クリスマスのイルミネーションや飾りが街をにぎわせています。それを見るとなんだか心がウキウキしてきますね。
ただ、同時に寂しさも覚えます。それは、クリスマスに本当に祝うべき方をそっちのけにしてうかれている世の中に空しさを感じるからです。
聖書の中でヨハネの福音書1章にこう書かれています。
「この方はご自分の国に来られたのに、
ご自分の民は受け入れなかった。」
この方とは、神の子イエス・キリストのことです。ご自分の全存在をかけてこの世の人間の救いを達成するため人の子として生まれたのに、
人間は「知ーらない!!かんけーない!!」とそっぽを向いているというのです。神様のため息が聞こえてきそうですね。
しかーし!!次にはこうあります。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわちその名を
信じた人々には、神のこどもとされる特権をお与えにな
った」
聖書では、イエスを受け入れることと受け入れないことで、
大変な違い を もたらすことが述べられています。
普通の感覚では、「良いことを多くした人 VS 悪いことを多くした人」で
運命は分かれると思うでしょう。
確かに良いことを神さまは喜ばれ罪は悲しまれます。
でも、もっと、もっと、もっと 決定的な違いは、
天の父がはらわたがちぎれる思いで人のために贈ってくださった、
神の子イエスを受け入れるか受け入れないかであるのです。
そしてこの方を受け入れる人自身に、「神の子どもとされる特権をお与えに」なるのです。(他の訳には「神の子となる資格」とあります。)
では、「受け入れる」とはどういうことなのでしょうか?
・・・・・・それは、自分の心と人生に「イエス様、いらしてください」と言うことです。
自分の心ってどんな心でしょうか?よーくのぞいてみましょう。
それは、クリスマスの飾りのようにキラキラ光る整った心でしょうか?いつお客さまをお迎えしても恥ずかしくない部屋のようでしょうか?
・・・・もし、あなたが「私の心はそこそこ素敵です。イエス様が気持ちよく住んでくださりそうです。どうぞ」と思っていたら、実はお迎えすることはできません。
イエス様はくさい、きたない馬小屋に生まれられたのです。
もしあなたが、「私の心は罪にまみれ、とてもイエス様をお迎えできない」と
考えているならば、そこであきらめないでください。そんなあなたの人生と共に歩むためにイエス様は生まれられたのです。
どうか今日あなたも
「ああ、このどうしようもない私の心に不思議なことに、
イエス様は来てくださり、お救いくださるのだ」と驚きをもって素直にイエス様を受け入れてください。