横浜教会ニュース

インマヌエル横浜キリスト教会の様子をお知らせします

神様の導きって?

2007年05月24日 | Weblog

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすればあなたの計画はゆるがない」
(詩篇16:3)
「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩を確かなものにするのは主である。」(詩篇16:9)

柏木哲夫先生の本にこう書いてありました。

『スイスのクリスチャンで精神科医のポール・トゥルニエは「生きることは選ぶことである」といっています。私の好きな言葉です。そしてそのあとに「何かを選ぶことは何かを断念することである」と続けています。
 人間の一生は何かを選んで何かを断念するということの連続ではないかと思います。
そのなかには大きな選択から小さな選択までさまざまありますが、選ぶことに伴う、断念するつらさも引き受けていく必要があります。』

教会では、「神様の導きに従って人生を歩みましょう。」とよく教えられます。
それはどんな歩み方か、というと実に深く広い内容ですが、まずはやはり神の言葉である「聖書」を毎日読み、祈りにより神様に心を開いて、書かれていることに従う
また従えない自分を見つけて十字架を見上げていく、ということだと思います。

では、聖書に書かれていることははっきり目に見えてわかるけれど、書かれていないことはどうするのか?という問題にあたります。

今日の服装は?夕食のメニューは?という小さなものから
学校は、就職はどこを選ぶ? 病気の時は病院はどこにする?結婚はどうする? など大きな迷いまで実にさまざまです。

以前は私は神様の決めた選択がすべて用意されてるんだから、自分で考えても仕方ない、となんとなく考えていて、無気力で自分で責任をもった選択をすることはいけないようにさえ感じてしました。
でもどうやら神様の導き、というのはそんなものとはちょっと違うようです。

確かに、あるときには疑いようもなく、この道を進むようにと強い神のうながしがあってそれに従うこともあるのです。
 ただ、私たちの日常で神様が「選んでごらん、よく考えてごらん」とでもおっしゃっておられるようなことが多くあるのかもしれません。
「人のせいにせず、選択に責任を持つ。失敗したら、つらくても認めて祈りつつ修正していく」という訓練を与えておられるのでしょうか。

ただ私たちのするべき選択は、世の中でいう、「あなたの心に正直に」というものとは違うはずです。冒頭のみ言葉のように、私たちの選択や行いをトータルに支えてくださり、間違えやすくまた罪をおかしやすい私たちを愛によって戒めてくださる父なる神様がおられるからです。イエス様を信じる人は “神の子ども”です。
子どもがなにか決断するとき、信頼する大好きなお父さんに相談するように
私たちも祈り、み言葉を読み、神様に相談しながらしっかり選択していきたいですね。

 

 


信仰継承と子どものストレス

2007年05月17日 | 家庭・こども

毎月第2金曜日にザーズフェローシップという会を持っています。
幼児とお母さんの会で、後半はママ向けの学びで「子育てのストレスを喜びへ」(玉井敦子先生著)という本を使っています。その中から勉強になったこと、思ったことを書いてみます。  

今月は「子どもが抱えるストレスを知る」という章でした。
父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。」
   (コロサイ3:21)のみ言葉が引用されています。

育児中の親はストレスが大きいことは知られています。そして子どもは大人にストレスを与えもするが、日々大きな受ける立場でもあるということでした。

親に自分の個性、能力、容姿などを受け入れられないストレス
「あなたはどうして私たち親の願うような子どもではないの?」という有言、無言のメッセージ。これは時には子どもの心を破壊することもあると私も思います。
しつけのストレス
  親は本当に多くのことを教えなければいけません。冷静に叱ることも必要です。
 でも、なんでも「早く早く、他の子のように」という焦りから無駄に怒り、罵倒したりすることは子どもを気落ちさせることです。きちんと教えつつその子のペース、できるようになる育ちを「待つ」という姿勢が親子の関係を改善する、とほんとに感じます。
 ちなみにうちの子は野菜、肉がきらいで一部の種類以外ほとんど食べない時期があり、困りました。これを食べたらデザート(好きなもの)をあげる、とつったり、食べやすいように手を変え品を変えて作っても、「いらない」と頑固。作った努力が報われず、こちらは怒りに燃え子どものお気に入りのおもちゃを外に捨てたり。
 あるとき、「この子が食べるようになる時期を待つ」という気持ちを持ったら、少し気が楽になり、毎回少しでも食べることはすすめつつ、こちらも「おいしいなあ」と食べていました。数ヶ月するとあれほど拒絶していた大きな人参をパクパク食べはじめました。「待つ」って大事だなあと感じています。
信仰におけるストレス
 クリスチャンの親にとって子どもがキリストを愛する信仰をもつことは、なによりも大きな祈りであり、使命だと思います。そして神様は子どもたちも召していてくださいますし、これには親として、世の中の流れと格闘してでも真剣に取り組む必要があると思います。問題は伝えるときの親子間のギャップであると書かれています。
「多くの子どもたちは、親の信仰を押し付けられるのはごめんだ、と思っています。
なぜなら、親のクリスチャンライフは長く険しく、ようやく今おるところにたどり着いたのに、子どもには『ジャンプして、すぐにここまで来なさい』と叫んでいるのと同じだと思うからです。子どもは親に、「親の立派さや信念を押し付けないでほしい。自分は自分とキリストとの関係を自分で構築していかなければならないのだから、親の借り物でない信仰を、自分の手でつかまなければ生きていけないのだ。」と叫んでいるのではないでしょうか。」とありました。
 私自身クリスチャンホーム、教会の中で育ったのでその大きな恵みと共に、信仰的期待を自分の育ち具合にあわず過度に期待されることの苦しみは実感しています。

