ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け35年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

無関心・同調を打破できないか?(試論 2)(20220719)

2022年07月19日 | 考え直すために

(試論 1)は7月18日の記事

(Ⅲ)どこから始めるのか?
  まず私の場合から書いてみよう。

① 公教育からは何も得られなかった
 私が育ったのは小学校が1958年、中学校が64年、高校が67年入学だった(中高は私立)。50年代は民主的教育と言われた時代だったが、私は公教育から何も得ることはなかった。「社会科」など暗記だったし、考える方法を若干学んだのは、やっと大学に入ってからだ。知識の切り売りでは、自分の生き方など考える芽は育たない。多分皆さんどっこいどっこいだっただろう。
 その後教科に位置づけられた「道徳」は上からの押しつけであり、自己教育と矛盾する。

② 自分の原点は?
 原点とは、社会とのきしみの中で、考え、こだわり始めたことだ。これがない人は、ないことを問わなければならないだろう。自分探しでもあろうが、ない、浮かばないとすれば、スルーしてきたのだ。幸せに生きてきたといえる人もいるかもしれないが、多くは自分を見つめることすら奪われてきたのではなかろうか。
 
 何度も書いてきたことだが、小学校時代の我が家の隣にあった養護施設の友達が校内で財布を盗んだとガンつけられて、嘘!あり得ないと思ったのが、1961年頃だったはず。まだ差別と言う言葉を知らなかったが、今思えば明確な差別。こういうレッテル張りは一部の親と先生などの大人の仕業だった。友が無実の罪を着せられたら怒る。大人社会を不信に思う。
 相前後するが、1964年の東京オリンピックを前に付近の自然が壊され、道路や住宅に変わっていった。原っぱと畑と、以前は夏になるとアオバズクが「ほー・ほー」と啼き、冬にはトビが訪れた松林などの周囲の環境はどんどん様変わりしていった。「高度成長」の姿に私は震えた。私は自然破壊がもたらすだろう恐怖におののいていた。こうして私は、社会と軋み合う中で、自己を育んでいったのだ。
 1964年に東京―新大阪駅間に東海道新幹線(「夢の超特急」と前宣伝されていた)が走り出した。蒸気機関車がみるみるうちに退場させられていった。1965年、私は自然を具体的に知るてがかりとして日本野鳥の会東京支部会員となった。だが、そこに自然保護運動はなかった。1966年、初めて、千葉県新浜(山本周五郎が描いた「青べか物語」の地)にシギ・チドリを見に行った。干潟の開発が進み、埋め立ての真っ最中だった。「何で?!」の世界だった。この「何で?」に、大人はなぜ動かないかも含まれていた。しかし若者たちが立ち上がった。憂慮していた先輩たち(学生・院生)と私は意見が一致し、1967年春「新浜を守る会」を立ち上げた(大人も含め)。だが、開発は強行され、地下鉄東西線、湾岸道路、ディズニーランドなどができてしまった。
 この中で忘れられないことがある。「野鳥を守れ!」とのキャンペーンは、「野鳥を殺せ」というリアクションを生み出していった。漁民は漁業権を売り払い、農民は農地を宅地に売り払い、換金したかったのだ。高度成長に追いつこう! 結果、2000haの保護を要請したあげく、残った面積は80haだけだった。ゼロではなかったところに意義も課題も残された。
 なお、私に60年反安保闘争の記憶(三井三池の炭鉱労働者の闘いも)は全くない。ただ60年10月に浅沼稻次郎社会党委員長が刺殺されたシーンははっきりと覚えている。反戦闘争は60年代後半に入り、米国がベトナム戦争に本格的に介入した後、知るようになったのだ。ただし、68年8月21日、ソ連軍がチェコに侵攻し、「プラハの春」(民主化運動)を潰したことを強烈に覚えている。妙高高原(「若さの探鳥会」という私たちの企画)、志賀高原(ひとり)から下り、長野駅近くの喫茶店でそのニュースをラジオから聞いたのだ。何という落差かな。
 大学に入ったのが1970年春だが、ベトナム戦争の渦中であり、反戦闘争・学生運動を担い始めていく。この中で私が震撼とさせられたのは米軍によるジェノサイドという生物の命の絶滅作戦だった。ナパーム弾による焼殺攻撃、化学兵器による水田や森をまるごと破壊し、人の生存条件を丸ごと破壊、死滅させていった。戦争とは強烈な自然破壊でもあった。同時に科学技術の「善と悪」の両義性、恐ろしさを思い知らされた。

 今、当時から50年、60年がたっている。今を生きている人は何を原点に生きているのだろうか。時間と場所を捉えながら考えていかねばならない。体験を経験としていくためには、何が必要なのだろうか。

③ 私はなぜ50年あまり引き継ぐことができたのか
 労働運動、地域運動、雑誌(「新地平」)編集、子育て、取材を通して、こだわるべきツールと題材があり、友もいたから、形を変えながらも続けてくることができた。1989年の天皇の代替わりと、沖縄との出会いも重要な要素だ。継続は力なりだ。継続の中から、様々な切り口が見えてくる。諸々の関係が見えてくる。これは小さくない。
 今振り返ってみれば、人との出会いが大きい。この人、あの人、お世話になりました(ここでは名を伏せる。失礼)。お世話になっております。
 今思うのだが、60年代後半から72年にかけて、時代状況が反体制・否(ノン)を突きつける力が働いていた。それが多数で正当だと考えることができた「良き時代」だった。

