昨夜の私の夕食のメニューはハンバーグ。練る時間がかかり、余裕のあるときにやりたい。そう思ってると、挽肉が傷んで使えなくなる。贅沢をいっていられないのだ。コロナ禍の生活。
今使っている鍋は鉄の中華鍋。去年の夏、あちこち探して買い求めた。いささか重いが、熱がこもるから餃子やハンバーグに最適だ。
しかしコロナ禍のオリンピック騒動で、気が気でなく、料理どころじゃなかった。さらに、ここ2日、体調も悪く、頭が回らなかった。部屋の中に閉じこもっていたら、体も心も鈍る。適度に動かないと駄目だ。人のいないところに行きたいものだ。難しい。昔、山に行って、1日、誰にも会わないことが時々あった。誰もいない山頂を独り占めしていたこともあった。遠い昔の幸せ。それだけ自分に自信があったのだ。
中華鍋の思い出といえば、中華屋さんで働いていたとき。1970年夏。大鍋を振るうコックさん。Tさんといった。チャーハン4.5人分とか重たいの。あれは腕力じゃない。要領だと教えてもらった。こつなのだが、微妙な力のいれ加減。こうした微妙な違いを悟れなければ、人間駄目なんです。
お客様への対応もそう。鍋を転がすのも、お客様への対応も微妙。鍋ならば、焦がすぐらいだが、人間様は大事になりかねないからこそ怖い。
感触をつかむというが、これ。煮込んで柔らかくなっているか、箸で触ってわかる。感触。舌や指でなく、箸で。これだとやけどしない。
私たちは微妙な感触を育まなければ、駄目だ。これ非暴力に通じている。怒鳴るのも殴るのも簡単。しかし心を閉ざしてしまう。心の微妙な感触を育むためには、師がいる。私にはいなかった。むろん、私もなれない。自分は師になれないが、だからこそ努力を重ねていこう。今頃気がついても遅いかもしれないが。