横浜教会ニュース

インマヌエル横浜キリスト教会の様子をお知らせします

衣のすそにでもふれさせたまえ

2008年04月25日 | Weblog

教会の若者が時々歌う讃美の中にこういうものがあります。

衣のすそにでも  ふれさせたまえ 
    
長血の女のように  ひたすら求める

主の御手が 今わたしに  力 今流れ 
  主イェスの御手にふれ  自由にされた」♪

 長血の女というのは、婦人の病気で何年もの間ひどい痛みを抱えて医者を求めてきた人でした。そのため財産を使い果たし、でもかえって悪くなるばかりで誰も治してくれなかったのです。そんな彼女の前に多くの人々に囲まれたイエスの姿が見えました。
彼女はおそらく最後の希望をふりしぼり、「この方の服のすそにでもさわれば、きっと治る」と思いそっとイエス様の服のすそに触れたのです。するとたちまち血の源が枯れ、あのひどい痛みが治ったのでした。

私たち人間にはたとえ体は健康でも心のどうにもならない痛みに苦しみ続け「いつまでこれは続くのだろう」とうめくことがあるのではないでしょうか。この苦しみから逃れるためなら何でもするという思いで色々な方法を探して試す。でも痛みは去らない。そんな私はついにイエス様しかいらっしゃらない、という思いに至り、必死で心の手を伸ばすのです。「主よ。あなたの衣にふれます。私を自由にしてください」

 今そのような苦しみに襲われている方がおられたら、この讃美を口ずさみつつ魂の指でイエス様にふれてください。混乱したままで、失敗だらけでいいのです。イエス様はあなたを助けたいと思っておられます。

 


二通りの罪意識

2008年04月15日 | Weblog

学生のころ、私は宗教的神経症と呼べるような状態に苦しみました。自分のやるどんなことでも罪だと思えて気になり、それでいて「自分はキリストに赦されない」という思いをもってもがく毎日でした。「罪をゆるしてください」と祈るものの赦される確信は持てず、毎日が生き地獄でした。そのときの罪意識はある意味病的だったと思います。
それは「罪の全くない自分を確認したい」という欲求だったのかもしれません。
 金田福一先生の「荒野にある泉のほとり」にこうあります。
「罪意識には二通りあります。一つはゆるされた感謝を持った、やわらかな罪意識です。その人はいつでもキリストの愛とゆるしの中にいて、しかも自分の罪には鋭く気づくのです。もう一つの罪意識は、他に対していやな思いを与える固い罪意識です。その人は決して自分をゆるさないようなことを口にするのですが、それは、真の悔い改めから出た罪意識ではなくて、その人の心の底には、実は自己義認がひそんでいるのです」

 イエス様からすでに雨のように注がれている恵みと赦しをただ受け取るときに偽の罪意識から解放されるという経験をいただきました。でも今でもサタンは弱いところをついてきます。聖霊がもたらすまことの認罪と赦しを見失わないように祈っていきたいです。

 


不確かさを主が支え

2008年04月03日 | Weblog

自分の信仰はまともなのかと不安になることがあります。

標 宮子先生が書かれた「若い魂の養いに」という本を読んでみました。(バイブルベースでもこの本を使い始めています。)次のようなことが書かれていました。

マルコの福音書に病気の息子を持った父親のことが記されています。彼はその子の病気に苦労しイエスを頼って御許にやってきました。その場で子どもは倒れます。そして「できましたら、わたしどもをあわれんでお助けください!」と叫ぶのです。必死で助けて欲しいと願いつつ「もしできるならば」という不確かな信仰を表明してしまうのです。その直前に弟子たちに頼んでも癒やされなかった、その絶望感といっしょになっていたようです。イエス様は彼に真の信仰を引き起こそうと迫ります。「もしできれば、というのか。信じる者にはどんなことでもできる」父親は叫びます。「信じます。不信仰な私をお助けください。」

このあとの標先生の言葉が心にとまりました。

「信仰を持つというとき、私たちは錯覚してはいないでしょうか。信仰とは自己の信念の純粋さや確かさを意味するのではないのです。この父親も疑いを抱いたまま、自分の心の不確かなままにその心をキリストにゆだねてしまったのです。自分の祈りや信仰についての自信はありません。しかし、その不確かさを、主イエスが支えてくださるのです。」

これは私にとって励ましでした。自分の髪の毛を自分でひっぱって引き上げようとするような信仰になりがちですが、この不安定で確かでない自分まるごとを主に投げだせばいいのだ、と教えられたのです。