横浜教会ニュース

インマヌエル横浜キリスト教会の様子をお知らせします

イエスはしようとすることを知っていた

2008年01月15日 | Weblog

ヨハネ6章というところを読んでいます。
 多くの人々がイエス様のお話を聞きについてきたが、おなかがペコペコになってしまったのです。でも近くにコンビニもあるわけじゃないし、食事を調達できない。「さあ、みんな帰って食事して」と言っても途中で動けなくなるかも、という状況でした。イエスさまは弟子に言われました。「どこからパンを買ってきてこの人々に食べさせようか。」
実はこれは弟子を試していたそうです。そして

「イエスは、ご自分では、

しようとしている

ことを知っておられた」

と書いてあるのです。

そうとは知らない弟子の前にある少年がパン5つとちっちゃな魚二匹を手渡しました。でもこの大勢の人の胃袋には焼け石に水。
弟子アンデレのセリフはまことにやる気のないテンションの低いものでした
「しかし、こんなに大勢の人々では、それ(パンと魚)が何になりましょう。」弟子のため息が聞こえるようです。

 あまりにも大きすぎるニーズが目の前に突きつけられ、手に負えないときに、何から手をつければよいのかと、パニックになるかやる気が失せるという経験はありませんか。その問題を解決するために誰かが提案してくれたことも「意味なし、」と却下するような無気力に支配されることもあります。

 しかしイエス様はその時点で
「ご自分でしようとしていることを知っておられた」のです。
 神様が問題を私たちの前に
「お前がやってごらん」とポーンをおかれることがあります。すると私たちは「えっ!!私がですか?」と緊張し、「無理です!!」と心で叫び、実はイエスさまが何かをしようとしておられることに目が向かないことが多いのではないでしょうか。

今心の目を信仰と期待を持ってイエスさまの手に注いでみましょう。「何をなされるのか、」と

 
するとたとえ5つのパンと2匹の魚のようにつまらなく見える小さな素材も多くの人が満たされるために使われるのを見ることができるのです。

 




新年にイエスが問うていること

2008年01月07日 | Weblog

皆さん、
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

いろいろな事情で以前ほどマメにはかけませんが、教会の係り一同協力して少しづつでも書けるようにしたいと思います。

1月2日に「新年聖会」という集会に参加しました。
そこでのメッセージで聖書は「ヨハネ11章」が開かれました。
  
 マリヤとマルタという姉妹その下にラザロという弟がいて、イエス様と親しい間柄でした。ラザロが重病で倒れたとき、イエスさまに使いを送り、いやしを願ったのですが、「この病気は死で終わるだけのものでなく、神の栄光のためのものです」
とおっしゃり、イエス様は二日間とどまられ、ラザロが死んでしまったのです。墓に入れられた後、到着されたイエス様と姉妹のやりとりが書かれています。

 説教者は「私たちの周りにいる、神に愛されているはずの人々に、時折り『なぜこんな大変なことがおきるのか、神様はなぜこんな状況をゆるされたのか』と思うようなことが起こる。と述べていました。

姉のマルタがまずイエスさまを迎えます。彼女に、「わたしはよみがえりです。命ですわたしを信じる者は、死んでも生きるのです。・・・・このことをあなたは信じますか?」と問いかけられました。マルタは、「はい、主よ。私は、あなたが世にこられる神の子キリストである、と信じております。」と答えました。

「マルタの答えは、ペーパーテストなら100点満点だったでしょう。しかし、イエスさまが聞いておられたことは、「あなたは弟が死んだというこのような絶望のただ中で、今でもわたしがよみがえりであり、命を与える神だとリアルに受け止めているのか」という迫りであった」と説教者がおっしゃっていた言葉が私の心にとまりました。神様を信じるというのはそういうことでもあるのだ、と。

私たちの日々は時にもうだめだ、という絶望や、あるいは突き抜けない灰色の無力感に襲われることもあるのではないでしょうか。その現実を無視して、イエスは「わたしを信じよ。」といっているのではないのです。イエスはマリヤや人々が泣いているのをご覧になって「涙を流された」と書かれています。わたしたちの現実の痛みを共に担いつつ、その上で「このただ中にあってわたし(イエス)が命の源であると信じか? 」
という問いを今日もわたしたちにかけられている
・・・・そのようなメッセージでした。

あなたはこの問いかけをどう受け止めますか?