小林麻央さんが退院を決意されたというニュースが流れ、多くの方が喜ばれたことでしょう。
彼女のブログから
病気が治る治らない、を超えた
人としての在り方について教えられます
*****************
病気を公表した頃のブログから
引用します。
*****************
何かの罰で病気になったわけでもないのに、
私は自分自身を責め、それまでと同じように
生活できないことに、「失格」の烙印を押し、
苦しみの陰に隠れ続けていたのです。
それまで私は、全て自分が手をかけないと
気が済まなくて、
全て全てやるのが母親だと
強くこだわっていました。
それが私の理想の母親像でした。
けれど、
病気になって、
全て全てどころか、
全くできなくなり、
終いには、入院生活で、
子供たちと完全に離れてしまいました。
自分の心身を苦しめたまでの
こだわりは
失ってみると、
それほどの犠牲をはたく意味のある
こだわり(理想)ではなかったことに
気づきました。
そして家族は、私が彼らのために料理を作れなくても、幼稚園の送り迎えができなくても、
私を妻として、母として、以前と同じく、
認め、信じ、愛してくれていました。
私は、そんな家族のために、
誇らしい妻、強い母でありたいと思いました。
私は、闘病をBlogで公表し、
自ら、日向に出る決心をしました。
すると、たくさんの方が共感し、
私のために祈ってくれました。
全文は以下↓
聖書にはパウロという牧師が
死が間近に迫ってきたことがあったことが書かれています。
「ほんとうに、自分の中で死を覚悟しました。これは、もはや
自分自身を頼まず、死者をよみがえらせて下さる神により頼む者となるためでした。(第2コリント1:9)」
神様を強く信じている人でも、やっぱり自分がなんとかできる、自分がしなきゃ、強い私でいないと価値はない!
などと握りしめているのでしょう。
その価値観を揺さぶるのが「苦しみ」のようです。
「神はどのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」
(第2コリント1:4)
苦しみの中で、神様、また周りの方々の愛に気づいた人には
大きな励ましをいただけますね。
彼女のブログから
病気が治る治らない、を超えた
人としての在り方について教えられます
*****************
病気を公表した頃のブログから
引用します。
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何かの罰で病気になったわけでもないのに、
私は自分自身を責め、それまでと同じように
生活できないことに、「失格」の烙印を押し、
苦しみの陰に隠れ続けていたのです。
それまで私は、全て自分が手をかけないと
気が済まなくて、
全て全てやるのが母親だと
強くこだわっていました。
それが私の理想の母親像でした。
けれど、
病気になって、
全て全てどころか、
全くできなくなり、
終いには、入院生活で、
子供たちと完全に離れてしまいました。
自分の心身を苦しめたまでの
こだわりは
失ってみると、
それほどの犠牲をはたく意味のある
こだわり(理想)ではなかったことに
気づきました。
そして家族は、私が彼らのために料理を作れなくても、幼稚園の送り迎えができなくても、
私を妻として、母として、以前と同じく、
認め、信じ、愛してくれていました。
私は、そんな家族のために、
誇らしい妻、強い母でありたいと思いました。
私は、闘病をBlogで公表し、
自ら、日向に出る決心をしました。
すると、たくさんの方が共感し、
私のために祈ってくれました。
全文は以下↓
http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-38073955#share-tools
聖書にはパウロという牧師が
死が間近に迫ってきたことがあったことが書かれています。
「ほんとうに、自分の中で死を覚悟しました。これは、もはや
自分自身を頼まず、死者をよみがえらせて下さる神により頼む者となるためでした。(第2コリント1:9)」
神様を強く信じている人でも、やっぱり自分がなんとかできる、自分がしなきゃ、強い私でいないと価値はない!
などと握りしめているのでしょう。
その価値観を揺さぶるのが「苦しみ」のようです。
「神はどのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」
(第2コリント1:4)
苦しみの中で、神様、また周りの方々の愛に気づいた人には
大きな励ましをいただけますね。