横浜教会ニュース

インマヌエル横浜キリスト教会の様子をお知らせします

夜、寝る前に

2008年10月24日 | 家庭・こども

 我が家の4歳の息子は、夜ねかしつけるのが非常に大変です。

 生後5ヶ月のころ昼寝をしなくて、預けていた保母さんから、「こんなに寝ない子は初めてです」と言われてしまいました。そこの保健士さんは「眠りの短い子」もいる、と話されていましてうちはそうなのかしら?とも思っています。お姉ちゃんがとっくに寝ても全く寝付けず無理やり寝かせてもずっとふとんでゴロゴロしたりしゃべったり部屋の外に出てしまいます。

 私もあきらめて彼に付き合って眠くなるよう本を読んだり色々してこっちが眠くなります。そんなこんなでやっと彼も寝る気になって部屋に入り、まっくらな部屋で「ああ、これで眠れる。」とほっとしてふとんの中に入ると、突然「あっ!!ママ!忘れてたよ!神様の本だよ」と叫んで持ってくるのが(以前にも書いた)「ぼくとわたしのきょうのみことば」という高木輝夫先生の本です。366日分にわかれていて1ページずつ読んでお祈りまで書いてあります。

 私は「そうだった・・・」と疲れた体を起こして今日のところを一緒に読みます。わかりやすい本ですが、4歳用にもっとわかりやすく説明すると楽しそうに聞いています。最後のお祈りは、二人で声を合わせてやり、それに加えて今病気のお友達のことなども祈ります。「アーメン!」と言って、これで本日最後のおつとめ?がほんとに終了です。こどもはイエスさまが大好きです。子どもの信仰にひきずられるようにこの本を読んで私も神様に近づく思いです。


こどもと読む本

2008年05月20日 | 家庭・こども

以前、家庭での礼拝で読むのによい本は?というご質問がありました

次の2冊もよいのでは、と思います。

イエスさまがおしえてくださった
              
主の祈り』(ロイス・ロック作)

主の祈りを短く区切ってわかりやすく語られていて子どもが主の祈りになじみやすいです。
『天におられるわたしたちの父よ』のところでは
 「世界はとっても大きいのにわたしってとても小さいのねえ!」そんな気         
  がすることないかしら?

・・・・・で始まります。親しみやすいですね。

もう一つは
『ぼくとわたしの きょうのみことば』
   (たかぎてるお著)いのちのことば社

366日分のみことば、短いメッセージ、最後にお祈りがセットになっていて家庭の礼拝でも使いやすいです。

5月20日のところを見ると

「神が私たちの味方であるなら、だれが私に敵対できるでしょう。」
                       (ローマ8:3)
というみことばで、

「イエスさまによって救っていただいてからは、神様はわたしたちの味方になってくださいました。なんと力強いことでしょうか。では信仰のてきとはだれのことでしょうか・・・」

とかみくだいて説明してあります。
これは実は大人が読んでもディボーションとして結構励まされ、教えられますよ。
よい本がありましたら、コメントお願いします。

 

 

 

 

 

『ぼくとわたしの
      きょうのみことば』(たかぎてるお著)いのちのことば社

 

 


家庭での礼拝

2008年02月05日 | 家庭・こども

横浜教会では今週金曜日11時からマミーズフェロシップがもたれます。
ずっとシリーズで学んでいる「子育てのストレスを喜びへ」はいろいろなことを気づかせてくれます
 参加しているママたちからは、「毎回納得させられる」「神様の恵みがいっぱいになる」との声があります。

 前回は詩篇119篇24節の「まことにあなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。」
というみ言葉が示された上で、幼児を持つ母親の生活は聖書が読めない、祈りができない、礼拝で落ち着くことができない・・・という状況で心がからからになることが書かれていました。
 著者の玉井先生もそのような経験の中で、ある友人に薦められて、詩篇119篇を8節ずつだけ読むようになり、乗り切ってこられたそうです。
また子どもと一緒に神様を想うとき、気軽にみ言葉に聞くときの大切さも書かれていました。

この学びの後、参加したママのお一人は「子どもに聖書を家庭で教えたい、何を買ってくればよいかしら。」という質問があり、わかりやすい絵のついた子ども用の聖書絵本を紹介しました。
 
お母さんがこのような素晴らしい願いを持ち、少しずつでも子どもに神様の真理が伝わっていくのは、その家庭にとってなんて幸せなことだろう・・・と感じたのでした。

 
皆さんもできる方法で忙しい毎日に聖書の時間をご家庭に染みわたらせてはいかがでしょうか。


こどものように信じる

2008年02月01日 | 家庭・こども

 新年に入ってから右手を痛めてしまいました。なかなか完治せず、3歳の息子と手をつなぐのも痛いことがあります。それでも手をつなぎたがって困ったりしていました。

ある日保育園についたとき、息子が「ママこっちの手、痛いの?じゃあ反対の方でつなごう。」と気をきかせてくれました。「うん、こっち痛いからね」というと
突然その場で
「イエス様、ママの手が早く治りますように。イエス様のお名前によってお祈りします。」と祈りました


