◎3月20日、以下の企画を開催しましたが、主催者の諸々の準備不足でスライド&トークのスタイルをとれませんでした。心からお詫び申し上げます。
以下のレジュメはこのスタイルを前提につくったものですが、そんなわけでちぐはぐに。内容は変わりませんので参考までにあげさせていただきます。【以下の文の無断転載(一部引用を含む)は特にお断りします】
ただ、上陸演習と南部の鉱山開発を合わせて考えたのは、間違っていないと考えています。
「ヤマヒデのスライド&トーク(沖縄―第1回)」レジュメ
「沖縄は戦場だったし、今でも戦場に繋がっている」
日時:2021年3月20日(土)13時30分~15時30分
会場:名護市中央公民館集会室
主催:フォトプラザ・ヤマモト
スライド&トーク:山本英夫(フォトグラファー)
資料代:500円
連絡先:eメール:pzyamahide@lemon.plala.or.jp
ブログ:「ヤマヒデの沖縄便りⅣ」
【Ⅰ:ヤマヒデのプロフィール+(プラス)】
1951年東京生まれ。1964年の東京オリンピックを前に自宅周辺の自然が一挙に壊されていくことに驚愕。それ以降自然との繋がりを大切にしてきた。沖縄を最初に訪れたのは1989年5月。「沖縄に行けば、安保が見える」との誘いに乗った。ちょうど天皇代替わりと重なり、戦争の加害と被害を重ね合わせて問うことが重要だと自覚し始めていた時だった。以来沖縄に通い続けてきた。
ところで私の反戦運動の出会いは月並みだった。1970年大学入学、ベトナム反戦運動の高揚の中で、1970年反安保、1972年沖縄返還協定粉砕闘争に係わった。まぁ「時代」の流れに乗っただけだった。しかし、1972年9月~11月の相模原補給廠(神奈川県)を巡る戦車・装甲車搬出入阻止闘争は、地域住民闘争の性格を帯び、何よりも殺戮兵器をベトナムにもちこませないリアルな闘いが私の眼前で闘われていた。この70年代最後の大衆的反戦闘争の闘いに、学生や市民グループとしてではなく私個人として取り組んだのだ(私の周囲にいた学生はもうバラバラになっていた)。この経験がその後の私をつくり出していった。
ベトナム戦争終結(1975年4月30日)後、戦争vs反戦を巡る闘いは大きく後退し、米ソ冷戦構造の中に溶解していった。しかしこの国は、「平和憲法」下で「専守防衛」を唱えながら、米日・核安保体制を支えてきたことを否めない。こうした「均衡」を右から破ろうとしたのが中曽根康弘首相(当時)による1983年の「戦後政治の総決算」であり、臨調・行革だったと言えよう。この中で、中曽根が唱えたのが「日本列島=不沈空母論」だった。
私が軍事を意識的に問題にし始めたのは1992年のPKO(国連平和維持作戦)派兵反対の闘いからだ。「最小限自衛力」「専守防衛」を建前に、戦後日本国家は再軍備・軍事化を進めてきたが、このPKOによって、海外派兵の禁(1954国会決議)を破る第一歩を踏み出していく。こうした動向と闘うための月刊紙「派兵チェック」の創刊は1993年だったが、私はこの編集委員会に参加し、自衛隊と沖縄を追いかけながら、軍事関連法批判の執筆に全力を傾注していった。こうした歩みの中で、私は自衛隊=軍隊だと改めて認識させられたのだ。特に1998年、99年の陸上自衛隊の北方機動演習を追いかけ、北海道浜大樹での上陸演習(侵攻作戦)を直接見たことが大きかった。実態を少しでも現場で知ることの意味を感じたものだ。こうして軍事の実態を知らずに反戦を語れないと考えた。
「戦後日本国家」は1995年から海外派兵の本格化をもくろみ始め、輸送艦「おおすみ」の起工(1995年)・竣工(98年)が海外派兵を可能とする一番艦となると捉えた私は「おおすみ」の動きを各地に追いかけた。
