大地一人の大好きな作詞家が、
2013年10月25日、肺炎で亡くなった。
97歳の岩谷時子だ。
「恋のバカンス」「君といつまでも」「恋の季節」「逢いたくて逢いたくて」など、
多くのヒット曲を作詞家した。
岩谷の本名は、トキ子であり、
俺の母と全く、同じだ。
俺の母は歌人であり、
同じ韻文ということで、
ちょっと仕事上でも似ている。
これ、2番目の類似点だ。
岩谷は1916年、京城(現ソウル市)で生まれた。
5歳の頃に兵庫県西宮市に移住。
ずっと西宮市で、高校まで過ごし、
その後、神戸女学院大学部に進学した。
神戸女学院大英文科卒業後に、
宝塚歌劇団出版部に就職し、
宝塚歌劇団の機関誌である『歌劇』の編集長を務めた。
このとき15歳の越路吹雪と出会った。
以来、越路に魅せられる岩谷であった。
越路吹雪は1951年、宝塚を退団し上京したが、
岩谷も、会社を辞めて、彼女に従った。
岩谷は、1951年から1963年までは東宝文芸部に所属。
会社員として働きながら、越路を支えたわけだ。
そして越路が死ぬまでの約30年間、
岩谷は、付き人、マネジャー兼作詞家として、
越路を支えたんだよな。
俺の母は、父と離婚していたので、
遠くで、いつも俺のことを思っていた。
そして俺が思春期のころ、
母はとくに俺を応援してくれていた。
そのとき、俺は岩谷時子の歌で、
慰められていた。
まるで母親のように・・・・
これが3つ目の偶然だ。
越路が亡くなってから、
岩谷は、本田美奈子に魅せられた。
そして本田美奈子が白血病で亡くなるまで、
彼女を支え続けた。
またしても偶然がある。
ある日岩谷は足を怪我し、
本田と同じ病院に入院したことだ。
二人の密接な交流が始まった。
白血病の本田は無菌室にいるので、
ボイスレコーダーを通しての交流だ。
本田は、ボイスレコーダーに歌を吹き込み、
岩谷に聞かせた。
とても上手な歌だった。
(とくに岩谷作詞の「つばさ」は名曲だよな)
岩谷は、いろいろな点で、すごい女性だった。
たとえば岩谷は「越路が好きだから支えていた」わけで、
越路が亡くなるまでマネジメント料としての報酬は、
1円も受け取らなかった。
しかし、作詞家になったのは、
越路の歌の訳詩がきっかけだから、
越路が岩谷に大きなプレゼントを与えたことになる。
人生って、そういう風になってるんだよな。
それから彼女の詩もすごい。
スケールが馬鹿でかいんだ!
たとえば、
『これが青春だ』を見てみよう!
「大きな空に ハシゴをかけて 真っ赤な太陽 両手でつかもう!」・・・すごいだろ?
「あらしの中を 君のためなら 七つの海を 泳いでゆこう!」・・・ハハハ!
『貴様と俺』という歌もすごい!
「空に燃えてる でっかい太陽 腕にかかえた 貴様と俺だ!」・・・ゲゲゲ!
「地球踏み抜く 足ふんばった 組んだスクラム 貴様と俺だ!」・・・ハハハ!
実は、越路吹雪は、俺の母と同じ年なんだ。
ここでも、不思議な縁を感じるよな。
岩谷+越路=俺の母・・・・ってわけだ。
これ4番目の偶然だ。
実は俺、本田美奈子も大好きだった。
本田は、埼玉の朝霞市出身だ。
昔、俺は、ある日のこと、朝霞市小学校の
音楽の教材を、道で拾ったことがある。
その歌の本には、いろいろな歌が載っていた。
俺は毎日、ギターで弾き語りをしたもんさ。
世の中って、本当に不思議だよな。
本田が俺に送ったプレゼントかもしれん。
岩谷と越路と本田と、俺の母と俺・・・5人は不思議な縁で結びついている。
だから人生は、面白い。
君の今の悩みも、深い意味があるんだよな。
くよくよなんか、すんなよな!
大きな空に ハシゴをかけて
真っ赤な太陽 両手でつかもう!・・・じゃないか!
ハハハハ!
今日の午後も、むろん
DOTISだ!
最後に・・・・
俺、岩谷時子と一度会いたかった・・・・
あんたのおかげで、
俺の青春時代には、
いい思い出が残っている!
甘酸っぱい思い出だ!
岩谷時子、本当に、ありがとう!
岩谷時子は、ある種、俺の母の生霊だったのかもしれん。