夫の実家との、遺産をめぐる争いに否応なく巻き込まれる、というもの。
 表現も非常に簡明直截。シムノンの大事な文学修行として、ある女性作家兼編集者から、「文学過剰」を戒められたことを自分で挙げています(新潮社『作家の秘密 14人の作家とのインタビュー』)。具体的には、一般に文学的な修辞として知られている形容詞や副詞は省き、特に美文は厳禁。最低限の描写というべきものだけがあります。
 登場人物も、全員が、決して善良ではないが、特に悪人ではない庶民で、要するにどこにでもいそう。それでいて、最初から最後まで緊張の糸がぴんと張られ、ラストの破局まで、すべてが必然であったかのように展開していきます。
 以上の拙い説明で、まだシムノン未経験な人に多少の興味をもっていただけたら幸甚です。「雪は汚れていた」「片道切符」ともに絶版ですが、古本では簡単に入手できます。



◎中島敦「文字禍」
 今回はちょっと堅い、と言いますか、難しくはないけれど、抽象的なお話をします。興味のない人にはまるっきりなんですけど、ある人もいると思いますので。
 中島敦は若死にしたので作品総数は少ないのですが、たいへん人気のある作家ですよね。実際、「戦前の日本で、なんでこんな人が出現したのか」と目を見張る思いにさせられること、宮澤賢治に次ぐ第二位だと個人的に勝手に考えています。その独自性もかなり知られていますかね。まあ、自分の言葉で語ってみましょう。
 日本文学の主流、と言っていいかどうか、ともかく、今日に至るまで非常に根強いのは、いわゆる私小説の、私語りです。
 そりゃそうだ、文学はすべて、「私」を描くんじゃないか、と言われればそうなんですが、日本では、その「私」の中身は、作者自身と重なるところが多く、描かれるのは痴情沙汰、あとは貧乏と、病気、など。たいていの人が経験している、とは言えなくとも、一般庶民にとっては一大事であることは誰でも分かる題材で、そこで得られた「実感」を、人生の「真実」として描く。
 描き方を見れば、例えば島崎藤村と志賀直哉と太宰治とでは、ずいぶん違うことは明らかですけれど、ただ、彼らが共通して、少なくとも直接は描かなかったことがある。それは、「哲学的な問題」に苦しむ「私」。
「『私はそれを体験してこう感じた』と今言っている/書いている『私』とはそもそも何か」なんぞという。
 私のような者が口にした場合には、馬鹿な(かつての)若造のタワゴトだとして捨てられてもいいですし、そのような、日本には根強い現実主義を頼もしく思うこともないではありません。それでも、そういうのは人間心理の一部として、確かにあります。

 中島敦が昭和11~13年(1936~38)に書いた「かめれおん日記」と「狼疾記」は、形式上私小説のようですが、このような問いが出てきます。例えば「俺といふものは、俺が考へてゐる程、俺ではない。俺の代りに習慣や環境やが行動してゐるのだ」(「かめれおん日記」)という具合に。
 ただ私も、歳のせい、ばかりではないですが、この種の私語りが直接、生に出てくるのは、少々かなわんな、と感じます。この問いかけを裏返して、「世界とは結局、なんなのか」に替えたとしても。

幼い頃、私は、世界は自分を除く外みんな狐が化けてゐるのではないかと疑つたことがある。父も母も含めて、世界凡てが自分を欺すために出來てゐるのではないかと。そして何時かは何かの途端に此の魔術の解かれる瞬間が来るのではないかと。(同上)

 J.P.サルトルの、「一指導者の幼年時代」に、主人公が幼児期(題名と違って主人公の二十歳近くまで描かれます)、そっくり同じ感覚に陥ったことが書かれています。周りの全部が実際に存在しているというより、その「ふり」をしているだけではないのか、と。
 これが発表されたのは、「嘔吐」と同じく、第二次世界大戦勃発の前年である1938年。ほぼ同じ時期にフランスと日本で、「存在の不確かさ」(「狼疾記」)に関する同じような記述が現れたわけです。偶然でしょうが、やっぱり「へえ」と思わずにはいられません。