当時の世界情勢は、1991年のソ連崩壊から、改めて米国主導が明らかになる中で、各地で民族紛争が多発し、世界は激変していった。「冷戦の崩壊」が、逆に地域紛争の多発・激化に至る中で、米日安保体制は新たな局面を迎える。1996年4月、米日両国は「安保再定義」を結び、これが1997年の米日軍事ガイドライン、1999年の周辺事態法となり、海外派兵の道に突き進んでいく。
この「安保再定義」が沖縄を戦争に引っ張り、逆回転に向かわせることになるのだが、当時の私はこの重大な転換を充分に察知していなかった。それどころか日本の反戦の運動圏は、日本と沖縄、沖縄と日本の構造的な差別支配の関係すら認識できないままだった。「沖縄への支援」でしかなかったのだ。この問題を私たちは今日でも克服しきれていないと、私は考えている。
話しを先に進める。この国は民主党政権時代の2010年末に、防衛計画大綱を改訂し、従来の米ソの軍事バランスの上に立った「基盤的防衛力構想」を破棄し、「動的防衛力」構想を掲げた。なかでも「南西諸島防衛」を中心に据え、対中防衛(攻撃)を掲げたことは、ドラステックな大転換だった。こうして私は、2011年から与那国島・石垣島・宮古島に通いだした。
私が「南西諸島防衛論」に注目したのは、対中戦争を意識し始めた米国が、沖縄の海兵隊基地のグアム移転を推し図る中で、「普天間代替施設の建設」と称し新基地建設に固執することは理に適わず、最大の疑問と考えたからだ。熟慮の末の結論は、「島嶼防衛」の前進拠点として新基地建設を考えているということだった。だから私は、この時点から新基地は米日共同使用になると考えてきた。そう繰り返し発言し続けてきたのだった。
しかし東京での私のこの主張は、殆ど無視された。確かに米中両国が米中戦争に慎重になるのは、当然だ。米中両国の経済基盤を根底から破壊し合うことになるからだ。どんな覇権主義者でも、そんな無謀なことを避けたいと思うはずだ。一方で米ソ冷戦の時代を振り返れば、戦争準備を怠らず、覇権を競い合うのも必然だろう。だから米国は、日本国家に対中軍備の前面に立たせる構想=「島嶼防衛」論は、甚だ都合が良いのだ。
「島嶼防衛論」とは琉球諸島を戦場にすることを前提とした軍事戦略だ。沖縄にとっては冗談ではない。私たちは明確に拒否すべきだ。「沖縄戦を繰返さない」と考えるならば、当然の判断だ。私は米国にも中国にもご遠慮戴きたい。私たちは、日本政府に、「米国の奴隷頭の政府」はいらないと申し立てよう。沖縄の自立を支え、民衆の命の営みを育む新たな政府を作りだそう。これが、2013年10月名護市に居を移し7年余りが経ち、私が考えていることだ。
フォトグラファー(報道写真・自然写真)。辺野古テント村ボランティア・スタッフ。ナチュラリスト、バード・ウォツチャー。
【Ⅱ:本日の経緯と趣旨】
①スライド&トークという形式について
画像をお見せしながら、次々と解説を付けていく。画像と語りが上手く嵌まれば、臨場感溢れる場になるだろう。講演会はもっと論理的な展開が必要だが、こちらの方がライブ感覚もあり、おもしろいはずだ。但し、この方式を私が採用するのは8年ぶりのこと、上手くいくかは保証の限りではない。
②経過
◎2021年1月中旬(2021年1月13日日米合同委員会合意について) 米日共同上陸演習(海兵隊と陸自水陸機動団)がブルービーチなどで行われることを知る。1月28日~2月10日の計画だ。これを集中的に取材してやろうと決めた。こう考えた根拠は、この上陸演習が「島嶼防衛」演習の一環であることから、その一端に触れたいと考えた。また背景として、1月25日の沖縄タイムスが「辺野古陸自も常駐」と暴露したことも重なった。