そして、「すぐによくなるよ!!だってイエス様は動かない人に『動きなさい』っていったらすぐに治ったもん!」
・・・
と自信満々でいうのです。

私は子どもの心遣いがうれしかったのと同時に、聖書のお話を聞いてそっくりそのまままっすぐに信じているんだなあ・・・と驚いてしまいました。

クリスチャンであっても大人は、「いやあ、すぐってわけにはいかないだろう、いつかは治るかもしれないが」なんて理屈で考えます。そして治ったころには自分がお祈りしたことも忘れて感謝さえ抜けてしまいがちではないでしょうか。

子どもが示すような信じ方には大人がなんだかんだと説明を加えたくなります。
でもイエス様は幼い子どもの信じ方を価値あるものと見積もられていることを思い出しました。
「こどものように神の国を受け入れるのでなければ神の国に決して入ることはできない」と。

 

 


マミーズの学び

2007年09月18日 | 家庭・こども

マミーズフェロシップその2


ママの学びでは、続けて「子育てのストレスを喜びへ」という本を使っています。『日々の知恵を求める』という章で、

ヤコブ書1章5節の「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人はだれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。」という聖書の言葉が引用されていました。

子育て中のママは判断に迷うこと、知恵の必要なことが毎日山のようにあります。そんなママたちは目を神様にむけて、特別な知恵を、どんな小さな悩みのためにも、祈り求めることができる、というお話でした。
 ともすれば自分だけで、悶々としがち、そして小さな頭をパニックにして
子どもにあたってしまうなんて失敗をしがちですが、天のお父様にいつでも
知恵を求めていいということを思いおこさせてもらえました。
ママどうしでの話し合いでは「こうやって学ぶと神様の恵みをいっぱいうけて子どもに対応できるのに、長くはもたないんだよねえ」という本音も聞かれ、支えあうことが必要だと感じました。


 


不安な親の手をにぎる神

2007年08月16日 | 家庭・こども

最近子育てに自信を持てない自分に気がつきました

「こういう風なしつけをしなければと思うのだけど、無理やり子供に押し付けている気がする。」「子供がちっともこちらの願うように動いてくれない、そんな自分は周りからダメな親と思われている」
そんな無意識の自分への責め言葉を自分から休みなくあびせつつ子供と接しているため、疲労は多く、子供も安らいでいません。
いくつかの本を読む中で、
児童精神科医師の佐々木正美先生が書かれた『子供へのまなざし』に出会いました。

「不安が大きくなると人はどうするのか、なにかにしがみつこうとするわけです。親が幼い子どもにすがりつくというのは、どういうことかというと、自分の思いどおりの子どもにして、なぐめられようとするのです。不安が大きい人ほど、子どもを操作しすぎる。自分が気に入るような子どもにして、精神的に満たされようとする。」とありました。岩月先生の本にも似たような内容があり、〈他のそうして育った子どもは、親の顔色をうかがい、「怒られる不安、期待に答えないと親に見捨てられる恐怖」があるから、一見いうことを聞く“よい子”として育つが、エネルギーを親に吸い取られて命を削って生きているため、思春期になると枯渇してさまざまな問題が出てくる。〉ということが書かれていました。
 私はそんな不安を抱えて子育てを最近していたと思い当たりましたが、気がついたものの、そのどうしようもない不安、恐れが消えず悶々としいました。
ふと最近読んだイザヤ書41章13節~14節が思い出されました。

「あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、
『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言っているのだから。
恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。」

人には、数えれば不安の材料はつきないのだけれど、私を造り、世界を治める神様が、わたしの右手をにぎっていてくださる。「恐れるな」は、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」という言葉かけでもあるのです。そんな方に支えられているとき、私は不安も小さくされて子どもに向き合えるのです

「子どもへのまなざし」にはこうも書かれていました。
『乳幼児期の育児は、ひとことでいえば、子どもの要求や期待に、できるだけ十分にこたえてあげることです。せんじつめればそれだけのことです。そして子どもの要求にこたえてあげて、こちらから伝えたいことは、「こうするんでしょ、そうしちゃいけないんでしょ」とおだやかに何回もくりかえし伝えればいいのです。いらだったり、しかったりする必要はないのです。』

・・・とっても教えられた文章でした。


力の限り子どもの心を見守る

2007年07月04日 | 家庭・こども

「イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとにつれてきた」
 ・・イエスは、こう言われた
「子ども達をわたしのところに来させなさい」
 