 ただ中島敦はサルトルの、先へ行ったとは言いませんが、別の方向からこの問題に光を当てることができました。「文字の霊」という卓抜なアイディアを中心に据えた物語の創作を通じて。これ、文学の徳です。
 「文字禍」は、昭和17年、よく国語の教科書に採り上げられるおかげで中島作品中最もよく知られている「山月記」と同時に、『文學界』四月号に発表されました。今日では「ゲシュタルト崩壊」を扱った小説として一部では有名です。この言葉自体は、当時は、中島自身にも、知られていなかったでしょうが、例えば以下のような症例です。

 彼が最初にかういふ不安を感じ出したのは、まだ中学生の時分だつた。ちやうど、字といふものは、ヘンだと思ひ始めると、――その字を一部分一部分に分解しながら、一体この字はこれで正しいのかと考へ出すと、次第にそれが怪しくなつて来て、段々と、その必然性が失はれて行くと感じられるやうに、彼の周囲のものは気を付けて見れば見るほど、不確かな存在に思はれてならなかった。(「狼疾記」)

 ここではわりと軽く、「存在の不確かさ」の入口のように言われてますね。誰もが体験することのように。実際、そうかも知れません。ただ、たいがい忘れてしまうんですよね。そこを敢えて深掘りしてみる。以下の引用はすべて「文字禍」からです。
 「単なる線の集りが、何故、さういふ音とさういふ意味とを有つことが出来るのか」。それは文字には精霊が宿っており、その霊力の働きではないのか。そう思いついた古代アッシリアの老博士が調査を始める。最近文字を覚えた者たちに尋ねると、「職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、漁師は獅子を射損ふことが多くなつた」。
 なぜか。言葉とはものの影のようなものではないか。【中島は言葉と文字を区別していませんが、音声言語としての言葉を書き留めたものですから、文字とは、影のそのまた影のようなものです。】それなのに、その中で生きるのに慣れると、もうその影を通してしか世界を見ることはできなくなる。

 文字の無かつた昔、(中略)歓びも智慧もみんな直接に人間の中にはいつて来た。今は、文字の薄被(ヴエイル)をかぶつた歓びの影と智慧の影としか、我々は知らない。近頃人々は物憶えが悪くなつた。これも文字の精の悪戯である。人々は、もはや、書きとめてをかなければ、何一つ憶えることが出来ない。

 そればかりではない。文字として記されたできごとは不朽の(この時代の文書は粘土板が使われたので、文字通り腐らない)生命を得るのに、書かれなかったことはやがて跡形も無く消え去ってしまう。まるで、最初から無かったかのように。すると、世界とは文字のことなのか。
 などと思えることこそ、文字の恐るべき企みであり、支配力であろう。この真理を文字で書き留め(?最大の皮肉?)、世に訴えようとした博士は、文字による復讐を受ける。
 もう長く書き過ぎましたので、このへんでやめます。中島敦の作品は本以外に、青空文庫にかなり入っていて、例えば今回言及したものはすべて、パソコンで、タダで読めます。あ、でもこれって、影の影の、そのまた影のようなものか、と思いつつ、擱筆します。
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福田恆存に関するいくつかの疑問 その10(西尾幹二の「不満」から・下)

2020年04月21日 | 文学

戦艦大和1/10スケール模型 呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)

メインテキスト:西尾幹二『歴史の真贋』(新潮社令和2年)
サブテキスト:江藤淳『落葉の掃き寄せー敗戦・占領・検閲と文学ー』(文藝春秋昭和56年)