◎1月25日、ホワイトビーチ下見、27日ブルービーチ下見、28日~2月9日の演習にほぼ連日通った(詳細は後述)。さらに2月10日、津堅島沖でパラシュート降下訓練が行われた。私はこれも取材し、一連の締めとした。だが米日共同演習の実態を見ることはできなかった。陸自水陸機動団は、輸送艦おおすみのエンジン系統の故障により、佐世保港で頓挫していた(佐世保付近から水陸機動団は乗り込むはずだ)。
◎この過程の2月4日、ブルービーチで武装兵10名が我々取材班の前に現れ、「撮影を止めろ!」と言ってきた。また、2月9日の撤収日最後のLCACは金武湾のど真ん中でスピン航行を行って引き上げた。これを私一人で見届けたのだ。こうした米軍の振る舞いは、露骨な「占領者意識」がなければ、できないだろうと私は考えた。まとめて振り返れば、怒りがふつふつと湧いてきた。
◎2月8日、平和をつくり出す宗教者ネットの人々が、県庁前で開いた「戦没者の遺骨が含まれる土砂を辺野古新基地建設に使わせてはなりません」の抗議行動を取材。1945年の沖縄戦で、一片の遺骨すら拾われず、あるいは誰が亡くなったのかさえ不明のまま76年が経とうとしている今日、私たちはこんなことを容認して良いのか。「人道上許されない」との宗教者の声が私の身体にも響いてきた。
◎3月Ⅰ日から、ガマフヤーの具志堅隆松さんらが、県庁前でハンストに入るとの話しを聞き、2月中に現地を歩き、自分なりに現場を確認すると決めた。2月18日、19日南部の地を歩いた。
◎2月18日、ひめゆり平和祈念資料館から糸満市米須を歩きながら私は、私なりの方法(スライド&トーク)で訴えてみようと考えた。2月中に会場を押さえ、準備に入った。
◎3月Ⅰ日~3月6日。ハンストが始まり、この問題がより広く知られていった。
③趣旨
私は以上の経緯を経て今回のスライド&トークを準備した。多分に場当たり的で、不十分なものだ。しかし現在の演習と過去の沖縄戦は、「島嶼防衛」・「新基地建設」の中に時間(歴史)と場所(空間)を超えて凝縮されていると私は考えている。本日のスライド&トークをひとつの結節点にしながら、新たな道へ歩き出せることを願っている。ご批判と共感をいただき、活発な論議をおこしていきたい。
【Ⅲ:主たる撮影地の概要と位置等について】
①金武ブルービーチ訓練場
ブルービーチは金武湾の北西の入り口、金武岬の西側に広がるビーチ等を訓練場としている。東西に弧を描きながら1400m。岬の北東側の海域も提供水域。面積381000㎡。ヘリパッドが1カ所ある。キャンプハンセン訓練場まで北に約2000m。軍用道路で結ばれている。
②ホワイトビーチ地区
勝連半島先端の南側。中城湾に面した軍港(米軍と海上自衛隊等の一部共同使用)と周囲に訓練水域が広がる。1568000㎡。2つの岸壁がある。なおここから辺野古沖まで30kmもない距離にあり、その途中の内側にブルービーチ訓練場があるなど、揚陸艦を運用する訓練拠点としてお便利このうえない。なお、パラシュート降下訓練が行われる「津堅島沖」とはこの「ホワイトビーチ訓練水域」だ。
③南部地区
沖縄島南部は那覇市・西原町の南側の区域。1945年当時、沖縄の大日本帝国軍隊(第32軍)司令部が首里城地下にあったが、45年5月27日、同軍は南部に撤退していく。この時、軍民一体を掲げており、住民を巻き込みながら糸満市・八重瀬町方向に撤退。6月23日(22日説も)牛島司令官、長勇参謀長らが、「最後まで敢闘し悠久の大義に生きるべし!」との檄を残して自決。指揮系統が崩壊したが、投降を許されないまま現場に残された多くの人々が米日両軍から殺された。家族全滅や、大混乱の中での生き死にとなり、どこで亡くなったかさえ不明のままの人も多いのだ。
【Ⅳ:撮影日・撮影地・主な出来事・上映枚数】
