のほほんブログ

普段の生活の中のチョットしたことを話題にしていきたいと思います

祖父よ、あなたは強かった

2012-01-26 | 悲しいこと
昨日、祖父の葬儀を済ませました。

昨年の夏に入院してから半年ほど。
今月22日の6時半ごろ、97歳の天寿を全うしてこの世を去りました。

年末に尿量が1日100mlくらいになったときがあり、あと2、3日かもしれないと主治医の先生に言われて伯母が夜も泊り込んでいたのですが、その後尿量が増え、少し持ち直したため今月10日くらいからは泊まっていませんでした。
食事を食べさせても全て痰になってしまい、結局痰を取らないといけなくなるため(痰を引くのはとても痛いし苦しいので、もう苦しいのは止めましょうということになり)食べさせることができず、結局点滴だけで20日以上も過ごしていました。
年末から先週までは私も1日おきに昼間の付き添いをしていたのですが、喉風邪をひいたのと仕事の都合で1週間くらい休み、ちょうど22日は私が付き添っていました。

前日の21日は呼びかけても返事をせず1日寝てばかりいたそうですが、22日は呼びかけると目を開け、話も少しでき、祖母の妹が夕方お見舞いに来たときは「ありがとう」と言ったし、尿量も500mlほどあり、特に体調が悪い様子はありませんでした。

4時過ぎに伯母に駅まで送ってもらって帰宅し夕食を作っている最中、母から「病院から電話があった」と連絡がありました。
担当の看護師さんがそばにいたようですが、眠るように亡くなったそうです。


祖父は大正3年生まれ。飛行機の操縦士になりたくて20歳で軍隊に入り、陸軍士官学校を卒業して軍人になりました。
飛行機の操縦はなかなかの腕前だったようで、太平洋戦争では軍の高官を乗せて周りを護衛機に囲まれながら軍事会議へ向かうこともあったそうです。
またインドの独立運動家、チャンドラ・ボースが亡命するときの飛行機を操縦していたのは祖父だったとか。
そしてパレンバンの落下傘部隊を輸送する任務にもあたったそうで、戦後テレビでその特集が組まれたとき、ゲストで出演したことがあり、その放映を見て戦友会が始まったらしいと、母たちは祖母から聞いたそうです。(どこまで本当だったかわかりませんが)
8月15日にはいよいよ祖父自身も特攻隊での出撃命令が出ていて、朝から飛行機の準備を整え命令を待っていたそうですが、命令が来ることはなく、終戦を迎えました。

終戦後、職業軍人は公職追放により公務員になることはできなかったため、就職には苦労したそうです。
航空会社からお誘いがあったらしいのですが、戦争を思い出すから飛行機には乗りたくないと断り、結局タクシー会社やバス会社など運輸関係の会社に勤めて、最後は社長で定年退職を迎えました。


趣味は書道と居合道。
退職後も居合道の指導は続けていました。

入院中リハビリで棒を持たされ、介護士さんに「赤い風船に向かって面をしてください」って言われると、ビックリするくらい大きな声で「えーい!」と棒で風船を叩いていました。
夢と現実が入り混じっている時もあり、ベッドの上で私たちをお弟子さんと思って指導をしたりしていました。

天気予報もよく当たりました。
飛行機の操縦に空の観測は欠かせないものだったようで、今日の天気を尋ねると雲の様子を見て教えてくれました。

若いとき自転車屋さんで働いていたことがあったらしく、毎朝私が通学で使う自転車を空気が抜けていないかチェックし、整備してくれていました。
私は全然そのことを忘れていたのですが、昨日母がそう言っていて思い出しました。

お酒も好きで、よく飲みました。
昔、酔っ払って帰ってきて家を間違えて近所の家に入ってしまい、そこのご主人を殴ってしまったこともあったそうです。

ハーモニカも得意でした。
入院するまで認知症の方のためのデイサービスセンターへ通っていて、そこで祖父がハーモニカが吹けると言ったらしく、曲を演奏したそうです。家族全員知らなくて(もちろん祖母さえ)ビックリしたのですが、家でも病院でもリクエストに答えて吹いてくれました。
ギターも弾けたそうです。これは葬儀に来てくださった祖父の姪の息子さんが母から聞いたと言っていました。


いつだったか何の話からだったかは覚えていませんが、祖父が「『ありがとう』は何回言ってもいいんだよ。」というようなことを私に言ったことを覚えています。
祖父は、病院で看護師さんにオムツを替えてもらったり身体を拭いてもらったり、とにかく何かしてもらった後にいつも「ありがとう」と言っていました。
自分自身、最後までそれを実行していたんだなぁ。。。



入院中「おじいちゃん、いつが一番楽しかった?」と聞いたら「軍隊におるときや」と言っていたので、軍歌をYOUTUBEで探して音声をダウンロードし、CDにして持って行って聞かせたのが最後から2回目の付き添いのとき。
その時はあまり体調が良くなく、全部は聞かせられなかったし少し刺激が強すぎるかな?と思って、次はおじいちゃんがよくお酒の席で歌っていたという都々逸(どどいつ)と懐メロをダウンロードし、持って行って聞かせたのが最後の付き添いのときでした。
「聴いたことある?」と聞くと頷く曲が数曲あり、ちゃんと聞こえている様子だったので、これからも付き添いに来たら聞かせてあげようと思っていたのに、最初で最後になってしまった・・・。


祖父自身が高齢のため、戦友の方たちもほとんどすでに他界され、また遠方にお住まいの方が多いし、会社勤めも現役を引退してから30年以上も経過しているので、家族と親族、そしてお見舞いに何度も来てくださっていた居合道のお弟子さんなど数人の方だけで静かに送る予定だったのですが、居合道のお弟子さんが県の連盟に連絡してくださったり、また母の友人でバス会社勤務時代の元部下がOB会に連絡してくださったり、葬儀当日の朝刊のお悔やみ欄に名前が載ったこともあり、予定より多くの方が告別式に参列してくださいました。

入院中「おじいちゃん、誰に会いたい?」と聞いたら「そりゃみんなに会いたい。誰にでも会いたい。」と言っていたので、祖父はきっと喜んでくれていたと思います。


火葬の後の収骨で、皆ビックリしたのが背骨や骨盤、大たい骨などの形がはっきり残っていたこと。
100歳に近い老人で、こんなに太くてしっかりした骨が残っているのを見たことがないと皆驚いていました。


軍歌で「父よ、あなたは強かった」という歌があるのですが、戦争を生き延びたこと、97歳になっても歩いてトイレへ行けたこと、年末に体調を崩すまでは自分の足で歩けたこと、点滴だけで(1日300kcalくらいだそうです)20日以上生き続けたこと等々・・・祖父よ、あなたは強かった。

祖母の命日は8月22日。祖父が亡くなった22日は祖母の月命日。
きっとおばあちゃんが迎えに来たんだね。
天国でもおばあちゃんと仲良くね。