 福田恆存は『中央公論』昭和56年3月号に発表した「問ひ質したき事ども」の一部で江藤淳を批判している。取り上げられているのは、この年の『VOICE』1月号に出た、日本文化会議のパネル・ディスカッション「日本存立の条件と目標」(開催は前年の9月)、その半分以上の分量を占める江藤の「基調報告」。
【日本文化会議は昭和43年田中美知太郎を初代理事長として発足した保守系文化人の研究啓蒙団体(平成6年に解散)。福田恆存は常任理事に名を連ねている、というよりこの年『文藝春秋』に発表された「偽善と感傷の國」の末尾からは、福田こそ中心的な設立メンバーであったことがうかがえる。が、56年当時は実質的な関わりはなくなっていたようだ。】
 順序として、まず「基調報告」の背景を述べる。
 江藤は昭和54年から国際交流基金から資金を得て、ワシントンDCのウッドロー・ウィルソン・センターに赴き、戦後日本のGHQによる検閲の実態について、原資料に当たって調査した。この時、War Guilt Information Programという言葉がある文書を発見した。直訳すると「戦争責任伝達計画」(江藤訳だと「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」、以下WGIPと略記する)で、つまり、大東亜戦争の日本の「責任」を、占領中の日本人に叩き込め、ということである(詳細は江藤『閉ざされた言語空間』文藝春秋平成元年)。これが戦後日本の言論をずっと縛ってきた、とはこの後保守派の一部にずっと言われ続けている。
 しかし上記のディスカッション時に取り上げられたのは日本国憲法である。これについては検閲も何もない、原文は英語で、GHQによって作成されたものだ。江藤はそのうち特に第九条第二項「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」は、「いつまでも付いて廻る手かせ、足かせ」であって、「日本を拘束している交戦権不承認案である」と言う。
 そんなことならこの当時でもよく言われていた。江藤はこれについて新しい資料を挙げるでもなく、「翻訳された現在の憲法の言語感覚が、あるいは戦後の文学作品の言語感覚にかなり影響を及ぼして」いると主張する。
 それなら、公平を期すためにも言っておかねばならない。これらの憲法問題について、もっとも端的に指摘したものとしては、福田の「當用憲法論」(『潮』昭和40年8月号)の右に出るものはない。現憲法の翻訳が悪文であるとも書かれているし、江藤と本多秋五の論争で有名になった「日本という国が、大東亜戦争で無条件降伏をしたわけではない(だから、憲法草案をそのまま受け取る必要はなかった)」ことも出ている。
 その福田が、「憲法と文学とは何の関係もない」と断じる。だいたい、文体上の影響を受けるほど現憲法を読み込んだ人など、著述家でもそうでなくても、ほとんどいないだろう。国語表現能力の衰退は、国語国字改悪と、国語教育の授業時間が半減したことが原因だ、と。
 第一、とこれより前に福田は言っている、江藤はなんのためにアメリカへ行ったのか。「検閲の結果が戦後の文学のみならず日本のジャーナリズム一般、ひいてはわれわれの言語表現のはしばしにどのように影響しているか」調べるためだ、と。しかし、GHQの検察など、「誰でも知つてゐる」。
 福田自身が事前検閲のためにCIE(Civil Information & Education)に出向き、そのときの担当官がたまたま高校時代の恩師で、Boys, be ambitious.で有名なクラークの実弟だったが、旧制高校(浦和高校)教授としての颯爽たる姿とはうって変わったみすぼらしさを恥じているらしく、ろくに言葉も交わさず、目も合わさずに別れたことを記している。つまり、検閲といってもその程度の場合もあった、ということである。
 その通りだろう。それでも、「江藤氏は私のところに(引用者註、検閲の実態を)聴きにくればよかつたと思ふ」(『全集七巻』)と言うのは、初読の頃から違和感が持たれた。これでは単なる厭味だ。
 福田のように、終戦直後から文筆家であり、雑誌の編集にも携わっていた人にとっては、戦後の検閲は「誰でも知つてゐる」ことに過ぎないだろうが、戦後生まれの我々は、教科書が墨で塗られた、など以外は、よく知らない。誰もちゃんと教えてもくれなかったし。
 そのでんで、時の過ぎゆくままに、完全に忘れ去られていいことだとは思えない。だから、あちらの資料に基づき、「事実」を明らかにしようとする仕事は、いつかは誰かがやるべきだったのだし、現に江藤の没後も、研究している人はいる。
 しかし、この場合でも、「事実」よりはその「解釈」のほうが肝腎である。
 GHQ、中でも参謀第二部に置かれた機関CCD(Civil Censorship Division)が遂行した検閲のうちでも、昭和20年10月から23年7月まで実施されたものは事前検閲であり、GHQが忌避すべきとした新聞・雑誌の記事は発表前に削除され、他の文章に差し替えられたりした。
 具体例として、復員してまもなく一晩で書き上げたという吉田満「戦艦大和ノ最期」は、小林秀雄を感動させ、編集顧問をしていた創元社の雑誌『創元』創刊号(昭和21年12月。小林の「モオツァルト」が掲載されている)に出る予定だった。GHQの横槍は当然予想されたので、白洲次郎に周旋を依頼したが、実現しなかった。そして、「戦艦大和ノ最期」という作品自体はもちろん、それが発表を禁じられた事実も、長い間秘密とされた。
 つまり、検閲の事実を明らかにすることも検閲に触れた、ということであり、日本に自由と民主主義を与えることを標榜していたアメリカが、言論の自由を制限していることは隠さねばならぬ、と考えられていた証左である。
 いや、それどころではない。自由も民主主義も、決してアメリカから押しつけられたものではなく、日本人自身の中から生まれたことにしなければならない。アメリカは、もはや敵ではなく、友人であり、師匠なのだった。憎むべき敵は、日本国内の旧軍隊や軍国主義者の他にない。
 かくして、戦後日本の公理としての大東亜戦争史観、即ち解釈は出来上がった。「戦艦大和ノ最期」の初稿は「志烈ノ闘魂、志高ノ練度、天下ニ恥ヂザル最期ナリ」と、大和とその護衛艦隊に乗り込んだ兵士たちを讃える詩句で終わっている。しかし、昭和27年にようやく創元社から単行本で出されると、もう検閲はなくなっていたにもかかわらず、この部分は削られ、その後も元に戻ることはなかった。
【「戦艦大和ノ最期」の初稿(その前にさらにけっこう異同の多いノートがあるので、江藤は「初出」と呼んでいる)は、アメリカに滞在中の江藤が手に入れた貴重な資料の一つで、『落葉の掃き寄せ』に全文収録された。】

