横浜教会ニュース

インマヌエル横浜キリスト教会の様子をお知らせします

今日こそ主の御業(みわざ)の日

2007年07月31日 | Weblog

今日は、子供の保育園で夕涼み会があり、家族ででかけ、屋台で食べ物を買ったり花火を見たりと楽しみました。夏は地域のあちこちでフェスティバルが開かれ、こういう日は、「特別な日」として
生きてる!という楽しさを実感する人も多いでしょう。

そして・・・

もしかすると神様に対しても、「何か特に良いことがおきた」とか「すばらしい集会で恵みを感じた」という日だけ、「わあ、神さま・・・」と主を想い感謝をするという傾向があるのかもしれないのです。

 私たちの過ごす日々の90%以上は、決まりきった仕事、雑事に追われ、代わり映えのないお互いの人間が顔を合わせ、事務的にこなしていかなければなりません。多くの日常は体や脳の奥の疲れをベースに感じつつ、それでも目の前のことをおろそかにできません。学生はクラスでの人間関係と勉強に頭がいっぱい、社会人は時に自分の足を引っ張るような同僚の言動に悩まされ、子育て主婦は終わりのない子供のかんしゃくをしつける・・・そんな毎日のどこに主イエスはおられるでしょうか?

詩篇118:23には
「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び踊ろう」とあります。
ふと気づいたのは、何も特別なことのなかった今日、一見いいこともなさそうだった今日・・・そう、私の過ごしてきたこの日も、主が造られた日であった、ということです。
ひとたびそういう視点を与えられると、この日に主がなされていた「御わざ」を数え始められるのです。

「ああ、健康が許されている」、とか「体調は悪いけどあの仕事をさせていただけた」とか、「この人が、この子が私のそばに与えられている」
そして何より「十字架にひとり子をかけるほど愛してくださった主の想いが“きょう”わたしに降り注がれ、私さえも赦してくださる。」と。感謝の種はつきないですね。
忘れやすい ので、お互い励まし合いましょう!!

 


単純に信じる

2007年07月24日 | Weblog

先日教会に集っておられるひとりのご婦人とお話していました。
その方はお母さんがイエス様を信じて救いを受けられるように強く願っていらっしゃいます。そしてそのお母さんが心配性であることを思ってこう話されました。

「イエス様を信じれば、そういう心配はなくなるのにねえ。
衣食住はイエス様がすべて備えてくださるんだから」

そう話されたときの彼女のうれしそうな目が、イエス様への信頼であふれていることを語っているようでした。
普段あれこれと将来のことにやきもきしている私は、彼女の単純な信仰に
驚きました。もちろんこのご家庭は、夫婦で日々勤勉に働き子どもを養い育てているのです。自分が与えられたなすべきことをし、でも生活の支えを
「自分が働いているから」ではなく、「神が与えられるから」という思いを土台としておられるのです。
クリスチャンでも、これほど単純に神様を信頼しきることは意外と難しいことが多いのではないでしょうか。

マタイ6章に
『何を食べるか、何を飲むか、何を着るかなどと言って心配するのはやめなさい。・・・あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。』
と書かれています。
これをまるごとご自分の生活に取り入れていらっしゃる、その姿を
だれよりも天の父が喜んでおられることでしょう・・・・・・・ね。

 


力の限り子どもの心を見守る

2007年07月04日 | 家庭・こども

「イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとにつれてきた」
 ・・イエスは、こう言われた
「子ども達をわたしのところに来させなさい」
 
                   (ルカ18:15ー16)

 三歳の息子が、教会学校で幼児クラスにいますが、毎週部屋に入ると、「早く、イエス様のおはなしききたい!!!」とさわぎます。
 イエス様の十字架の絵をさわりながら、傷のところに「ばんそうこうをはらないと」と言ったり、男の子が悪いことをしてしまった絵を見ながら、「これは“つみ”だよね」などと覚えたての
聖書的言葉を使ってみたりと大はりきりです。
 「ぼく、イエス様だいすき!」という日もあれば、反抗期まっただなか、「イエス様きらい!」という日もあります。でも、自分のかわりにイエス様は罪を背負われた、ことはわかるようで、
ひょうきんな彼も、まじめな顔で共に祈ります。
 幼児は本当に純粋に教えられたことを吸い込んでいくと実感しています。だから人生の最初にどんな価値観を知るか、ということは見過ごしてはならないことなのでしょう。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく」(箴言4章23節)
  と聖書にあります。
 自分の心を見守るということですが、親にとっては、
 子どもの大事な心も見守る使命が与えられているのではないでしょうか?
 だからこそ「この子が、正しい神様のお心を知るように、そして救いに導かれるように」と教え、「神さまからも人からも愛されて安定した精神をもち将来自立できるように」と配慮し、だれかからいじめられているとわかればなりふりかまわず守ろうとする、そんな日々を送るのが子育てかもしれません。
 でも、力の限り見守っても、時には思ったようにいわゆる
“良い子”ではない道に入っていくこともあるかもしれない。とふと不安はよぎります・・・・・

 そうなったとき、もし“しっかりした親なら絶対にいい子が育つ”と思い込んでいたら、私達は打ちのめされてしまうかもしれません。
自分がだめだからこの子はダメになった”と。それはある意味
傲慢かもしれません。なぜならもし子どもがいい子に育った時、その人は、「自分がよかったからこの子は良くなった」と思い
子育てを自慢するでしょうから。
 そこには上のみ言葉のような“イエスのもとに子どもを連れて行く”という謙虚さが抜けています。
 むしろ教父アウグスチヌスが若い頃に道を踏み外した時代に、
彼が回心するようひたすら祈り続けていた母モニカの姿の中に、
我が子の心を見守る”ことの本質があるように思います。
私達の子どもたちの命を握ってくださるのは、主であることを
受け止め、
    うまく育っているように見えるときも
     全く道からそれて心痛めるときも
子どものために真剣に祈り “イエス様のところに祝福をもとめて連れていく”ことを忘れないようになりたいと思います。