第一部 米日共同(?)演習
①2021年1月25日(月)/ホワイトビーチ/下見/1枚
②2021年1月27日(水)/ブルービーチ/下見/1枚
③2021年1月28日(木)/ブルービーチ/LCAC(エルキャック)により、ハイマース(高機動ロケット砲システムー13.7t)やLAV-25(軽装輪装甲車12.8t)などを陸揚げ。ゴムボートでの訓練、自衛隊現れず/6枚
④2021年2月Ⅰ日(月)/ブルービーチ/陸自のCH-47Jが隊員を運んできたが、搭乗員は米兵(?)/8枚
⑤2021年2月3日(水)/ブルービーチ/キャンピング(ひとり用テント)、オスプレイ飛来、離発着/
2枚
⑥2021年2月4日(木)/ブルービーチ/揚陸艇による荷揚げ、武装兵による恫喝/10枚
⑦2021年2月7日(日)/ホワイトビーチ/ハイマース(ロケット砲)が揚げられた/1枚
⑧2021年2月9日(火)/ブルービーチ/軍用道路を確認、LCACで撤収作業、最後にスピン航行/9枚
⑨2021年2月10日(水)/ホワイトビーチ・津堅島沖/パラシュート降下訓練だったが、正体不明の船(事後に「キャロリン・シュウスト」と分かる)やAH-1の緊急着陸を確認/4枚
第二部 遺骨混じりの土砂採掘問題
①2021年2月8日(月)/沖縄県庁前/平和をつくりだす宗教者平和ネットによる集会/2枚
②2021年2月18日(木)/ひめゆり平和祈念資料館、米須・魂魄の塔、熊野鉱山等/19枚
③2021年2月19日(金)/糸満市・八重瀬町周辺の幾多の鉱山、自衛隊の基地群/14枚
第三部 まとめにかえて
①2021年3月1日~3月6日
Ⅴ:まとめー歩き続けて、歩き続けるー
◎私が沖縄にこだわり始めて32年目を迎える。沖縄の人々から一貫して問われてきたことは、「やまとんちゅは、沖縄に対して何をやってきたのか!? お前は何をしているのか?!」ということだ。
今回のテーマは、正にこのことを改めて問われる課題であり、私自身このことを強く意識しながら撮影を続けてきた。歴史を自己満足や懺悔するために振り返ってはならない。私は新たな生き方を見いだすために、我が身とこの国を糾していきたい。
[第一部]
①今回の演習は、ブルービーチで見ている限り、海軍と海兵隊との連携を図る上陸演習のみで、その後の戦闘訓練は行われていない。あるいは、戦闘訓練をキャンプハンセンで別途やっていたかもしれない。
②上陸手段は、LCAC(エアクッション式上陸艇)、GB、揚陸艇であり、空からはCH-53、オスプレイ、CH-47(陸自)。上陸させた武器群は、小銃、機関銃、ハンビー、LAV-25、ハイマースなど。通信設備や電子戦部隊は現れていない。
③自衛隊はどうしたのか?―輸送艦おおすみの推進機構の故障により、佐世保港でストップだと報じられた。エンジン、スクリュー、結合部のどこかの故障だろうが、隠されている。この結果、殆どの隊員は沖縄に来れなかったようだ。私が見ている限り、未確認。むろん共同演習だと言っていた以上、代表者が挨拶(詫び)に来ただろうが、実働演習はできなかったのではないか。
代替輸送能力の欠如が露呈した。武器弾薬の輸送は自衛隊が行う事が原則だが、現に民間船や民間航空機で運ぶ事も行われている。今回、代替輸送能力でサポートできなかったのは如何なる事情なのだろうか。他の輸送艦(「おおすみ」と同型艦の「くにさき」・「しもきた」)やC-2等の輸送機を手配できなかったようだ。調査が必要だ。要点は個別物資の輸送能力ではなく、輸送艦とLCAC、水陸両用装甲車などの一体的な展開が不可能となったことが決定的だっただろう。こうしたことは軍事機密の塊だと言える。
