沖縄県のコロナ会議議事録なしと、本日(20200617)の沖縄タイムスが伝えている。同紙に依れば、「県保健医療部は本紙取材に『対策本部会議は決定の場であり、各部の意見を煮詰める調整の場。未決定事項を公表すれば、県民に誤解を生じかねず、従来から県として内部の意思決定過程は情報公開に含めていない。決定事項はしっかり公表している」と述べたそうだ。よくもはっきり言ったものだ。
新型コロナ対策は、未曾有なものであり、不詳な事態の中から対策をうつしかなかった。当然、広範な行政部署が関与することになる。行政外の「専門家」のご意見も伺わなければならない。だからこそ、既定の法などに依拠しているだけでは、まったく進まなかっただろう。各界から積極的な提言が求められもした。だからこそ公文書管理と情報公開は必要不可欠な仕組みなのだ。精緻な会議録は、次の手を構想するに当たって不可欠な文書になるはずだ。
同紙に依れば「県幹部は『議論がベールに包まれていることはない。水面下で意味の分からないことをやっていると疑われる要素は本部会議に関してはない』と強調した」とある。そう胸を張るのであれば、なおさらのこと会議議事録をつくらなければならない。行政も人間がやっているのだ。間違いもすれば、不完全でもある。やりたくても予算措置がなくてできなかったこともあるに違いない。行政は成果を誇示するに留まらず、限界も解析し、示さなければならないのだ。
沖縄が日本国に復帰して48年が経過する。その日本国憲法のどこに「国民主権
が規定されているのか、ご存じか? 前文に明記されているものの、本文にはこのくだりしかないのだ。第1条[天皇の地位、国民主権]「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」とあるのだ。大日本帝国憲法下で「総覧者」(行政・立法・司法・軍事を司る)だった天皇の地位を「主権の存する日本国民の総意に基づく」と称することによって、天皇・皇室は「特権者」足ることを継承していったのだ。
一方で、日本国憲法の中で、基本的人権が掲げられ、地方自治も謳われた。しかし主権者意識が低いままに来てしまったことが、今日の状況を生み出している。沖縄が問題にせざるを得ない基地の実態も「安全保障は国の専権事項」に阻まれて、立ち往生している。
日本国憲法が生み出した地方自治の制度は様々な意味で弱い。この国のあり方は、まだまだ中央集権なのだ。しかし住民に近い立場で運営されている県政や市町村政は、住民に依拠することによって、より明確な発言権を打ち出せるはずだ。だから住民自治をより確かにしていくことが、沖縄の立場を強めていくはずだ。公文書管理と情報公開は住民自治の基本的なツールなのだ。
コロナ会議の問題と基地問題は、別次元の問題ではない。沖縄も、ここに気づかなければならない。瀬長源龍谷大准教授も指摘している。「記録残すルール整備を」の中で「最近では高知県や滋賀県、長野県などが公文書管理条例を制定した。特に沖縄県は米軍基地を抱え、重要なことを決定することが多い自治体だ。詳細に記録を残すルールを整備する必要があるだろう。/(中略)県民に説明責任を果たす仕組みとは何か。今回のことを、知事や県議、県民ら多くの人が議論する機会にするべきだ」と述べているのだ(沖縄タイムス20200617)。
まったくその通りだと、私は考える。因みに、私は彼の共著本(久保亨との共著)「国家と秘密/隠される公文書」(集英社新書)を読んでいた。私が彼らに注目したのは、法律家ではない、近現代政治史の彼らがこの問題に取り組んできたことだ。阿漕な歴史を再び繰り返してはならないのだ。