④ どこに立てばいいのか?
 2022年の今。2000年代初めから「自己責任」論が打ち出され、「おまえの責任」と非難されるようになってきた。「新自由主義」・差別排外主義・武力行使の正当化が吹聴されてきた。社会を巡る議論がはじき出されてきた。
「新自由主義」は曲者だ。「自由」を自称しているが、資本の自由である。儲けの自由だ。近代が生み出した「人権」を押しつぶす「自由」が闊歩する。人が生きる価値よりも資本の儲けが重要だとの思想。こうなった背景に、1991年のソ連邦崩壊が大きな影を落としている。以前は「東西」対立(米ソ対立)があり、西側陣営も緊張関係を意識せざるをえなかった。あからさまに儲け第一主義で、衝突を激化させるよりもお金を出して取り込もうとしてきた。なお、私はソ連邦を支持してこなかった。大概の社会主義政権を支持していない。「スターリン主義」という毒素にまみれているからだ。民主的な規制がない独裁体制を超えることができなければ、闇夜は続く。

 私たちが生きているのは、この社会と政治の中であり、何事も社会と政治との関係を問いながら考えないと、「自己責任」論に陥ってしまう。
 私は、暮らしの問題を《命の営み》として捉え、それがいかに疎外されているのか.確認したい。新自由主義を批判する。一人一人の命を見捨てず、問題の所在と責任を追及したい。
 私たちは、こうした動き、現状に対抗するために留意すべきことがある。自分を過小評価しない。過大評価しない。失敗に向き合う。自分の発信力・表現力を磨き、対話力を鍛えていく。また民族差別を洗い出し、克服していく。
 と考えると個人の努力だけでは解決できないだろう。チームを組んだ取り組みが重要だろう。そうは言っても、個の努力なしに一歩も進まない。チームは個人の努力を支え励ましていく。すでにこうした集団的な努力はあちこちで始められている。

⑤ フェミニズムとの出会い直しと今
 正直言って、女性との関係は難しい。難問中の難問だろう。自分は男であり、「第3者」だと客観視すれば欺瞞となるだろう。兵隊による性暴力事件は、軍隊だからだと納得し糾弾するだけではいけない。そこに微妙なものがある。
 私がウーマン・リブを知ったのは1971年頃だったが、1973年に優生保護法改悪阻止闘争を新宿リブセンターなどと共闘していた。「男の子育てを考える会」に参画したのが、1978年だった。この会で知り合った仲間に、私は大いに励まされてきた。1980年代に「フェミニズム」という言葉を知って、学問臭さに違和感を覚えたものだ。
 1995年に沖縄で起きた少女レイプ事件に、大きな衝撃を受けた。その後、神奈川で米兵にレイプされたジェーンさん(オーストラリア人)の告発を知るなど、「軍隊・兵隊と女性、そして自分」を考える機会が増えていった。2017年伊藤詩織さんの「Black Box」を読み、露骨な性暴力に驚愕し、改めて衝撃を覚えた(「男、ダメだなぁ!」という感慨)。ここから「Me too」運動が広がり、私もジェンダー平等を改めて意識するようになった。
 考えるまでもなく、男女の数はアバウト50対50。女性差別を考えることは、あらゆる差別を考える際の契機ともなり、また本音と建て前を克服していく前提ともなる問題だ。
 家父長制に固執している自民党は夫婦別姓法案すら認めていないが、これを打破できるか否かは、歴史の分水嶺を超える闘いになるだろう。ひとまず「男ダメだなぁ」を超えるわたしになることを基本に据えたい。

⑥ 「社会と政治」を問う学問による実践的知性を求めて
 私たちが生きているのはデジタル社会ではない。道を造っているのも学校をつくっているのも、基地を造っているのも政治であり、政治がつくりだしたこの社会の中に私たちは生きている。デジタル社会はその一部に過ぎないし、それどころか偽造しやすいものだ。
 ところで学問、社会科学は、「中立」を装い、④にあげた「どこにたてばいいのか?」に答えるものがあまりにも少ない。特に社会科学も基本、輸入品だから(翻訳の問題もあり)、ますますだ。「客観的」と「科学的」の含意は違う。「客観的」は自分の立ち位置を外しながら、「中立」を装いがちだ。「科学的」は本来、この社会の中に生きている自己を問い、社会の構造を考えるものだろう。ただネーミングだけでの判断は、覚束ない。自然科学でも企業犯罪をスポイルするような科学は絶えないのだ。
 人間がまともで、科学がまともだったら、人間は核開発をやっただろうか。公害や自然破壊を繰り返してきただろうか。また、これほど「新自由主義」にめちゃくちゃにやられていなかっただろう。戦争を止めることもできたはずだ。近代科学が誕生してから300年前後経とうとしているが、資本の利益に人間は浸食され続けている。今こそ、人間が生きていける為の知性が求められている。

⑦ まとめにかえてー「大学解体」の叫びから55年が経つ中で
 「大学解体!」、「知性の反乱」と言われた闘いが起きたのは、1967年だった。地に足がついておらず、日本では、大半は藻屑と消えていった。機動隊が導入され、バリケードストライキが解除され、行く先は資本の奴隷に戻されていった。「産学協同路線」粉砕が踏みにじられ、「産学軍共同路線」が踏み固められている今。「地獄が近い」のではないか。
 大学等の有志は、大学・大学院、研究機関から、殻を破り、労働者・市民との共闘・共学を行い、人間の知性を築き上げてもらいたい。悪夢を信じ込むよりも、私は可能性にかけていく。 
 
(続く)

第3部は、歴史編。如何に押しつぶされ、呻き、失速したのかを日本近代150年を振りかえりながら、無関心・同調を打破する論点を考えたい。
 第1部も、2部も不十分だらけだ。随時訂正、補強していく。 
 
 
   



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。