おはようございます。2022年12月23日(金)名護市西海岸は曇。
一昨日からラストスパートで「ウクライナの子どもたちからのメッセージを聴く会」の準備をし、昨日無事に終了しました。残念ながら参加者は意外にも少なく気持ちは盛り下がりましたが、ラストは盛り上がりました。
開会の挨拶を相馬由里さんが経緯を含めて行いました。報告を小玉直也さんが行いました。質疑応答を経て、閉会の挨拶を具志堅徹(元名護市選出の県議)さんが行いました。
①小玉直也さん。彼はサッカーワールドカップの応援・交流でカタールに開催から閉幕まで滞在していた。
私は初めてお会いする小玉直也さんでしたが、話は1997年の名護市市民投票(新基地建設の是非を問う)からの沖縄への関わり、2003年のイラク反戦、2004年のスマトラ沖大地震等の話が飛び出し、彼がボランティア活動に入る経緯がよくわかりました。NPO法人アースウォーカーズは、宮崎県(小玉さんの地元)の活動から始まっていますが、2011年東日本大地震を経て、福島に出向き、活動を定着させていったようです。
今回の彼らのウクライナ支援もこうした基礎の上にできています。福島の高校生がウクライナの高校生に宛てた平和を願う手紙を書き、それを携えていきました。それを見たウクライナの笑顔の高校生が映し出されていました。またウクライナの高校生が書いた絵を含む手紙(実物)をもって帰られました。
➁空襲警報でリヴィウのショッピングモールから待避する人々(2022年9月)。
(映写幕を借りなかったので、こんなところに映写。失礼しました。左のホワイトボードではテカリが出てしまい使用不可)
彼が示した写真には空襲警報で避難する場面や、銃弾が撃ち込まれてできた穴から見た街の廃墟もあり、緊張感を垣間見ることができました。話の核心部に入る頃、終了時間が迫り、いささか残念でした。質疑応答の中で、司会をやっていた私が以下の質問を出しました。
最初に福島の高校生にウクライナの高校生への手紙を書いてと話したとき、どのようなやりとり、反応があったのかと聞きました。私の質問は愚問だったのかも知れませんが、大震災で関わってきた学校でのことであり、それまでの蓄積があるからこそ、平和ー生きるということへの共感が育まれており書いたのだと私は感じました。逆にウクライナの高校生が福島の高校生に返信を書いたのも、お互いの関係(信頼関係へ)の筋道ができることへの期待であり、成果でしょう。具体的な交流の意義は、この一点でもあると言うべきでしょう。
何人かが質問していましたが、最後に話した女性が、このまま戦争へと押しきられていくんじゃないですかと、率直な意見・質問が吐露されました。それに対して、小玉さんは、いや、人間の歴史は戦争から平和に向かっているのだと、確信に満ちた発言が飛び出しました。この発言を受けて、閉会の挨拶を具志堅徹さんが前を向いた発言でしめてくださいました。
このへんの認識は議論の余地があると、私は考えていますが、極めて重要な確信です。戦争を自由にやれた時代から、不戦条約が結ばれて(1928年)制限された時代、また逆行していく時代とありますが、核軍拡による世界の破綻(蓋然性)が直視されてきた歩み。今はさらにその反動が起きており、ギリギリの緊張状態へ。それがロシアによるウクライナ侵略等で平和が脅かされています。
人間の理性は、経済や政治・文化によって吹き飛ばされてきたのが偽らざる実態です。そこを超える人類の新たな平和への確信を能動的に抱くことが重要だと私は考えます。そして77年前に至る侵略の歴史を正視できなかった「日本人」の愚かさを直視することこそが、動的な転換を果たしていく原動力になるのだと私は考えます。
時間があれば、もっともっと具体的な体験を彼から聴きたかったのですが、これは今後の宿題。私たちは、「平和」を言葉遊びにくくられない、具体的な生きる為の展望として語り出すことが肝要だと、私は了解しました。
小さな集会であれ、私たちが実行委員会を組み、私が司会をやり、撮影しは、沖縄に来て初めての出来事でした。東京時代の私は、こうしたことを日常的に仲間たちに支えられてやっていましたが、久しぶりでいささか緊張しました。無事につつがなく終わってほっと一息といったところです。取材が新聞、テレビも入りましたが、どうなることでしょうか。
これをきっかけに、「私たちの企画」を実現していく努力を私は積み重ねていきたいと願っています。
ご来場の皆様、関心を寄せていただいた皆様に感謝申し上げます。もちろん、この一回のために沖縄の名護においでいただいた小玉直也さんに厚く感謝の意を表し、今後のご健闘を願っています。ありがとう。