先週、精神保健フォーラムで、渡辺和子先生(ノートルダム清心女学校学長)のお話をうかがうことができました。先生は9歳のとき、2.26事件でお父様を目の前で血の海の中で殺害された、という過去をお持ちです。キリスト教嫌いだったのに、不思議にやがてシスターとして献身、36才という若さで学長に就任されました。そのおだやかな笑顔からは考えられないのですが、50代のころうつ病に二年間苦しみ、「シスターですが自殺年慮もありましたし、『なぜこの病気に』と神様をうらみもしました。」とありのままお話くださいました。
当日は「愛をこめて生きる」という題のお話でした。公の場ですが、自然に神様の名が出てきていろいろな言葉が心にとまりました。私の編集ですので、ニュアンスが多少違っていたら申し訳ないですが、紹介します。
「私たちの仕事に『雑用』はありません。雑にやるとき、雑用になります。どんな小さなこと、つまらない(と見えること)でもそこに意味を見つけていく。あるいは意味を与えていくときそれは大切なお仕事になります。 たとえば「このお皿洗いが、どなたかの幸福につながりますように」と、「このおそうじで神の恵みを誰かがうけますように」などと祈りをこめてすべてことにあたっていくとき「愛をこめて生きる」ことができる。
「だれか人様にお会いするとき、その方の存在を「神のお大切な方。」として両手で心から頂くのです。片手でぞんざいに扱うのでなく。
なにか自分にとってうれしいプレゼントは両手で頂くでしょう?
でも、人生には両手でもらいたくない、むしろ押し返したいと思うようなものが与えられる・・・悲しみ、不幸、つらい仕打ちや言葉・・・もしそれらを私たちが心の中で憎しみのばい菌として培養し、何倍にもして他の方にぶつけるなら、心の大気汚染、環境破壊です。でもそのようなものもあえて両手でいただき、心の中で愛に変えていただき、出すときは神へのささげものとする・・・そんな生き方があるのです。
そんなとき、私たちは環境の奴隷ではなく、環境の主人となることができるのです。そのためにも私自身が「神のお大切な方」であると、自分の存在をも両手で頂くのです。イエス様は十字架で私のために死んでくださったほど私を大切だ、と言ってくださっているのです。
上記のようなはっとさせられるお話でした。自分にあてはめて実行しようと思えば「うーん、かなり難しいかな」とも思えてしまうのですが、でもまずは、目の前の仕事、そして人を両手で大切にいただく、という心を神さまに導いていただきたいと思います。
「人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。」
(エペソ6章6,7節)