 以上の江藤淳の指摘する事実、いや解釈、には説得力がある。
 例えば、「大東亜戦争」なる呼称は、八紘一宇などとともに、「日本語トシテソノ意味ノ連想ガ国家神道、軍国主義、過激ナル国家主義ト切り離シ得ザルモノ」として「使用スルコトヲ禁止」された。昭和25年12月15日の、いわゆる「神道指令」の一部である。
 もっとも禁止はあくまで「公文書ニ於テ」であって、個人が私的な文書で使うのは自由であるはずなのに、すべての新聞社、雑誌社、出版社がこれに倣った結果、使うのはタブーのようになった。例えば私も、14年前に拙著『軟弱者の戦争論』でこれを使ったときには、右翼だと思われそうなのが恐くて、けっこう勇気が要ったものだ。
 江藤淳や西尾幹二などの、いわゆる戦中派には、それだけではすまない。
 何人かの述懐にあるように、彼らは昭和20年8月15日を境に、世界観・人生観上の完全な価値転倒を味わった。西尾も、吉本隆明などと同じように、成長したら特攻隊になってお国のために死ぬものだとばかり思っていた、と言う(『歴史の真贋』P.215~216)。
 それは軍国主義日本の洗脳によるものだった、と戦後はアメリカに逆洗脳された。逆洗脳もまた、当然、洗脳である。
 例えば新しい憲法では国民主権が「人類普遍の原理」とされている。本当にそうなのか。それだって、皇国史観と同じく、ある日あっさりひっくり返されてしまうのではないか。タテマエとホンネによって織りなされるこの世の実態にまだ馴れていない子ども・若者にとって、この足場の定まらない不安定感は強烈であろう。
 その上、この価値観は他国からもたらされたものだ。それが悪いか? 悪いと思ってたんでしょ。だから隠したんでしょ? 中身がいいなら、それでいいじゃないか、だけで片付く問題ではない。
 戦後生まれの加藤典洋が、平和憲法を力によって押しつけられたねじれ(『敗戦後論』講談社平成9年)と言うのと、意味は同じだが、切迫感はだいぶ違う。ことは、一人前の個人として成熟する途次の里程標たるべきモラルや諸概念が、借り物だったということだから。
 江藤の後半生の仕事は、挙げてこの事情の影響の深さを告発することに費やされたと言ってよい。丸谷才一の小説「裏声で歌へ君が代」(新潮社昭和57年)にことよせて、国家というと、少なくとも自分が現に生きている日本という国家については、ストレートには語れない。斜に構えたような態度で語られた文学を、「裏声文学」と名付けて、批判した(『自由と禁忌』河出書房新社昭和59など)。

