先日も、連合赤軍のことをブログに書いたが、
ヒット大地の高校生、大学のころ、
日本の学生運動は全盛期だった。
昭和40年代のことだ。
日本の学生は、非常にしばしば
学生運動を行っていた。
最初は、穏健に構えていた学生も、
ある日突然、
「我々は~、米帝国主義に~、断固反対し~」
などと叫び出すことも、ときどきあった。
また、「我々は~」と叫ばなくても、
普通の学生だって、しばしばデモに参加していたし、
さらには、他学校の学生運動を支援したりしていた。
過激派はよく「革命」という言葉を口にしていた。
「日本も、ソ連や中国のように、革命を成功させ、プロレタリアート中心の政府を作ろう!」
というわけだ。
当時、ベトナム戦争の真最中だった。
彼らは言った。
「ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)や北ベトナムも頑張っているから、
俺たちも、頑張ろうじゃないか!」
また徴兵制のアメリカでも、広くベトナムに反対する運動が行われていた。
いや、世界中で反戦運動が、行われていた。
またパレスチナ解放運動に同調する学生もいた。
そういう世界的な流れの中で、日本の学生も、世界に同調していたわけだ。
そういう意味では、日本の学生は、真の主体性がなかった・・・?
なお一般学生は、当時、「小ブル(プチブル)」と呼ばれていた。
「小さなブルジョワジー」という意味だ。
このころ、学生と高校教員は、よく議論をした。
高校生から、教員は「受験テクニックを教えるだけの、
文部省の飼い犬」などと呼ばれていた。
大学教授も、大学生に軟禁され、「自己批判せよ」などと詰問されていた。
今では考えらない事態だ。
(自己批判は、「総括」という言葉を使っていた)
そんな中、ヒット大地は、
完全なノンポリであった。
ノンポリとは「non-political」のこと。
つまり、「政治および学生運動には関与しない(または関心がない)」・・・という意味だ。
この言葉は、当時、非常によく使われていた。
ヒット大地は、本当に、完全なるノンポリであり、
アリンコの鼻クソ0.1mgほども、学生運動はしなかったし、
ノミのワキ毛一本ほども、政治活動とは無縁だった。
なぜか?
大きな理由があった。
ヒット大地、心の中では思っていた。
「確かに、学生運動で、ある程度、社会は変るだろう。
でも、革命なんて、絶対無理だぜ」
ヒット大地、「学生運動なんかしても、基本的に、世の中、変らない」と思っていた。
ただし、こうも考えていた。
「もしも学生たちが、本当に、労働者たちと手を結べば別だ」
そしてこうも考えた。
「学生と労働者の戦いが、日本の中産階級の共感を得れば、もっと変ってくる。
なぜなら、中産階級こそが、日本で一番人口が多い階層からだ」
ただし、中産階級の思いは、選挙で明らかになる。
とすれば、政権与党の自民党は、票を得るために、うまく中産階級に取り入って、
中産階級の不満を解消するだろう。
(つまり、中産階級が、革命に参加することは、ありえない!)
そして、ヒット大地は、最終的に、こう考えていた。
「もしも本当に革命を成功させたいならば、
中国・ソ連との提携が必要だ。
また自衛隊や警察の中にも、シンパを作らないとダメだ」
具体策も、ヒット大地、考えた。
夜中に、漁船で、海上に乗り出し、
中国やソ連から、大量の大型武器の援助を受けるんだ。
でも、ま、漁船程度じゃ、大した武器を運べないが、
少なくとも、こういうことを発想しない限り、
革命などは、夢のまた夢だ・・・こう考えていた。
ベトナム戦争も、そうだろ?
北ベトナムは、中国やソ連の援助があったからこそ、
アメリカと戦い続け、勝利できたわけだ。
ベトナムだけの力じゃ、天地がひっくり返っても無理だぜ。
ところが学生運動の実情はどうだったろうか?
