アフタヌーン・ミニコンサートが祝福のうちに終わりました。
用意していたプログラムがすぐになくなり、あわてて係りの方が増刷する、というほど
来会してくださいました。
次の日も、あのすてきなメロディーが頭に響いて、歩いているときも自然にその音楽が口をついて出てきて、幸せ感にひたっています。
ふと今日、教会の外に出ると、鳥がそれはそれはうれしそうに、歌姫のように
ティトタ、 ティトタ、 ティトタ、 ピピピピピピピ・・・・・・・と歌っています。
人間も鳥も、与えられた命の喜びを歌にする、そんな幸せをもらっているようです。
今回、久保木さんが歌ってくださったコンサートのプログラムは、
宗教曲、オペラ、日本歌曲、プレイズソング・・・と、様々なジャンルに及び、
色とりどり、でした。
聖書の朗読や、体験談をたくさん入れてくださいました。
その中で、久保木さんが悩みを持って始めて教会を訪れたときのエピソードがありました。礼拝では、♪「ほめよーほめよー神の愛を」と歌われていて、彼女は悩みがあるので「なにをほめるんだ!」という気持ちだったのですが、
『でも、わたしの中の霊は、喜んだらしいのです。
賛美を聞いているわたしの目から涙がとめどなく流れてその後数日間泣いては歌い、の連続でした』 と、コメントされていました。
そして間もなく彼女はイエス様を救い主として受け入れたということでした。
その言葉が私の心に残りました。神様が私たちの知性に、感情にも働かれるけれど、霊に(魂に)直接働かれる・・・救いとはそういうときにおこるのでしょうか。
聖書が、人間の“霊”について語っているところをいくつか挙げてみます。
「ちりは元の大地に帰り、霊は与えぬしである神に帰る。」(伝道者の書12:7)
「霊が沈みこんでいると骨まで枯れる。」(同17:22)
「神は我らの魂に命を得させてくださる」(詩篇66:8)
「わたしの魂は満ち足りました。
乳と髄のもてなしを受けたように」(詩篇63:5)
一見、どんなにかたくなで、神さまのことを感じる、信じる、そんなこととは縁のなさそうな人でも、もし神に造られた魂が神様ご自身によって触れられるなら、イエス様の命を頂く可能性があるのですね。
毎週礼拝で神の子たちが心から歌う賛美・・・・・それを神様が受け入れられるとき、
その場に集う人の霊に主がなにかをしてくださる、そう思うとますます襟をただして
力の限り賛美をささげたい、と思います。