 江藤より三歳下の西尾は、この点で、江藤を補完する仕事をした。『GHQ焚書図書開封 第1回』で、彼はそれを自認している。
 GHQが社会から葬った文書は戦後に書かれたものばかりではない。昭和3年から20年までに発行された約二万タイトルのうち最終的に七千八百タイトル強、中には同じものの重複もあって、実質的には七千百ほど、が選ばれ、流通・販売のライン上にあるものはすべて没収され廃棄された。
 その基準を一言で言えば、上記の「過激ナル国家主義」に近い、とされたものの排除だが、中には、なんでこんなものまで、と首をひねるような書籍もあるそうだ。
 それでも、これだけの選定には、英語のできるインテリ日本人の協力が必要であったことは言うまでもない。【福田の話に出てきたクラークは、いわばその変形で、アメリカ人の現地雇いの職員だったろうが、このときの「協力者」の待遇はおしなべてあまりよくなかったらしい。】
 『GHQ焚書図書開封』はチャンネル桜の企画・制作で、これらの書籍のうちから地方の素封家が所有しているものなど約千冊を発掘し、その中でさらに西尾が価値ありと認めたものを紹介・批評した番組。西尾の講義形式で、一回一時間前後で全二百一回、現在もすべて視聴できる(平成19年~。YouTubeに誰かがすべて無料でアップしてくれていたが、最近最初の方が削除され、ニコニコ動画に再々アップされた版で見られる)。内容を精選した書籍は徳間書店から全17巻(平成20年7月~)、文庫では現在まで6巻まで出ている。
 『歴史の真贋』では、この被害にあった著作家の中で、仲小路彰(なかしょうじ あきら)・大川周明・平泉澄・山田孝雄(やまだ よしお)らについて度々言及されている。
 彼らは皆「広角レンズ」の持ち主だ、と言われる(P.340)。視野がうんと広いということ。加えて、「新しい時代へのフレッシュな感覚」「西洋に学んで西洋を超える」「古代復帰への意思」「永遠への視座」もある、と。
 西尾は明治大正の思想家や学者にはあまり興味が持てないそうで、上のように言える著作家は、江戸から時代を飛び越えて主に昭和に出現した。そして、戦後では、小林秀雄・福田恆存に三島由紀夫や坂本太郎らが持つ「昭和のダイナミズム」に惹かれる、と言う。
 その上で、しかし戦後の、いわゆる保守思想家には疑問がある、とも。「戦後的価値観で戦後を批評するこことは盛ん」だが、「戦争に立ち至った日本の運命、国家の選択の止むを得ざる正当さ、自己責任をもって世界を観ていたあの時代の自己認識」(P.344)はない。
 例えば和辻哲郎。忘れられた学者どころではない。戦後岩波書店から全集が出ているし、主著は岩波文庫にたくさん入っている。しかしただ一冊、GHQによる「焚書」の対象とされた本がある。『日本の臣道・アメリカの国民性』(筑摩書房昭和17年)という、二つの講演をまとめたもので、その後『和辻哲郎全集第十七巻』(昭和38)に入った。
 ここで和辻は、西欧の、南アメリカ・アフリカ・アジアに対する悪辣な侵略の歴史を振り返り、近代でもワシントン海軍軍縮条約(1923年効力発生)以降のアメリカのやり口は、平和を唱えながら、日本の軍備を抑え、アジア人の運命を蹂躙し去ろうとする、人倫の破壊である、と断ずる。
 この著作は、戦後隠されたわけではなかった。「しかし戦後の彼の著述にはこの認識は消えてしまいます。福田恆存が戦争責任はアメリカにもあった、とは決して言わなかったのと同じように」(P.306)

 まとめると、恥ずべき戦争を遂行した恥ずべき国民とされた戦後の日本では、国家についてきちんと、「地声」で語れず、結果、世界に向けて責任をもって自主的に、堂々と主張することができなくなってしまった、ということになる。二流の国民からは、二流の言説しか出ない、と。
 そうかも知れない。が、敗戦によって我々が本当に失ったものは何か、具体的に知るのはかなり難しい。まして、ではどうしたら取り戻せるか、になると見当もつかない。今回は私の考えるその困難の一端が伝わればよい。

 福田恆存が晩年に書いた「言論の空しさ」(昭和55年)は、『歴史の真贋』にも引用されている。
 約四半世紀にわたる自分の警世の言論は、この国の現実を少しも変えなかった、と言っているのだが、西尾はこれを小林秀雄の「解釈を拒絶して動かないものだけが美しい」(「無情といふこと」昭和21)を引き合いに出して、「福田さんは「動かないもの」に気がついているのです。そして絶望しているのです。この国の現実は動かない。全然、何をやったって動かない」(P.210)などと言っている。
 なんだかおかしい。だいたい、この現実を「美しい」などとは、小林も福田も夢にも思っていなかったろう。
 それに、福田の言う現実は、言葉によっては変わらないが、言葉と一緒に、コロコロよく変わる。「要するに、言論も政治も外圧によつて動く、といふ事は、いづれも殆ど無益であり、日本は黙つて何もしないでゐるに越した事はないといふ事になる」(『全集第七巻』)。それは戦争中も同じだった。

