今日、2013年4月25日、歌手の田端義夫が、肺炎で亡くなった。
享年94。
この日は、運命学上、最高の日のひとつだった。
「バタヤン」と、皆に親しまれた彼。
バタヤンの人生は、
いろいろあったけれど、
大往生・・・と言っていいと思う。
命日を見ると、
その人の人生が、鮮やかに浮かびあがる。
これは、占い師ヒット大地の得意技だ。
バタヤン、ヒット大地の好きな歌手だったので、
彼の一生を振り返ってみよう。
準備はいいかい?
オ~ッス!
バタヤンは1919年1月1日、三重県松阪市生まれた。
3歳の時に父を亡くしたため、
大正14年(1925年)に一家で大阪に出た。
小学校は3年の半ばで中退。
極貧のため慢性的な栄養失調であったという。
その間、トラコーマにかかり徐々に右目の視力を失った。
仕事は、名古屋の薬屋やパン屋、鉄工所などで丁稚奉公した。
ところが、その間に見たディック・ミネのステージに感動し、
流行歌の世界に傾倒していった。
20歳頃、歌謡コンクールに出場し、優勝。
歌手への道が開かれた。
バタヤンは上京し、ポリドールの歌手となるのだった。
歌手になってからは、次々とヒット曲をとばした。
かくして、戦前のバタヤンは、
東海林太郎、上原敏と並ぶヒット歌手の地位を得ることとなった。
終戦後は、昭和21年(1946年)にテイチクに移籍。
「かえり船」を初めとするヒットに次々と恵まれた。
かくして、岡晴夫、近江俊郎らとともに戦後三羽烏と呼ばれた。
このころは、映画にも、しばしば出演している。
昭和30年頃からは、一時ヒットが出なかったが、
昭和37年(1962年)、「島育ち」で40万枚を超える大ヒット。
昭和38年にはNHK紅白歌合戦に初出場した。
その後も精力的に歌手活動を続け、
平成になってからも
「十九の春」など、新曲を出し続けた。
また別なビッグな話題も作った。
昭和54年(1979年)、ラスベガスのカジノのスロットマシーンで、
当時のレートで6000万円以上の大金をもうけたのだ。
平成7年には林伊佐緒に代わり、
日本歌手協会の5代目会長に就任した。
平成16年からは名誉会長の座にあった。
バタヤンは好色家でも知られ、
70歳を過ぎても、「まだまだ、夜は現役やで」と語った。
バタヤンは4度結婚(3度離婚)しており、次男は61歳の時の子だ。
バタヤンは、どんなに年を取っても、
常に、現役歌手を目指した。
90過ぎても、毎日1時間の発声練習は欠かさず行い、
酒・タバコも嗜まなかった。
バタヤンの人生、少年期を除けば、おおむね、幸運の中にあったが、
しかし1984年、ヘルペスに罹った際に神経ブロックの治療に失敗し、
一時下半身不随になった。
だが、これもリハビリで奇跡的に回復した。
(しかし晩年まで後遺症による痛みが残った)
バタヤンは、2013年4月25日の午前11時45分に亡くなった。
ヒット大地の運命学によれば、死んだ時刻までも理想的だった。
折りしも、
バタヤンのドキュメンタリー映画「オース!バタヤン」が、
今年2013年5月18日から公開される。
何から何まで、できすぎているぞ。
だろ?
病気や離婚は悲しい出来事だが、
バタヤン、神様に愛されていたんだろうな・・・って思う。
ヒット大地、さっきから、
「大利根月夜」を歌っている。
もちろん、ソラで歌える。
昔、ヒット大地、利根川を渡って、仕事場に通っていた。
それを思い出す。
バタヤン、今ごろは、「かえり船」で、霊界に帰っているんだろうか?
バタヤン、本当に、ありがとう!
オ~ッス!