先日の「那覇新港から那覇軍港へ」(23年6月24日)をご覧頂きましたか。私のブログには、場所と時間を書いています。私は通常カメラ2台態勢で撮っています。だからカメラによって、時間がずれていることがあります。随時、点検しています。ところがこの日、大ボケこいていました。美事に1時間ずれていた。ふつうこんなことはありえません。無意識のうちに、日時設定を触っていたようです。設定の奥の奥だから、普通はありえない。いや、よく考えたら、設定したときにボケていた。24日朝、設定したときだ。設定は「何時」、「何分」でやりますが、通常「何時」までずれていることはありません。だから「何分」を合せるのに、うっかり、「何時」に触れたようだ。
しょうもない。1時間のずれだったので、修正は容易でした。人間はミスる者。100パーセント完璧などありえない。予想される失敗だと、その分注意しています。予想しがたいことだと、ポカル。一度失敗を経験してしまうと、注意する。人生失敗の繰返し。何を大事なことだと考えて生きるのかです。
しかし組織や、国家となると、この失敗の幅も影響も個人の失敗と責任の何十倍、何万倍も大きくなる。だから隠蔽の仕組みががっちりとくまれている。個人にある「良心」や「哲学」を踏みにじる構造を造って、平然としているのです。戦争責任は、その最たる事象。
カメラの時刻がずれても、あれれと思うだけ。それでも何故こうなったかを考えておくことは、同じ失敗を繰り返さない正攻法です。大きな組織では、気がつかないうちに大きなミスが集積し、とんでもないことになっている。マイナーカードもそのひとつ。どこからが仕組上のミスなのか、どこからが人為的なミスなのかを見極められないとしたら、その時点で終わっています。「利便性」をぶち上げ、広げてきたが、本音(個々人への支配の装置)は全く別だったから、ガチンコの矛盾となっている。
社会構造が複雑化するほど、組織の隠蔽体質は高度化します。これを個人が見極めることは、大変です。情報公開請求は基本的な仕組みですが、私たちは基本に立ち返って、考えることが重要です。
失敗を恐れていては何もできませんが、失敗を軽視しては、何も生み出せません。自戒したいものです。