当時、私は反戦ではなく厭戦であつたと書いた事があるが、それは反戦を進歩主義の象徴とする風潮に対する一種の厭味であつて、実はやはり反戦であつた。勿論、戦争を悪とするが如き単純な反戦ではなく、国家、国民の命運を賭けた戦に対する姿勢、態度の軽佻浮薄にへどが出るほどの反感を覚えたのである。(同前)

 皆が皆「自己責任を持って世界を見ていたあの時代の「一等国民」の認識」を持っていたわけではない、ということだ。埋没した戦前の言論も、戦後の「裏声」も、要するに時代の風潮に合わせただけのものであり、また風潮を形成した一つに過ぎなかった、と言えば、まことに身も蓋もない話になる。
 しかしそう言いながら福田はこの後でも十年以上、言論活動と、言葉を主とする演劇活動を続けた。一般民衆は仕方ないとしても、いろいろな意味で言葉の専門家であるはずの文学者も、学者も、それから政治家も、自分の言葉に一貫性を保たせるように努めるべきなのだ。もしそれができないなら、できない事情を明らかにするように努めるべきだ。そのようなこだわりだけが、すべてがフィクションである人間社会に、秩序と意味を付与することが出来る。これを最も厳しい形で自分にも他者にも要求してきたのが、福田恆存という言論人だった。

 さらにもう一段、そう言いながらも福田恆存は、結局、戦後の日本社会を、「アメリカによって守られている」というこの国の現状は認めていたではないか、と言われるかも知れない。
 確かに福田は「親米保守」知識人の一人に数えられた。昭和40年には、ジョンソン大統領によるヴェトナム北爆を支持した、というより、日本知識人のお気楽なヴェトナム戦争反対声明に反対した「アメリカを孤立させるな」(『文藝春秋』9月号)を書いている。
 これについては、特に弁護の必要もない。日本は軍事外交的には、アメリカとの同盟関係を基軸としてやっていくしかない、その現実はどうしようもないのだから、ごまかすな、と言っている。だからといって、かの国が必ず日本を守ってくれる、などと信じていたわけではない。
 この点では西尾に、誤解というか、認識不足があるように思う。佐藤松男が発掘して「福田恆存、知られざる「日米安保」批判」(『正論』平成25年3月号中)で取り上げた「文筆業者は一人で責任をとる」(『朝日ジャーナル』昭和57年4月)を取り上げて、「最晩年に、アメリカの戦後政策の善意を疑い出す自己認識の訂正が非公式に行われたようです」(P.294)などと言っている。
 これもヘンだ。いかに談話録ではあっても、『朝日ジャーナル』のようなよく知られた雑誌で活字になったものが、「非公式」はないだろう。全集編集者や、ひょっとしたら福田本人も忘れて、埋没してしまっただけだろう。
 それに第一、昭和55年に発表された「人間不在の防衛論議」(後に「防衛論の進め方についての疑問」と改題。『全集七巻』)中の「第三章 アメリカが助けに来てくれる保証はどこにもない」で、既に上の主旨は詳細に語られている。
 さらに56年発表の、前述の「問ひ質したき事ども」でも、短いが、「アメリカは貿易戦争に勝つために、日本に要りもしない金を捨てさせやうというのに外なるまい」などと言われている。「たとえそれ(引用者註、真の日米安保条約=真の日米同盟)が成立しても、アメリカにそれだけの余力がなければ、日本を見捨てるであらう。さうなつたら、さうなつたで仕方がない。が、それだけの覚悟は持つべきだ」(同前)とも。
 アメリカはしょせん他国なのだ。ただ、日本を決して守らない、とも限らないから、防衛政策上の意味はある。たとえ日本が再軍備しようとも、このような、揺れ動く細い綱の上を歩まねばならないのが、国際政治というものであろう。アメリカはまちがっているの、日本は正しいの、などと言ったところで、始まらない。
 福田が衝いているのは、日本の防衛体制はどうにもならないから(本当にどうにかするためには、憲法を変える必要がある)、「イザというときにはアメリカに守ってほしい」、この願望がそのまま「守ってくれるはずだ」にすり替わる心理で、この種のことは実際によく起きる。こんな国防論、いや国防無能論の幼稚さが多くの人の目に見えるようになってきたことが、現代の、せめてもの「進歩」ではあるようだ。それは確かに、言論ではなく、ソ連や、最近では中国や北鮮がいろいろやってくれるおかげではある。