④2月10日の正体不明船(キャロリン・シュウスト)がパラシュート降下訓練の脇に待機していた。空軍救難ヘリHH-60の訓練や降下隊員の引き上げのためのゴムボート等が同船の近くに寄るなど、一連の訓練と関係がありそうだ。機上のMC-130、引き上げのゴムボート等、降下隊員との無線連絡、指図などを行っていた可能性がある。同船は甲板等の構造を大幅に模様替えしており、特にレーダー群多数を新設している。その用途を怪しむべし。
⑤武装兵が「撮影を止めろ」と行ってきた(2021年2月4日)ことに関してー結果的に彼らが引き上げたから良かったが、部隊が目の前に出てきて、「止めろ!」というのは、尋常ではない。彼らに日本法の如何なる法的根拠もないが、今後こうした恫喝が拡大してくる可能性がある。今回のこの場での対応は、こちらが複数名いたから(多くが報道)良かったが、一人の時など要注意。なお、私は与那国島の与那国沿岸監視隊前で自衛官から撮影を止めろと言われたことがある。これは米軍・自衛隊の枠で捉えることはできない問題だ。
今後あちらが法的にも我々を違法行為扱いしてくる可能性があり、私は、市民・住民として生きる権利―知る権利を軸に立論していきたい。このまま「島嶼防衛」の混乱に巻き込まれていけば、我々が再びスパイ扱いされかねない重大な問題に至るだろう。
[第2部]
①2月8日の平和を求める沖縄宗教者の会の取り組みから
この時の要求は二点。「1,南部戦跡を中心に未だに手つかずの遺骨の収集を「戦没者遺骨収集の推進に関する法律」に基づいて速やかに作業に着手され、現在進行形の土砂採取は中止されたい。2,沖縄南部、魂魄の塔から平和の礎に至る糸満、八重瀬は沖縄戦犠牲者の霊を鎮魂慰霊し再び沖縄を戦場にしない平和運動の聖地ともいうべき場所です。土砂採取による乱開発、環境破壊を中止してください」(平和を求める沖縄宗教者の会)。
以下私が考えたこと。確かに沖縄島南部などで開発が進めば、遺骨は埋められ破壊されてしまうが、これまでの私は6月23日を中心に南部に行ってきたが、こうしたことに気づいていなかった。自分は家族・遺族でもなく無関係にやっていた。こうした土砂が新基地建設の埋立てに使われるとしたら、遺骨を含む土砂が新たな戦死者を呼び込むようなものだ。これを放置したら、鉱山開発という行為がここの平和に生きる歴史・思想を踏み潰していくことになる。鉱山開発、戦死者・遺族・歴史への冒涜、基地建設という流れ総体に抗することが重要だ。
②2月18日19日現地へ
私は熊野鉱山を初め、現地事情をよく把握していなかった。だからまずひめゆり平和祈念資料館を見学し、頭を冷やし、濃縮してから行こう。これは正解だった。余りにも知らず、いい加減な知識だったと考え1から情報を仕入れ直すことにした。同館の展示の優れたところは、時間と場所に沿って状況が書かれている。だから誰がどうしてこうなったかを淡々とだが明確に指摘している。
米須から魂魄の塔、「平和創造の森公園」(1993年の全国植樹祭会場を契機に整備された)、荒﨑側の鉱山、熊野鉱山と回った。既にダンプカーが走り回っていることに驚く。戦争で荒らされ、再び開発で荒らされていることを垣間見た。19日もまた同様だった。平和祈念公園の北側の殆どが鉱山に変貌しているのだ。
③昔の戦跡に現代の基地群が異様(2月19日)
19日、鉱山地域を北に抜けると自衛隊の基地が3つある。陸自・南与座に第4高射中隊、北側の八重瀬岳に第15高射中隊があり、その中間西の与座岳に空自の第56警戒群(J/FPS-5)がある。平時の装いは静かであり、防衛的な基地群だが、今後、島嶼防衛の軍事ラインが結ばれていけば、単純に防衛基地群だと見做せなくなる。
昔の戦場に重なって、今でも軍事的な攻防線が敷かれているのだ。既に自衛隊が占領している場所の遺骨は確認され、収集されたのだろうか?
