昨日、ある市にでかけ、ある学習会を聴講した。自分がこれまで取り組めていない課題だったから、意義深い出張となった(その問題は別途)。少々雨に濡れたが。
そこで私はやや小難しい話をしてしまった。ある参加者から「難しい話はいらない」と言われた。ただその問題に、私はこの視点(罪刑法定主義)を欠かせないと考えている。
確かに刑法学などを学んでいない人には、縁のない言葉だ。昔(日本国ではたった76年前のこと)、王(天皇)が支配していた時代、王様のそのときの気分で、人を処罰できた。これに対して、何をすれば犯罪にあたるのか、そえぞれの行為に対して、刑罰を決めておく。「罪・刑・法定主義」とは読んで字のごとくだ。近年、日本では、この罪刑法定主義が怪しくなっている。
話のトバ口は、ここからだった。彼女も必死で物事を判断しようとしている。私はひらめいた。そうだ、住民・市民が疑問に思うこと、判断に迷っていることに、私は耳を傾けなければならない。生活の視点から問題を考える。もう一歩踏み込むと、住民・市民のいのちの営みから考える。イデオロギーを超え、生活の場から考えれば、共通項も大きく見いだせるはずだ。あらゆる問題をここに照らし出して、考えよう。ちゃちな諍い、怪訝な視野を向けている場合じゃないはずだ。
普段私たちの周囲で行われている軍事演習。これは、ただうるさいとか、危険だとかだけではない。中国との戦争となれば、私たちが加害者になり、もろに被害者になる。そうなりうる演習なのだ。私たちの生活の基盤が破壊される。第一は、那覇空港だろう。那覇空港は、軍民共用空港だ。交戦が行われたら、空港は破壊され、人間も物資もとまる。勝つとか負けるとかの問題ではないのだ。必ず止めなければならない。
この国は、平和外交にカジを切ろうとしない。私たちが成すべきことは、自治体外交であり、民際外交だろう。直接の交流を始めよう。
そして私たちがとり組むべき事は、過去の戦争をみつめることなしにきた歴史観の捉え返しだろう。私たちが侵略をしたが、未だに嫌韓・謙中のヘイトを繰り返している人たちは、恥ずかしい。那覇市内では反ヘイト凱旋が繰り返されている。私たちが歴史を反省することなしに、現在の中国政府の覇権主義にもの申すことは難しい。「大きくなることはいいことだ」を反省することは、気候危機を防ぐ意味でも重要であろう。
話を戻すが、住民・市民の視点は、必ずしもお互いに見えていない。だからこそ、お互いに学び合いながら、深めていこう。力と力の争いは、核戦争に及びかねない。どちらが先制攻撃をしかけるかしらないが、中国は広い。こちらは人口密度が高い。那覇(空港・港)をやられたら、おしまいだ。問題は軍事拠点じゃない。私たちの生活の場だ。だからこそ、核兵器禁止条約を米日政府に、中国政府に求めよう。
特に沖縄の経済界は、2001年9・11を覚えているだろう。現在のコロナ禍もそうだが、武力行使の危機が迫れば、経済は止まる。そんな態勢を容認してていいのか。
戦争をとめること、戦争に抗することは、すべての出発点だろう。人間はどう生きるべきかは、すべての基本だろう。話し合うことはすべての基礎だろう。何故、あの人はこう言っているのかを考えよう。そうすれば接点がわいてくるはずだ。「俺が一番」を戒めることなしに、破滅を打破できまい。
来る衆議員選挙も、名護市長選も、住民・市民の視線から考えたい。