 以上いろいろ述べた私も、福田恆存が絶対だと思っているわけではない。彼が見逃したので、後継者がやるべきことはいくつかある。西尾のおかげで、私なりに、そのうちの二つは明らかになったと思うので、最後にそれを挙げる。

(1)日本という国の連続性を認識するために、戦前の思考を、肯定否定の前に、理解するように努めるべきだろう。それが難しい。例えば、真珠湾攻撃時に表明された感激を想起することは。
 『落葉の掃き寄せ』中の「改竄された経験」という文章では、平野謙が取り上げられている。
 『婦人朝日』昭和17年2月号に発表された平野「戦争と文学者」は、このように書き出されている。「昭和十六年十二月八日は、私ども日本人にとつてながく忘れることが出来ない歴史的な記念日となるだらう。東亜の新たな曙たる大東亜戦争勃発の日として、永へに青史に残るであらう」(原文正漢字・ルビつき)。
 戦後は、この部分のみならず、「戦争と文学者」全体が、けっこう手の込んだやり方で隠されたことを明らかにしたのが江藤の一文である。これは単なる一例であって、開戦当時同種のことを書いていたのは平野以外に大勢いる。江藤は『文學界』同年1月号に出た青野季吉と森山啓の文章を同質のものとして挙げている。因みにこの両人はプロレタリア文学からの転向者。
 ここから彼らの戦後の変身(でしょ?)を見ると、いかにも不誠実だから、現に様々に批判された。今更その驥尾に付そうというのではない。いったい、昭和16年12月8日の、文学者達のこの熱狂はなんだったのか。「戦争犯罪の反省」(そんなものは成り立たない、と福田恆存が言っていることは前述した)の弁はあっても、これを自ら明らかにしようとした試みを、私は寡聞にして知らない。
 福田が言うような、世間に横溢していた好戦気分に乗っかっただけなのか、もっとすすんで、そのような世間やら軍部への阿(おもね)りだったのか。そう見るのは厳しすぎるとしても、江藤のように、「国を思う気持が深かった」からだ、などと言うのは、逆に人が良すぎるだろう。
 その江藤が、戦後の隠蔽・改竄にはめっぽう厳しく、それはWGIPを内面化した「敗北」だ、などと言う。この言葉は直接には、吉田満「戦艦大和ノ最期」に対して言われている。
 それは、作品を世に出したいと努力するうちには、検閲基準をよく理解する必要は感じられたろう。東京裁判その他の機会から、天一号作戦を初めとする日本帝国海軍の作戦の無謀さが、やや強調した形で伝えられたこともあったろう。
 具体的には、「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ、負ケルコトガ最上ノ道ダ、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ハレルカ、今目覚メズシテイツ救ハレルカ、俺達ハソノ先導ダ」という臼淵磐大尉の言葉は初稿からある。決定版になると、これに「日本ハ進歩トイフコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダハツテ、本当ノ進歩ヲ忘レテヰタ」など、たくさんの言葉が加わり、さらにガンルーム(下級士官室)で、「自分たちはなんのために死ぬのか」をめぐる激論があったことも記されている。
 それはいかにも、戦後ではすんなり受け入れられるエピソードである。それだけに、だろうか、臼淵大尉の言葉を含めて、これらの記述が事実であったかどうか、疑問視する向きもある。
 そしてそんな時代になったら、「天下ニ恥ヂザル最期ナリ」などとはどうにも言いづらくなっていたことは、なんとなくわかる。言いたい感情は残っていたとしても、それがストレートに通じるとは、到底思えないからだ。平野謙もまた、大東亜戦争開始は「東亜の新しい暁」だった、とはもう言えなかった。さらにまた、なぜ言えないかも言えないから、結果としてこれらの言葉は隠されることになってしまう。
 これを「敗北」と名付けるのは、酷と言うより、微妙に的を外しているように思う。
 小林秀雄は、前出「政治と文学」で、この微妙さを文章にしようとした数少ない一人だ。昭和24年に初版が出版された学徒兵の遺稿集『きけわだつみのこえ』(東京大学協同組合出版部)について、直ちに気づいたことがあったが、「言へば誤解されるだけだと考へて黙つてゐた」。しかし、小林は結局それを言ってしまう。
 問題は、全国から集められた手記の取捨選択の基準。それは別に秘密ではなく、編集者によって明らかにされていた。「戦争の不幸と無意味を言ひ、死にきれぬ想ひで死んだ学生の手記は採用されたが、戦争を肯定し喜んで死に就いた学生の手記は捨てられた」のだ。その「理由には条理が立つてゐる」が、しかしそういうことになんら文化上の疑念を抱かない、というのはまちがっている。
 ここから、前回挙げた「私達は……正銘の悲劇を演じたのである」という言葉が出てくる。それには納得する。悲劇にいいも悪いもありはしない、というのも、その通りであろう。しかし我々には、その悲劇の始まりの感情は、もうわからなくなっている。
 これを取り返すことはできるのだろうか。それとも、その喪失を含めて「我々の歴史」はある、と観ずるべきなのだろうか?

