ヒット大地、いつも思うことがある。
この穢れた世の中で、
才能を持って生まれることは、
むしろ不幸ではないか?
もしもイエスや釈迦が、
才能のある人間だったら、
神や悟りに行き着くことはなかっただろう。
欠点があったからこそ、
二人とも、自己を高めようとして、
「宇宙の真実」を知ろうとして、
命を賭けた訳だ。
キリスト教団や仏教教団の述べる
イエスや釈迦は、ニセモンだ。
二人とも、そんな立派な男たちであるはずがないではないか!
でも、「立派な男」にしとかないと、
信者が集まらないので、そう言ってるだけだ。
二人は、自分を未熟な男と考えたからこそ、
40日の断食や、王子の身を捨てて出家し、苦行をしたわけだ。
聖書には、父ヨゼフとイエスのふれあいは、書かれていない。
イエスは、遊説中、母マリアが、
会いにきても、会おうともせず、邪険に扱っている。
家族関係がうまく行っていなかった、何よりの証拠だ。
釈迦は、妻子も捨てている。
これも家族関係は、あまり良くなかったためだろう。
良かったら、出家するはずがないではないか。
ただし以上述べた、家族関係は、
あくまでも世間的な意味のそれだ。
一人の人間同士として向き合った場合、
そこには、真の家族関係が生まれるはずだし、
そういうことは、イエスも釈迦も、当然、深くわかっていただろう。
俺はときどき・・・いや、いつも思う。
なぜ、俺はかくもダメな男なんだろう?
塾の生徒たちからは、落第東大生と呼ばれるし、
世間もそう思っているだろう。
事業を起こしても、大抵は失敗だ。
大好きな女にはふられるし、
結婚しても、6年で離婚した。
でも、過去を振り返り、いつも思うことがある。
「もし、あのとき、人生に成功していれば、
俺は神には出会わなかっただろう」
「もし、人生うまく行っていれば、
宇宙の真実を知ることはなかっただろう」
綾小路きみまろ(本名:假屋 美尋(かりや よしひろ)、1950年12 月9日生 )は、
よく言う。
「俺は鹿児島を出てから、30年、何をやってもダメだった」
しかし、そういう30年の失敗続きの経験ののち、独自の芸を身につけた。
つまり、「それまでの生き方は、世間的な基準と自分が合わなかった」わけだ。
ある有名な宗教団体の幹部たちは、
年収は5000万前後だという。
そういう人たちに、弱者の気持ちが、本当にわかるんだろうか?
最高幹部となると、5億だ。
彼に、弱者の気持ちが、本当にわかるんだろうか?
最近、俺は思う。
「自分は愚かでいい。
これまで愚かだったからこそ、神に出会えたし、
フラクタル関係空間理論という最高の真理にも出会えた。
愚かだからこそ、弱者の気持ちがわかり、
弱者と一緒に、生きようという気持ちになった。
こんな幸福な男はいないかもしんねえぞ」
きっとイエスも釈迦も、
同じように思っていたに違いない。
ニセのイエスや釈迦を信じている人たち、
(ほぼ全員だが)
ご苦労さん!