本日は2022年6月15日。早朝からクロツラヘラサギを大浦湾まで見に行こうと思っていたが、起きたら雨だった。延期した。クロツラヘラサギは琉球孤には稀な冬鳥としてやってくるが、6月の大浦湾の大浦川や汀間川に2羽出没しているとの情報。
これは撮りに行くしかない。いついけるかだ。ところで数ヶ月前に壊れた広角系のズームレンズ&ボディー(カメラ本体)が修理工場から戻ってきた。良かった。これで広角系の写真も撮れる。経費38022円。またがんばっていただきたい。やはりレンズはこれがなくてはダメだというシーンが多い。1本や2本でカバーしきれないのだ。だから荷物は重くなる。ということで、いよいよ当PCを確り直すのだ。こちらも目処が立ってきた。
理系ダメ、機械音痴の私だが、多少ともデジタルに通じていないと、如何ともしがたい。苦手意識を払拭してやるべしと、某女史から叱られた。「前を向け」と言われれば、そうだなと思うしかない。一本筋が通っているから、弁解して済む話ではない。勇気を持って進めと。正面からの励ましはありがたい。
要は痛い批判を受けたとき、どう向き合うかだろう。すねる、黙る、前を見る。この3つならば、後者となる。そのためには従来のスタンスを見直さないとならない。足下を掘り下げていく。
夕方、買い物に出た。「キョロ」の単語のみのアカショウビン。どうしたんだろう。「キョロロロロー」なんだが。それで思い出したのだが、マミジロは「キョロン・ツイー」。アカハラは「キョロン・キョロン・ツイー」。クロツグミは「キョロン」をモチーフとしているが、ぐっと高度の歌い手だ。
こうした「日本」の6月の森に私はひさしく行っていない。野鳥たちはナショナリズムとは無縁だ。渡るから空間域に囚われていない。国家という集団にとらわれていない。逞しいのだ。
昔、私は中西悟堂(日本野鳥の会創設者)の「定本野鳥記」を全部読んだ。彼も俳句をやるのだが、中学時代の私が興味をもったのは、水原秋桜子だ。平敷武蕉著「修羅と豊穣」(コールサック社)によれば、秋桜子らは戦時中弾圧されたようだ。四季を詠む俳句を超える試みをてがけたそうだ。自然を詠めば、くだらないナショナリズムを超える契機は無数にあるからな(その逆の「通念」に気をつけたい)。
当時の私は、秋桜子の大ファンだったのだが、思わぬところで、「へーえ」だった。文学的な視点からナショナリズムを超える試みは案外重要で面白そうだ。
カメラと自然観察と脱ナショナリズム。大胆なれだ!