(2)我々は今「歴史戦」の最中にある。
 この言葉は、阿比留瑠比を中心とした産経新聞の記者たちが命名したものだが、昭和の終わり頃から、中韓からの、日本の戦争犯罪を糾弾する声はいよいよ高まり、世界的に広まっている。
 現在の中心の話題は従軍慰安婦問題で、それ以前からある南京大虐殺問題も同様、実に根拠の怪しい話であるにもかかわらず、例えばマイケル・サンデルのような学者も信じ込み、日本でもベスト・セラーになった『これからの「正義」の話しをしよう』で、「日本はこれを否定すべきではない」などと書いている。日本人が少しでも反論しようものなら、悪罵と嘲笑を投げつけて、それを消し去ってしまおうとする「人権団体」も、世界各地に存在する。
 これは確かに由々しき事態である。いかにも、言論戦、と言うに相応しいが、議論ではない。最初からこちらの言うことに聞く耳は持たない、と決めている相手とは議論にならない。
 こんなところでは、大切なのは「事実」ではなくて「解釈」だ、なんぞと決して言ってはならない。たった一つの「事実」はあり、それは立証可能であるという前提で語られるしかない。
 裁判の、検察官と弁護人との舌戦に近いわけだが、そのどちらが「事実」に迫り得ているか、判断する(つまり、解釈する)裁判官はいない。全世界の、知性や良心を気にかける習慣のある人々を陪審員に見立てて、気長にやっていくしかない。
 この場合、中島義道が『ウィーン愛憎』(中公新書平成2)で描いたような、こちらの非は絶対に、一寸も認めず、相手側の非だけ言い立てるイギリス人女性に倣うべきなのだろうか。そういう場合もあるのだろう。国際社会とはそのような場であることを明瞭に意識し、文字にしたのは西尾『ヨーロッパの個人主義』(講談社現代新書昭和44)が走りだったと言われている、と本人が自認している(『歴史の真贋』P.265)。
 しかし、これをあまりに強調すれば、重要なのは結局、力(政治力や経済力)のみである、というところに落ち着いてしまう。言葉によって真実(事実ではない)にたどり着くことなど決して出来ない、ならばつまりは、真実などない、ということになる。そこまでのニヒリズムには、人間、そうは徹底できないものだ。たとえそのほうが「事実」には近いとしても。
 それにこれは、その場で、(決裂を含めて)一応の決着をつけねばならない「口喧嘩」ではない。戦後七十五年を閲したのだから、もう充分長すぎる、と言われるかも知れないが、まだまだ続くし、続けなければならない戦いだろう。そこでは、繰り返すが、聞く耳を持たない人には何を言っても無駄。多少はある人に向かって、できるだけ冷静に、公正に、自分の不利も隠さず、理路を尽くして説得に努めるべきだろう。

 ざっとこのようなわけで、現在の、そして将来の日本人が歴史を取り戻すことはますます難しくなっているようだ。小林秀雄や福田恆存の業績は、大きな力にはなるが、我々はそこから、もっと先を目指さなくてはならないのだろう。『歴史の真贋』の結語と言うべき以下の文は、その決意を語っている。

負けたか勝ったかだけの根拠をここで問題にするのなら、これは戦争の論理、政治の論理であって、負けても勝っても立派だったかどうか問わなければいけないわけですから、だったならば、あの時代の日本の運命を、道徳規準で決めるのではなく、国家を襲った歴史の基準によって評価することではないだろうか。(P.347)
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