                   (ルカ18:15ー16)

 三歳の息子が、教会学校で幼児クラスにいますが、毎週部屋に入ると、「早く、イエス様のおはなしききたい!!!」とさわぎます。
 イエス様の十字架の絵をさわりながら、傷のところに「ばんそうこうをはらないと」と言ったり、男の子が悪いことをしてしまった絵を見ながら、「これは“つみ”だよね」などと覚えたての
聖書的言葉を使ってみたりと大はりきりです。
 「ぼく、イエス様だいすき!」という日もあれば、反抗期まっただなか、「イエス様きらい!」という日もあります。でも、自分のかわりにイエス様は罪を背負われた、ことはわかるようで、
ひょうきんな彼も、まじめな顔で共に祈ります。
 幼児は本当に純粋に教えられたことを吸い込んでいくと実感しています。だから人生の最初にどんな価値観を知るか、ということは見過ごしてはならないことなのでしょう。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」(箴言4章23節)
  と聖書にあります。
 自分の心を見守るということですが、親にとっては、
 子どもの大事な心も見守る使命が与えられているのではないでしょうか?
 だからこそ「この子が、正しい神様のお心を知るように、そして救いに導かれるように」と教え、「神さまからも人からも愛されて安定した精神をもち将来自立できるように」と配慮し、だれかからいじめられているとわかればなりふりかまわず守ろうとする、そんな日々を送るのが子育てかもしれません。
 でも、力の限り見守っても、時には思ったようにいわゆる
“良い子”ではない道に入っていくこともあるかもしれない。とふと不安はよぎります・・・・・

 そうなったとき、もし“しっかりした親なら絶対にいい子が育つ”と思い込んでいたら、私達は打ちのめされてしまうかもしれません。
自分がだめだからこの子はダメになった”と。それはある意味
傲慢かもしれません。なぜならもし子どもがいい子に育った時、その人は、「自分がよかったからこの子は良くなった」と思い
子育てを自慢するでしょうから。
 そこには上のみ言葉のような“イエスのもとに子どもを連れて行く”という謙虚さが抜けています。
 むしろ教父アウグスチヌスが若い頃に道を踏み外した時代に、
彼が回心するようひたすら祈り続けていた母モニカの姿の中に、
我が子の心を見守る”ことの本質があるように思います。
私達の子どもたちの命を握ってくださるのは、主であることを
受け止め、
    うまく育っているように見えるときも
     全く道からそれて心痛めるときも
子どものために真剣に祈り “イエス様のところに祝福をもとめて連れていく”ことを忘れないようになりたいと思います。


 


 

 

 


信仰継承と子どものストレス

2007年05月17日 | 家庭・こども

毎月第2金曜日にザーズフェローシップという会を持っています。
幼児とお母さんの会で、後半はママ向けの学びで「子育てのストレスを喜びへ」(玉井敦子先生著)という本を使っています。その中から勉強になったこと、思ったことを書いてみます。  

今月は「子どもが抱えるストレスを知る」という章でした。
父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。」
   (コロサイ3:21)のみ言葉が引用されています。

育児中の親はストレスが大きいことは知られています。そして子どもは大人にストレスを与えもするが、日々大きな受ける立場でもあるということでした。

親に自分の個性、能力、容姿などを受け入れられないストレス
「あなたはどうして私たち親の願うような子どもではないの?」という有言、無言のメッセージ。これは時には子どもの心を破壊することもあると私も思います。
しつけのストレス
  親は本当に多くのことを教えなければいけません。冷静に叱ることも必要です。
 でも、なんでも「早く早く、他の子のように」という焦りから無駄に怒り、罵倒したりすることは子どもを気落ちさせることです。きちんと教えつつその子のペース、できるようになる育ちを「待つ」という姿勢が親子の関係を改善する、とほんとに感じます。
 ちなみにうちの子は野菜、肉がきらいで一部の種類以外ほとんど食べない時期があり、困りました。これを食べたらデザート(好きなもの)をあげる、とつったり、食べやすいように手を変え品を変えて作っても、「いらない」と頑固。作った努力が報われず、こちらは怒りに燃え子どものお気に入りのおもちゃを外に捨てたり。
 あるとき、「この子が食べるようになる時期を待つ」という気持ちを持ったら、少し気が楽になり、毎回少しでも食べることはすすめつつ、こちらも「おいしいなあ」と食べていました。数ヶ月するとあれほど拒絶していた大きな人参をパクパク食べはじめました。「待つ」って大事だなあと感じています。
信仰におけるストレス
 クリスチャンの親にとって子どもがキリストを愛する信仰をもつことは、なによりも大きな祈りであり、使命だと思います。そして神様は子どもたちも召していてくださいますし、これには親として、世の中の流れと格闘してでも真剣に取り組む必要があると思います。問題は伝えるときの親子間のギャップであると書かれています。
「多くの子どもたちは、親の信仰を押し付けられるのはごめんだ、と思っています。
なぜなら、親のクリスチャンライフは長く険しく、ようやく今おるところにたどり着いたのに、子どもには『ジャンプして、すぐにここまで来なさい』と叫んでいるのと同じだと思うからです。子どもは親に、「親の立派さや信念を押し付けないでほしい。自分は自分とキリストとの関係を自分で構築していかなければならないのだから、親の借り物でない信仰を、自分の手でつかまなければ生きていけないのだ。」と叫んでいるのではないでしょうか。」とありました。
 私自身クリスチャンホーム、教会の中で育ったのでその大きな恵みと共に、信仰的期待を自分の育ち具合にあわず過度に期待されることの苦しみは実感しています。

