横浜教会ニュース

インマヌエル横浜キリスト教会の様子をお知らせします

アフタヌーン・ミニコンサートが終わりました。

2007年06月27日 | Weblog

アフタヌーン・ミニコンサートが祝福のうちに終わりました。
用意していたプログラムがすぐになくなり、あわてて係りの方が増刷する、というほど
来会してくださいました。

 次の日も、あのすてきなメロディーが頭に響いて、歩いているときも自然にその音楽が口をついて出てきて、幸せ感にひたっています。
 ふと今日、教会の外に出ると、鳥がそれはそれはうれしそうに、歌姫のように
   ティトタ、 ティトタ、 ティトタ、 ピピピピピピピ・・・・・・・と歌っています。
人間も鳥も、与えられた命の喜びを歌にする、そんな幸せをもらっているようです。

今回、久保木さんが歌ってくださったコンサートのプログラムは、
宗教曲、オペラ、日本歌曲、プレイズソング・・・と、様々なジャンルに及び、
色とりどり、でした。

 聖書の朗読や、体験談をたくさん入れてくださいました。
その中で、久保木さんが悩みを持って始めて教会を訪れたときのエピソードがありました。礼拝では、♪「ほめよーほめよー神の愛を」と歌われていて、彼女は悩みがあるので「なにをほめるんだ!」という気持ちだったのですが、
『でも、わたしの中の霊は、喜んだらしいのです。
賛美を聞いているわたしの目から涙がとめどなく流れてその後数日間泣いては歌い、の連続でした』 と、コメントされていました。
そして間もなく彼女はイエス様を救い主として受け入れたということでした。

その言葉が私の心に残りました。神様が私たちの知性に、感情にも働かれるけれど、霊に(魂に)直接働かれる・・・救いとはそういうときにおこるのでしょうか。

聖書が、人間の“霊”について語っているところをいくつか挙げてみます。

「ちりは元の大地に帰り、霊は与えぬしである神に帰る。」(伝道者の書12:7)

霊が沈みこんでいると骨まで枯れる。」(同17:22)

「神は我らの魂に命を得させてくださる」(詩篇66:8)

「わたしの魂は満ち足りました。
              乳と髄のもてなしを受けたように」(詩篇63:5)

一見、どんなにかたくなで、神さまのことを感じる、信じる、そんなこととは縁のなさそうな人でも、もし神に造られた魂が神様ご自身によって触れられるなら、イエス様の命を頂く可能性があるのですね。

毎週礼拝で神の子たちが心から歌う賛美・・・・・それを神様が受け入れられるとき、
その場に集う人の霊に主がなにかをしてくださる、そう思うとますます襟をただして
力の限り賛美をささげたい、と思います。

 

 



 

 

 


 


野の花の咲く理由

2007年06月22日 | Weblog

日々、仕事をこなしたり、勉強したり、家事、育児に追われているあなた。人の中で気を使って言葉を選び、きちんとした自分を保とう、将来の計画を万全にしようと努力しているあなた・・・・。本当におつかれさまです。その懸命な真面目さに神様がお報いくださいますように。
そして・・・もしもそんなあなたが疲れきってしまう寸前だったとしたら
その努力をされる心の目線がどこに向いているか、少し見つめてみませんか。

有名な聖書の一節にこういうキリストの言葉があります。

きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけ
がありましょうか。信仰の薄い人たち。 
  
(マタイ6章30節)
                 
 神様は、品評会に出るように立派な、有名な花を例に出さず、“野の花”を見つめて語られました。もしかして人間の目にはふれることのない、人から「すごいわね、よくがんばって咲いたね」と一度も言われることがないかもしれない・・・しかも「明日は炉に投げ込まれる」かもしれない、つまりこの世での将来が約束されていない、そういう存在が
“野の花”です。
 それを、神は最高級にかざってくださっているというのです。
一節前には「有名なソロモン王の栄光もこの野の花の美しさにはかなわない」と書かれているのです。
 神はそのように大事にしてくださる。まして“神の子ども”である、あなたがたは慈しまれ、見つめられ、大事に飾られている存在である。
というメッセージです。
 では、神さまからそのように大事にされている私達は、逆にどういう
 生き方をするのでしょうか?

