おはようございます。2024年12月23日(月)曇り
今年も10日を切った。月日(時間)は、連続しており、どうということもないのだが、どこかで一息入れたい。年末年始はこの一息入れるタイミングだろう。
いよいよ大浦湾で本格的な工事が始まる。護岸建設、ケーソン置き場建設、そして軟弱地盤の改良工事も。大浦湾が踏みにじられていく。かたや、性暴力事件は絶えず、昨日やっと、事件から1年ぶり(発覚して半年)に県民大会が開催された。今朝の沖縄タイムスのラストページが凄い。「奪われ続ける尊厳と命」と題して、1945年4月からの事件史がまとめられている。小さな字で描かれた一覧だ。「米兵性暴力許さない」(同紙1面)のラストページにご注目。
沖縄の新聞がやっと「性的暴行事件」から「性暴力」と言うようになったようだ。感慨深いことだ。あの1995年9月4日の事件の時、私の最大の違和感はここにあった。「暴行事件」。「性暴力」と言えば、被害者のプライバシーを脅かすと言って、禁句にしていた沖縄のマスコミ。微妙な表現の違いがあったのだ。29年の歳月が経った。
「性的暴行」も「性暴力」も同じようなものだが、「的」をいれて、沖縄のマスコミも、沖縄社会も、性暴力をやや間接的な表現に押しとどめてきた。「的」を入れ、その奥にある問題を回避してきた。「性暴力」の方が確かに露骨な表現だろう。それをどう受け止めるのか、女性たちの「否」を、私たち男がどう受け止めるのか? 「女性を殴りました」ではない。否、殴ったかもしれないが、殴ることは手段の一つに過ぎない。強姦という支配の形態=本質こそが問題だ。
私たちは、性暴力は殴られた傷よりも遙かに深いだろうということを想起したい。私も何度か機動隊に鉄拳で殴られ,蹴られて痛かったとか、骨折を経験しているが、忘れられる痛みだった。性暴力の場合、どうなのだろうか? 治癒し、痛みを忘れられるのか? それは物理的な痛みを遙かに超えるものだろうし、どう考えても回復は簡単ではないだろう。
性暴力は、物理的なダメージ以上に、暴力支配と重なっている。この一点で軍隊の本質と重なっている。集団と個の違いがあれども、同一線上にある。
私たちが、あちこちで支配されていれば、その負のエネルギーは「弱者」に向かう。だから解決は困難だ。否、だからこそ支配・被支配の関係を緩和する、なくす社会に、現実を克服していかなければならないだろう。平和と戦争がひとつながりだということにも通じている問題だ。
話は変わるが、私は10月から米軍の新たな揚陸艦の開発について、追っかけてきた。「HOS・Resolution」の問題だ。その過程でホワイトビーチに原潜が潜水艦補給艦と伴に接岸したことを追いかけてきた。そして11月からサンドコンパクションパイル工法の船3隻が金武湾と中城湾に沖合停泊しているのを追いかけてきた。それぞれ用途は異なるが、近現代が生み出した怪物だ。
沖縄がノーと言わなければならないことが多すぎる。ノーと言わなければ、戦争への道を是とし、受け入れていくことになる。性暴力の問題も同様だ。
これから私は(カメラの)SDカードを買いに出て、そのまま現場に向かうが、重たい問題だからこそ、一人では不可能だ。耐えがたい。「耐えがたきを忍ぶ」のは臣民がやることだ。だからこそ、問題を掘り起こし、交差させていくことが不可欠だろう。どうしたらできるのだろうか。昨日の県民大会はこのための第一歩になったのではなかろうか。大小様々な場の設定が必要だ。私も前を向いて歩き続けたい。