昨日、電話が鳴った。ある方から、遅くなったけど、学習交流会をやりますと私の提案を受諾いただいた。連絡がなくあきらめていたが、私の予定を入れ替え、設定した。これで夜の部は8日~11日まで全部確定。ありがたい。
ということで昨日からレジュメをまとめて作成中。①は事前の現場から視る基地ウォッチング資料、➁がこれ。これまでの総括と今後のこと。③が「沖縄から安保3文書を読み解く」。期せずして、今この3つを連続して話すことは、極めて重要だと考える。さてどうなりますやら。
私が共通して留意したいことは、私たちは、何を見ているのか、見えていないのかにある。また、引き合いに出すのだが「本土の人間は知らないが、沖縄の人は、みんな知っていること」(須田慎太郎 写真、矢部宏治 文 書籍情報社 2011年6月刊)がある。これは、確かに好著と言えるが、大嘘本でもある。センセーショナルなネーミング過ぎて、私は全く好きになれない1冊だ。沖縄の人がみんな知っていれば、今の沖縄はないだろう。まっすぐに見つめる事がだるい、だるくされているのだ。「知らない」裏側まで取材して、こう書くのならともかく、「ふざけるんじゃない」と私は考える。「だからやまとんちゅはねぇ」と私(たち)が言われるのだ。
で今、同書を開いたら、またとんでもないことが書かれていることを発見。「写真を撮るときの注意ー日米地位協定であなたも逮捕される?」とあるのだ。内容は2頁分。
確かに注意は必要(これは日米安保条約が有効な範囲内すべてに於いて。いや警察権力が跋扈している場全てだろう)だが、自分たちは散々やっておきながら、あたかも親切心で書くという欺瞞。脅し?! 確かにこうすれば、注意として有効とか、これは危ないからやめようとかを書く(公にする)のは、避けた方が良い。相手(米軍と日本警察)次第だからだ。私は、住民の安全のために撮ると決めている。この視点を最重要に取り組んでいる。その渦中で何が起きても頑として譲らない以外にないのだ。こうしたセンセーショナル本はやはり屑だと、私はここで再確認しておきたい。
話を戻せば、何を見ているのか、見えていないかを吟味することで、米日関係の裏側が見えてくる。これをあぶり出さない限り、米日安保体制を揺さぶることはできない。難しい条文解釈等の法令解釈をやっても、分かる人だけのお話になってしまう。ここに生きている者全体が分かる糸口を探ることが不可欠だ。沖縄の現場に普段居ない人が分かるように話すのは、見せるのは難しい。しかし誰しも生活の場を持っている。ここに接合しながら、わかり合える糸口をみつけたい。
一回聞いて終わりじゃ、連帯は不可能だ。連帯とはお互いに自分を掘る、問い返す意思がなければ成立しない。平和教育は、この連帯の心を拓くことを抜きに成立しないのだ。自分事にする糸口。
私がこうしたことに留意するようになったのは、比較的最近のことだ。辺野古テント村を出てからだから、まだ2年あまりということだ。自分一人で撮影し、話すのは、テント村でやっていた時とは別の重圧がかかる。今回のお話しはそのファーストチャンスになるはずだ。3つのレジュメを同時進行で書くのも、基本同じ水準でやりたいからだ。そこから何かを生み出したい。