 今度は自分が親としてこのすばらしいイエス様のみもとに子どもを連れていく使命に日々取り組むときに子どもを思いやりつつ、主がしっかりと子どもの手を握ってくださることを祈っていきたいと思います。

 


大網充填(タイモウジュウテン)

2007年05月09日 | Weblog

本日は教会員の方の体験談より

 タイモウジュウテン(大網充填)という言葉をご存知ですか?
医学用語ですのであまり知られていない言葉だと思います。

 人の内臓組織の一部がなんらかのトラブル(病気など)で壊れ、そこに穴があいてしまうことがあります。その時なにが起こるかといいますと、周りの組織たちが「ググッ。ググググ~ッ」と寄ってきて、その穴を埋めてあげるのだそうです。
それを「タイモウジュウテン」というのです。

私はそれを聞いたとき、おもしろいなあ、と思い聖書のお言葉が心に浮かびました。

聖書はキリストを信じる人が共に礼拝する“教会”という共同体をこうたとえています。「教会はキリストの体であり一人一人は各器官なのです。」「もし一つの部分が苦しめばすべての部分がともに苦しみ」「体の中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合う」

さきほどの「大網充填の」ように、ある部分(人)が傷んだとき、もし教会が「キリストの体」として機能しているなら、教会全体のいたわりによりその人が覆われていやされていく、そしてそれが神の栄光となっていく、という意味もあるでしょう。(決してその人をだめにする“依存”や“甘やかし”ではなく) 
 
 私たち人間の生来持っている性質では、弱いところは切り捨てる、そんな小さなことに労力、経済を注いでいるのは無駄という感覚があったり、あるいは傷は自分がうずくので見たくないという面もあるかもしれません。しかし、キリストご自身、「最も小さい者」に仕え、いたわることを喜びとされました。
 私たちの愛の足りなさの現実にもかかわらず、教会=キリストの体  とすでに宣言されていることを覚え、一歩でもまず自分が「主にある大網充填」させて頂けるよう
祈っていきませんか。


讃美歌とゆりの花に囲まれて

2007年05月02日 | Weblog

 先週は、召天者記念礼拝について書きましたが、その週の金曜日、横浜教会に
とって宝もののようなS姉が95歳で天に召されました。
 8年前から闘病をなさって、家族の方の熱心な介護を受け、ご自宅で静かに看取られて主の元に帰られたのでした。
 

 S姉は「Sおばあちゃん」と私たち教会員からも呼ばれ親しまれていました。少女のようにおちゃめで、おしゃれな方で「こういう色の服を着たほうがいい」とご指導くださったこともあります。

以前は礼拝堂の席に座って忠実に礼拝をささげていらっしゃいましたが、闘病中に「わたしは礼拝に出席していたときが華でした。」と何度もなつかしがっておられたそうです。

 イエス様を「単純に」「幼子」のように信じ愛しておられ、周りの方にもまっすぐにイエス様を紹介し教会を薦めておられた方です。
たくさんの讃美歌を病床でも歌っておられたのですが、『♪十字架に主なるイェスは』という讃美歌が一番お好きでした。召される前に訪問させて頂いたとき、ご家族と共にこの讃美歌を歌うと、意識のないはずのSおばあちゃんが声を出して反応してくださったのです。

金曜の早朝、「Sおばあちゃんが召された」とお知らせを聞いたとき、涙と共に
とっさに「いさおなき我をかくまで贖いイェス招きたもう、御もとに我行く」という讃美が浮かび、まさにその歌詞のごとくおばあちゃんはイエス様の救いにすがり、今神様のふところに抱かれたのだ、と心の底から感動しました。

 ご葬儀と送別礼拝では、Sおばあちゃんの大好きだったゆりの花といくつもの
愛唱讃美に囲まれて旅立っていかれました。
大切なおばあちゃんを天に送られたご遺族に父なる神様からの深い慰めといやしを
お祈りしています。

《『十字架に主なるイェスは』の中でも一番のお気に入りだった3節》

「いつ日か 川を渡り御国に近づき 
              さいごのたたかいに勝ちて栄えの主にまみえん
 
  主イェスと共に明日を   我また生き抜かん
              恐れは喜びと   変わる救いに満たされて」♪