2013年2月15日、
元横綱・大鵬の国民栄誉賞が
正式に決まった。
ヒット大地、即座に、
最も、ふさわしい人物であると思った。
そして、そのニュースを聞いて、
ヒット大地、落涙した。
ヒット大地、大鵬の、熱烈なファンだったのだ。
大鵬は、ヒット大地と年齢が一回り違う。
ヒット大地、物心つく頃から、
高校生のとき、引退するまで、ずっと大鵬を応援した。
ずいぶん、彼には、励まされたものだ。
引退してからも、夢の中に、何度も出てきた。
「大鵬、現役に、復帰する!」
という夢だ。
夢の中の勝ち星は、11勝4敗しか、取れなかった。
だがヒット大地は、夢の中で、大鵬の取り組みを見て、うれしかった。
大鵬は華々しい現役時代とは違って、
引退後は不幸が続いた。
列挙してみよう。
- 高血圧による脳梗塞・・・その後の、苦しいリハビリ。
- 週刊誌に、家族のことが、面白おかしく取り上げられた。
3. 弟子の露鵬は、薬物疑惑(大麻の陽性反応)で、相撲界から追放。
4. また娘婿の貴闘力も、バクチで相撲界を解雇。
5. 朝青龍の個人的な相談役だったが、結局、彼にも裏切られた。
しかし、そういう数多の不幸にも負けず、
大鵬は、気高く、人生を送っていた。
現役時代より慈善活動に熱心。
「大鵬慈善ゆかた」などを販売。
その利益で、老人ホーム・養護施設へテレビを寄贈。
また日本赤十字社に「大鵬号」という名の血液運搬車を贈った。
合計70台である。すごい!
1982年(昭和57年)、大鵬は、「世界人道者賞」を受賞。
この賞はローマ法王などが受賞した世界的な賞である。
60歳の還暦のとき、
行動するブロガーのヒット大地、
大鵬に、祝福の手紙を送った。
子供の頃のことや慈善活動などを考えると、
そうせざるを得なかったのだ。
享年72.
ヒット大地の母と同じ歳で死んだ。
死因は、ヒット大地の母の病名に似ている心室頻拍だ。
命日は、2013年1月19日・・・
大地式運命学では、最も気高い日に死んだ。
ところで大鵬は数奇な運命を辿っている。
母親は日本人(納谷キヨ)だが、父親はロシア人マルキャン・ボリシコ。
1940年(昭和15年)5月29日、
樺太の敷香町(現・ロシアサハリン州ポロナイスク)に、三男として生まれた。
日本名、幸喜(こうき)・・・ロシア名は、イヴァーンだった。
マルキャン・ボリシコとは、どんな人物か?
ウクライナ人の元コサック騎兵隊将校で、ロシア革命後に樺太へ亡命した。
(注:日露戦争後、南樺太は、日本領だった)
マルキャン・ボリシコは、南樺太の敷香町では牧場を経営。
多くの日本人・ロシア人を雇い、
肉や乳製品を卸して成功。
南樺太では知られた名士だった。
ところが、その後、日本政府の方針で、外国人を隔離。
彼は、外国人居留地に、一人強制収容された。
家族との生き別れである。
戦後、マルキャン・ボリシコは、サハリン州立博物館の守衛を務めた。
だが1960年11月15日、肺炎のためユジノサハリンスク(豊原市)で死去。
この日には、深い意味がある。
そう。
ちょうど、息子イヴァーン(日本名:幸喜)が、
幕内で初優勝する昭和35年11月場所中のことだった。
ところで幸喜は、戦後、母親と共に、日本へ戻った。
すなわち、最後の引き揚げ船の『小笠原丸』で、
北海道へ引き揚げた。
『小笠原丸』は最初、小樽に向かう予定だった。
しかし母親が船酔いなどで体調不良。
やむなく、家族は、稚内で途中下船。
小笠原丸はその後、
潜水艦(ソ連の潜水艦?)から魚雷攻撃を受け沈没。
小樽に向かう途中だった。
大鵬親子は、辛くも難を逃れた。
大鵬は、こう話している。
「樺太から引き揚げた船の4隻中、自分以外の3隻は、撃沈された」
少年時代の大鵬(納谷幸喜)は、母子家庭で、貧しかった。
北海道内を転々と移り住んだ。
ときどき食うのも、精一杯だった。
高校の定時制に通っていたところ、
1956年(昭和31年)に二所ノ関一行が
訓子府へ巡業に来た。
その時に、相撲部屋に、紹介され、
その後、高校を中退し入門した。
大鵬は思った。
「相撲部屋なら、腹いっぱい、食える。頑張ろう!ここに骨を埋めよう!」
二所ノ関には、すばらしい親方がいた。
佐賀県出身の元大関・佐賀ノ花だ。
師匠の薫陶を受けた大鵬は、猛稽古に励んだ。
その結果、入門後の活躍は、目覚しかった。
結局、32回の幕内優勝を飾っている。
この記録は、以後も破られていない。
現在、大鵬は、霊界で、幸福に暮らしている。
霊界の大鵬は、ずいぶん、若く見える。
心から、大鵬に、ありがとう・・・と言いたい、今のヒット大地である。
大鵬のご冥福を、心より、祈りたい!