④ガマフヤーの具志堅隆松さん等のハンストを巡って
長年遺骨を掘り出し、遺族に返す活動をしてきたガマフヤーの具志堅さん等は3月1日~6日まで沖縄県庁前でハンストを実行。要求は、1,戦没者の遺骨を含む土砂を辺野古新基地建設に使わせない、2,戦跡国定公園の自然環境・歴史的景観を守り、遺骨を遺族に返したい。
3月6日に玉城デニー知事がハンスト現場に挨拶に来たが、個人的なパフォーマンスに過ぎなかった。まだ県政として確たる対処を決め切れていなかった。
⑤今後に向けて
3月18日、熊野鉱山の自然公園法に基づく申請が沖縄県に受理された。あと30日以内に沖縄県が開発行為を禁止できるか否かが問われている(自然公園法第33条2項)。この機を失うと、県の権限は無効になってしまうのだ。
ことは、幾多の鉱山開発行為が自然公園法や農地法、森林法などの法令を無視して行われてきたことが明瞭になってきた以上、私たちは、視野を広げて取り組まなければならない。沖縄戦後の歴史における復興が米国の占領下で基地建設を軸に進んだ歪み、日本復帰後も遺骨収集などが無視されてきたこの国のあり方を私たちは問わなければなるまい。また、基地建設と鉱山開発の歴史は今に始まることではないと私は推定している。ここに、長年の利権が埋もれているのだろう。国内唯一の「戦跡国定公園」としてあるべき姿を取り戻すことが、今問われているだろう。
⑥結びに
防衛省は、大浦湾側の変更申請に当たって、埋立て土砂をどこからもってくるとは明言していない。採掘可能な場所と量を示しているだけだ。業者に利権を誘惑しながら、反対運動を牽制しているのだ。いずれにしても南部地区の調達可能量は3159万6千立方メートルで全体可能量の70%を占めており、これがゼロになることはあり得ない。
如何なる開発も何れからの資源を奪い取ることなしに、なしえないのだ。大浦湾の埋め立てが遺骨混じりの南部の土砂を使うということは、戦跡国定公園の海岸林を破壊することであり、あの76年前の血で染まった海が青い海に戻った環境を赤土汚染の増幅で汚染してはならない。ここに北部も南部もない。
私たちが唱えたい「命どぅ宝」は、現代世界に於いて、地域の、地球の自然環境と共存していくことなくして、ありえないのではないか。
Ⅵ:資料
(以下紙資料を別途添付)
①沖縄戦、本島南部の概念図
②ガマ(鍾乳洞)の成り立ち・特徴・石灰岩の分布図(沖縄県内)
③ひめゆり学徒隊の戦跡図(ひめゆり資料館の庭に設置されている看板を撮影)
④南部一帯の道路地図(現況―およその位置関係が分かる)
⑤米軍基地マップ(部分)―これをみると基地・演習場・訓練水域の相互の関係がわかる。sura