相田みつをさんの詩集にこんな言葉がありました。
「水仙は人に見せようと思って咲くわけじゃないんだなあ
ただ咲くだけ ただひたすら・・・
人が見ようが見まいがそんなことおかまいなし
ただ いのちいっぱいに
自分の花を咲かすだけ
自分の花をー」

みつをさんはクリスチャンではありませんが、上の聖書と視点が似ていると思いました。
私もハットしました。社会的にイイことをしても、大事な有意義なことをしても無意識に“人に見せようと思って”咲こうとする・・・・・。
多くの人間の、そしてわたしのクセかな・・と。それが聖書でいう罪でもあると。
 心の目線が神様でなく他人に向いている。やがて自分の中味は枯れていく。でもそんな人間だってわかっているから、イエス様は上の言葉をわたしたちにかけてくださっているのでしょう。
 今日一日をまず、神さまのあったかい日差しをあびて「ありがとう」って咲きたいですね。

 


ゆるされるという福音

2007年06月05日 | Weblog

 先日、日本の閣僚が自殺、という衝撃的ニュースが全国をかけめぐりました。国民へ向けた遺書には「皆さん、どうぞゆるしてください。」と何度か書いてあったようです。その数日前の国会中継では、野党からの追及があったときに彼は余裕の笑みさえ浮かべておられるように見えていたのですが。人は外からどんなに強く見えても内側に計り知れない苦しみを抱えていることがあるのだ、と思わされました。

ゆるしてください」という言葉・・・この閣僚の赦してほしいことが何であったのかは
今はわかりません。けれど、「ゆるしてください」という叫びは多くの人間の魂の叫びではないでしょうか。

私たちの心には、例えば、「だれかに迷惑をかけてしまった、お金をごまかしてしまった、だれにも知られてはいないけれど、ひっそりと行なった不正、あるいは
心の中でだれかを憎んだり、軽蔑したりしている自分、」 etc...

正直に自らを見つめてみると、自分でも自分を受け入れられないような
醜さに気がつくかもしれません。
そんな私達の最も欲する願いは「こんな私の存在をゆるしてください
ではないでしょうか。

エマオの道で」(デニス・キンロー著)という本で十字架のイエス様が、そばで十字架につけられている強盗犯に語っている言葉が紹介されています。

よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう。』
(ルカ23:43)
 
 強盗は自分のやってきた悪事の結果を身に受けて今、裁かれ悲惨に死んでいこうとしています。こんな自分にしてしまったのは誰だ、という
世間への憎しみからか、絶望と痛みのはけ口としてか、イエスにも悪態をつきます。およそ今の彼は「赦される」ことからは正反対の所にいます。

 しかし、そばのイエスが「父よ彼らをおゆるし下さい」と祈る言葉などを聞くうちに、劇的変化が起ります。「自分も赦される可能性があるなら、赦されたい。誰かが赦しを与えてくださるといたら、この方に違いない、」と希望をもった、というのです。
 彼は遠慮があったのか「赦してください」とはいわず、「あなたが御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」とイエスに語りかけたのです。
 そこへ上記の言葉がイエスから語りかけられたのでした。
「神の愛は人がどれほど醜い罪に陥っていようと赦しを受けさせることができる。キリストの赦しの希望が消滅してしまうことはありません。」
とDr.キンローは述べています。

聖書に書かれているたくさんの祝福、その中でも最も私達が必要とし
ているのが「わたしの存在をゆるして下さり、それどころか、永遠に友としてかたわらにおいてくださる神様に赦されること」ではないかと思います。