横浜教会ニュース

インマヌエル横浜キリスト教会の様子をお知らせします

子どもが召され 湧き上がってきた賛美歌

2019年02月24日 | Weblog
インマヌエル横浜キリスト教会ブログです

皆さまは、今朝どのような気持ちで目覚められましたか。

あたたかい、ワクワクした思い?
ドヨーンと重たい気持ち?

先日のブログで、ご紹介した

全盲の賛美歌詩人
ファニークロスビーさん



が、悲しみのどん底で作られた賛美歌を
ご紹介します

インマヌエル賛美歌239番
「イェスの御腕に」





彼女は31歳でクリスチャンになり、

少しずつ賛美歌を作っていました。

音楽教師アレクサンダー・ヴァン・アルスタイン氏(この人も盲目の人です)と結婚しました。

しかしながら、その時代の社会は障害者に理解がなく、生活は極めて貧しいものだったそうです。

その中でも赤ちゃんが生まれたのですが

悲しいことに幼くしてお子さんは亡くなってしまったのです。

彼女は大変な悲嘆の中にいました。

もう二度と賛美歌を書けないとさえ思ったという話もあるほどです。

 そんなあるとき、ファニー女史のもとに、賛美歌などを手がける作曲家のウイリアムズ・ドーン氏が訪れ、自作の曲を弾いて聞かせました。するとファニー女史は30分ほどで詩を 作りました

それが

「イェスの御腕に」
という賛美歌でした。
(以下抜粋)

イェスの御腕に その御腕に
静かに憩う我は安し
天つ 使いの歌の声も
心に近く 聞こゆるなり


イェスはとこよの岩にませば
生けるかぎりは頼らまほし
栄え輝く国に醒むる
とこよの朝を待ちわびつつ



どんなに谷底の這い上がれないような
心になっても、神様の腕は 神様を頼る人を支えてくださるのだと

嬉しくなりますね( ◠‿◠ )

私が天国で初めて目にするお顔はイエス様

2019年02月10日 | Weblog
インマヌエル横浜キリスト教会ブログです

ファニークロスビーという女性は有名な
賛美歌の作者です。



彼女は生後6週間で視力を失い、すぐに父親を失いました。
母親は働きに出るため、彼女は祖母など熱心なクリスチャンの親戚に預けられ、丁寧に信仰、聖書を教えられたのです。


盲学校時代から、たいへんな才能を発揮し詩人として有名になりましたが、成人してから満足していない自分がいました。
ある時、集会で賛美に触れ、キリストに出会い31歳で洗礼を受けました。

イエスキリストにすがりつき、希望に満ちた賛美歌を次々と作りました。

✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
今朝の礼拝で彼女の作詞した賛美歌

「罪とがを赦され」♫
という賛美歌が元の英語歌詞で歌われました


Blessed assurance, Jesus is mine
O what a foretaste of glory divine
Heir of salvation, purchase of God
Born of His Spirit, washed in His blood

This is my story, this is my song
Praising my Savior all the day long
This is my story, this is my song
Praising my Savior all the day long

日本語訳👇


祝福の確信、イエス様は私のもの
あぁ、神の栄光を前もって経験出来るとは、なんて素敵なことだろう
救いを受け継ぎ、神が犠牲を払って勝ち取られたもの
主の御霊によって生まれ、主の血潮によって罪は洗い清められた

:繰り返し:
 これが私の証し、私の詩歌
1日中ずっと、
わが救い主キリストを賛美することが
 
これが私の証し、私の歌
  1日中ずっと、
わが救い主キリストを賛美することが


2.3節訳はこちら

ある宣教師が彼女に言いました。

あなたのことを気の毒に思っています。主はあなたにこれほど多くの賜物を与えたのに、あなたに視力を与えませんでした」。

ファニーはすぐに答えました。
もし私が生まれた時に主に求めることができれば、目の見えない状態で生まれてくることを願ったことでしょう」
宣教師はとても驚いて「どうしてですか?」と聞きました。
ファニーは言いました:「そうすれば、私が主にお会いし、目が見える時に、私が初めて目にするお顔は、きっと私を喜ばせてくれる救い主の顔だからです

詳しくはこちら

死にたい 思いを受け止める

2019年02月06日 | Weblog
学生時代の後輩にあたる、藤䉤牧師の働きが映画になっています。

FEBCで紹介記事がありました。


彼は、自殺防止と、困難な方が共同生活をしながら立ち直るための支援のミッションをされています。

牧師と命の崖紹介記事

記事の抜粋👇

「この映画で描かれていたものは何だろうか」と、帰りの電車で考えていました。
もちろん、そこには藤藪先生が携わっている自殺防止活動の姿がありました。
ただそれ以上に私が感じたのは、
「藤藪庸一」という一人のキリスト者のリアルな姿でした。

「死にたい」という思いを抱えた方を、何とか受け止め、
共に生き直そうと、必死になって駆け回るその姿。
しかし、それでも受け止めきれずにポロポロと溢れていってしまう、人間ゆえの脆さ。
懸命に「ひとり」と関わるからこそ、そこにある無念や痛みは激しいと思います。

映画の最後の最後に出てくる先生の表情に、
「この活動に献身するというのは、こういうことなんだな」と思いました。
答えのない問いの前に立ち尽くしている一人の人、
「死にたい」そして「生きたい」という思いを抱えた人と共にもがく、一人のキリスト者。