 今度は自分が親としてこのすばらしいイエス様のみもとに子どもを連れていく使命に日々取り組むときに子どもを思いやりつつ、主がしっかりと子どもの手を握ってくださることを祈っていきたいと思います。

 


親に愛されない子は?

2007年03月20日 | 家庭・こども

先日、ドラマ「華麗なる一族」の最終回が放送されました。木村拓也演じる主人公の
「鉄平」が雪山で猟銃自殺するという衝撃的な結末でした。(彼の夢は死後に実現するのですが)

 鉄平は、経済界で大きな力を持つ万俵財閥グループの長男として生まれました。
家では家長の父、大介が子供たちの結婚も決定し、家の中に秘書という名の愛人を住まわせるという環境でした。鉄平は優秀で人望のある青年に育ちますが、小さい時から父に冷たくされうとんじられてきて、今は亡き祖父敬介にはかわいがられて育ったようです。鉄平は家族の中で父の生き方に真っ向からぶつかり意見する唯一の人間でした。鉄平が専務を務める鉄鋼会社は巨大なプロジェクトに着手しますが、阪神銀行の頭取である父大介は協力するふりをして徹底的に裏工作をして、そのプロジェクトをつぶそうとします。一方鉄平は度重なる試練にもめげず、仲間と共に奮闘し、父に対して対決姿勢を持ってのぞみます。が、ついに会社が破産したとき、この家に隠されていた秘密が明らかになり、鉄平は父の子ではなく、当時家長であった祖父敬介と母の間にできた息子だったと知るのです。
 会社を追われ、父から『「お前が生まれなければ、」と何度も思った』と告げられた彼は雪山で死を選びそして死後、実は父の実の子だったとわかるのです。

 この話を外からみると、なぜ彼は死ななければならないのだろう、と思います。 
彼には、優しい妻子がいる。若さと才能もあり、まだまだやり直せるはずなのに・・と

鉄平は遺書の中でこう書いています。「父さんに、たった一度でいいから微笑みかけてほしかった。自分はその笑顔を見るために、勉強も仕事もがんばってきた。」と
 子供というのは、ここまで親の優しいまなざしを求めてやまないのか、と思います。

 多くの親は不完全で弱さがありながらも、わが子をいつくしみ、愛情を注ぎます。
一方、悲しい現実として、この世には子どもを愛せない親も存在するのです。
そしてほぼ間違いなくその親自身、幼い頃から自分の親に愛される経験がなかったと言われています。ドラマの中でも、父大介は鉄平に言います。「お前も苦しかっただろう。だが私だって苦しかった。」そして大介は、憎んでいるはずの祖父敬介の肖像画を家に飾ったままにし、はずそうとするのですが、手をひいて、やめてしまうのです。まさに世代を超えて、「愛してくれない親」の肖像を心の王座に置いた状態なのでしょう。

 もし、どんなに切望しても決して自分を愛することのない親のもと、いびつな家庭に育ってしまったとき人はどうしたらいいのでしょう。
 実は聖書の中にも、人さまには言えない、というようないびつな家庭はいくつもでてきます。人間のありのままの姿を聖書は書いていて、その一人一人が、聖書の神と
出会っていく様子が伝えられています。

イザヤ書49章にはこうあります。(意訳) 「親が自分の子どもを忘れるだろうか?
自分の胎の子をあわれまないだろうか?・・・たとえ親たちが忘れても、このわたしは
あなたを忘れない。」また、「主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいるときから私の名を呼ばれた。」

深い傷の痛みは簡単には癒えないでしょう。ただ、心の王座に古い肖像画をかけたまま人生をのっとられてきたあなたが、親さえも超えた方の存在に目をとめていくときに、ひとすじの光があなたを照らしていくのではと思うのです。