「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすればあなたの計画はゆるがない」
(詩篇16:3)
「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩を確かなものにするのは主である。」(詩篇16:9)
柏木哲夫先生の本にこう書いてありました。
『スイスのクリスチャンで精神科医のポール・トゥルニエは「生きることは選ぶことである」といっています。私の好きな言葉です。そしてそのあとに「何かを選ぶことは何かを断念することである」と続けています。
人間の一生は何かを選んで何かを断念するということの連続ではないかと思います。
そのなかには大きな選択から小さな選択までさまざまありますが、選ぶことに伴う、断念するつらさも引き受けていく必要があります。』
教会では、「神様の導きに従って人生を歩みましょう。」とよく教えられます。
それはどんな歩み方か、というと実に深く広い内容ですが、まずはやはり神の言葉である「聖書」を毎日読み、祈りにより神様に心を開いて、書かれていることに従う
また従えない自分を見つけて十字架を見上げていく、ということだと思います。
では、聖書に書かれていることははっきり目に見えてわかるけれど、書かれていないことはどうするのか?という問題にあたります。
今日の服装は?夕食のメニューは?という小さなものから
学校は、就職はどこを選ぶ? 病気の時は病院はどこにする?結婚はどうする? など大きな迷いまで実にさまざまです。
以前は私は神様の決めた選択がすべて用意されてるんだから、自分で考えても仕方ない、となんとなく考えていて、無気力で自分で責任をもった選択をすることはいけないようにさえ感じてしました。
でもどうやら神様の導き、というのはそんなものとはちょっと違うようです。
確かに、あるときには疑いようもなく、この道を進むようにと強い神のうながしがあってそれに従うこともあるのです。
ただ、私たちの日常で神様が「選んでごらん、よく考えてごらん」とでもおっしゃっておられるようなことが多くあるのかもしれません。
「人のせいにせず、選択に責任を持つ。失敗したら、つらくても認めて祈りつつ修正していく」という訓練を与えておられるのでしょうか。
ただ私たちのするべき選択は、世の中でいう、「あなたの心に正直に」というものとは違うはずです。冒頭のみ言葉のように、私たちの選択や行いをトータルに支えてくださり、間違えやすくまた罪をおかしやすい私たちを愛によって戒めてくださる父なる神様がおられるからです。イエス様を信じる人は “神の子ども”です。
子どもがなにか決断するとき、信頼する大好きなお父さんに相談するように
私たちも祈り、み言葉を読み、神様に相談しながらしっかり選択していきたいですね。