4月9日投開票の地方選結果を見ていると、予想通りだが、愕然とさせられる。大軍拡を進めている自民党は堅調であり、もっと右の維新が全国政党への道を切り開きつつある。ゆゆしき事態だ。対して、立憲民主党の没落。共産党の後退、道府県議選でマイナス22議席。5県議会で議席ゼロに。れいわは一議席も取れなかった(推薦・支持は若干名居たようだが)。思わぬ頑張りを示したのが社会民主党。少数政党であることに変わりはないが、新たな頁を開いていくかもしれない。
各野党にはきちんと総括を出し、次に向かって欲しい。ここで立ち止まっている余裕はないはずだ。
何故こうなのだろうか。「がめつい奴ら」(維新)がのさばり、選挙戦術にも長けており、がむしゃらな組織戦をやっているようだ。反面、がめつくありたいが、その前提を失っている人たちは、政治離れしており、諦めてしまっている。投票に行く意義を見失っている。
生きていくことを諦めない、ことを「選挙に行こう」の前に話しかけなければなるまい。視点が大いにズレているのだ。山本太郎の「生きて居てくれよ」の嘆きも分かる。しかし彼がカリスマになってしまい、彼を中心とした運動体になってしまっては、一人一人はかわらない。実に面白い候補者もいるのだが、その「おもしろさ」では、今の世相の中では多数派になれないのだ。ズレており、このズレを是正していく地道な取り組みが不可欠だろう。選挙ボランティアだけでは、克服できまい。
因みに「多数派」と書いたが、政治選択を意思表示しない人が多数なのだから、この「多数」・「少数」も不透明なのだ。濃霧の中を航行しているのが今であり、この濃霧を晴らすことが政治の役割の一端であるだろう。否、濃霧は自然現象であり、「煙幕」と言うべきか。これは人為的、政治的なものだ。
杉並区長の岸本聡子さんは、一人街宣をやっている。「決めるのは私たち」と。4月23日の区議選を意識してのことだ。これはこれで文字通り「決めるのは私たち」ー個人の生き方であり、こうした個々人が集まり、自治を育くんでいただきたい。
私はこの個人の生き方と、自治・政治が結びつかなければ、自滅に向かう動きを押しとどめ、変えることはできないと考える。個人のレベルでも国のレベルでも、生きる為に何を選択するのか、しないのかを明確に考えること抜きに、「青い鳥」はいないのだ。幸せを、金頼み、神頼みしてはいけないのだ。
このためには、個人と国家の間に、社会(関係)を、個人から構想できる社会関係をつくりあげるしかない。しかしその個人が空洞化しているからやっかいだ。つまり性急に政治を変えることを目指すばかりだと、個人が益々空洞化し、逆な自己放棄のバネがはたらきかねないのが、今日ではないか。
私にも確たる答えはないが、ズレやねじれに留意した取り組みが不可欠だと考える。今後じっくりと考えていきたい問題だ。
今日の名護は晴れている。