なんとも滑稽なことに、
最も過激な集団のひとつ革命左派(京浜安保共闘とも呼ばれる)は、
交番襲撃で、警官から拳銃を奪うことを真面目に考えていた。
また栃木県の真岡銃砲店で、銃を奪うことを、
最大の武力闘争と位置づけていることだ。
悲しくなるほど、滑稽な話ではないか!
だろ?
警官からピストルを一個奪って、何になるというのか?
・・・しかも、これは失敗している。
銃砲店からの武器奪取は、まだ意味はあるが、
これだって、3人で行動したんだが、
得たものは、猟銃10丁、空気銃1丁、銃弾約2300発だった。
猟銃10丁を得て、何をするというのか?
かえって、こういうことをすれば、
警察の捜査や追及が厳しくなり、
自壊への道しか待っていないだろう。
ただし、爆弾の製造は行っていた。
これで大きな被害を与えたこともある。
三菱重工爆破事件などだ。
でも爆弾で、革命を起こせるとは思えないし、
爆弾の一番良くない点は、
一般市民にも、生命の被害を与える点だ。
これ、致命的な欠点だ。
サリン事件がオウム真理教団を崩壊に追いやったのは、
一般市民を犠牲にしたからだ。
そういうことに気づかなかった学生運動は、
本当に、バカだったし、哀れだ。
しかも、過半の学生たちは、エリート気取りで、
労働者を、同志ではなく、「自分たちに従うべき無知のオルグすべき者」と考えていた。
(オルグとは、「自分の組織に引き込むこと」)
・・・以上を、当時の流行の言葉で、「総括」すると・・・
また学生運動の過程で、死んでいった学生たち(または元学生たち)は、
なんとも残酷な言い方だが、犬死・・・と言わざるを得ない。
一番滑稽なのは、
ある種、毛沢東を気取っていた森恒夫(連合赤軍・,最高幹部)だ。
最後は、拘置所の独房で自殺したことは、
いかに彼が小心者だったかの証明だ。
彼(および永田洋子)がリンチ殺人を犯したのは、
革命とか正義よりも、むしろ個人的な恨みや好き嫌いや権力闘争に属するもので、
決して許されることではない。
また、自分の心の弱さや不安感を、他人に投射し、乗り越えようとする、
自分勝手な動機によるものだったとも言える。
(そんな森恒夫も、最後は、キリスト教に関心を示したという)
・・・などと偉そうなことを書いたが、
ヒット大地、学生運動に、憧れる部分も、少しはある。
それは、蟷螂の斧と言えど、
集団を作り、悪に歯向うことは、
正しい場合もあるからだ。
彼らが、命を懸けてやっていたということは、
いかに理想主義で愚かなこととは言えど、
憂国の純真な部分も、なくてはできない。
つまり体制側が、
国民を搾取しようとしていることも、
紛れもない事実なのだ。
なぜなら、「この世の富を皆で分ければ、
全員が幸福になれること」も、紛れもない事実だからだ。
ところが、小数の、金の有り余る奴がいて、
たとえば、秋元康のような男は、
ラスベガスのカジノで、一日、1億円以上!も、負けることもあるという。
実にバカげた話だ。
1億円あれば、ヒット大地、
毎日、5つの面白い真実のブログを書き、
その他、電話・メール相談や、講演活動・・・など、
朝から晩まで、24時間、
弱者救済に、まい進することだろう。
というわけで、
学生運動を全くしなかったヒット大地は、
基本的に、「群れることよりも、一人の活動が好きな人間」なのだろう。
そういうことも、反省もこめて、しみじみ思っている。
そして、もうひとつ・・・
少年のヒット大地はいつも思っていた。
「俺は、複雑な家庭に育って苦労した。
世の中が共産主義になっても、この人生問題は解決できないだろう。
つまり、共産主義バンザイと言う人は、ある意味で、
本当の人生を知らない幸福な人たちなのかもしれない。
あるいは、共産主義を利用して、権力を握りたい人たちも多いだろう」
・・・こう思っていた。
ヒット大地はいつも、「どんな人間でも救いたい」と思っていた。
(ま、当然、実際は、無理だということもわかっているが・・・)
世の中には、いろいろなタイプの人間がいるもんだね。