横浜教会ニュース

インマヌエル横浜キリスト教会の様子をお知らせします

召天者記念礼拝でした

2007年04月25日 | Weblog

 4月22日は、召天者記念礼拝でした。

 教会関係の方で天に召された方々をしのび、主の復活への希望を新たにする時で
横浜教会では昨年より、このイースターの季節にもっています。
 召された方の思い出をご家族が書いてくださり、朗読されると、皆さんの生前のお姿が思い浮かび、会場は感動に包まれました。
 お一人ひとり、色々な生き方がありますが、地上で主イエス様に信頼し今は天で神様に抱かれて、いつかご家族と再開できる日を待っておられる・・・それが希望です。

 私の祖母も数年前に召されました。戦争で夫と息子を亡くし、お姑さんとたくさんの子どもたちを抱えて大黒柱として生きなければなりませんでした。
だれも頼る人がいない、自分がはいつくばってでも家族を養っていかなければいけない。今のように女性でも職がスムーズに持てる時ではありません。小さな雑貨屋を始めて細々と糧を得ていました。彼女が唯一頼れるのは、小さい頃から信じていた神、イエス・キリストでした。

貧しさと多忙の中、それこそ必死で聖書を読み、祈り、教会に通いました。
つらいとき心に刻まれた聖書の言葉は、「あなたがたは心を騒がせてはいけません。神を信じ、また私(イエス・キリスト)を信じなさい」でした。信仰だけを杖にして、
子どもたちは成長していきました。
 老後、孫である私たちがたずねていくと、祖母は満面の笑みで「かみさまは、ほんとに良い方だ。かみさまに頼りなさい。ちょうーど良くして下さるから。」と語っては、
聖書に目を落として、読み続けていました。

 天に召された方々は、信仰の遺産を残して今日も豊かに語っています。

 

 


あなたに微笑んでおられる神さま

2007年04月18日 | Weblog

みなさんは、神さまっていつもどんな表情で私たちを見ていらっしゃると思い描いていますか。私は以前、父なる神様を心にイメージするとき、恐くてしかめっつらのお顔を無意識とうちに持っていました。でも讃美奉仕の訓練中、リーダーに、「天のお父様のBig smile(ビッグスマイル)を思い浮かべなさい、」と言われ、びっくりしました。

(以下Power for living より抜粋)

多くの人は神を恐れています。神様はまるで覆面パトカーでこっそり見張って、人間が悪いことをするのを待ちぶせては懲らしめる存在だと思っているからです。こういう人は神に人生をゆだねようとしません。なぜならそうしてしまったら最後、一生がんじがらめにされてしまうに違いない、と思うからです。
これは事実とまったくかけはなれています。

キャンパス・クルセード・フォー・クライストの創始者ビル・ブライト博士はこうたとえを
語っています。「私の子どもたちがまだ幼いとして、私が旅から帰ってきたとき、迎えに出てこういったとします。『パパ、大好き!パパがいなくて寂しかったよ。実はぼくらは話をしていて、パパが望むことは何でもするって決めたよ。パパを喜ばせたいんだ。」「では息子たちのこの愛情表現で対して私はどう反応すると思いますか。『お前たちがそう言うのを待っていた。さあお前たちが生きる限り、人生からあらゆる楽しみを奪ってやる。ずっと惨めな目に合わせてやる。』というと思いますか?
(実はこれが多くの人が間違ってイメージしている父なる神の対応なのです。)

「まさかそんなことは言わないでしょう。!私は二人の息子を抱きしめてこう言うでしょう。

『パパもお前たちが大好きだよ。そしてパパを信じてくれて正解だったと思ってほしい。パパもお前たちにとってより良いパパになりたいんだ。お前たちが、充実した有意義な人生を送れるように、パパにできることはなんでもしてあげたい』」

神様はあなたを永遠に尽きない愛で愛しておられることを覚えておいてください。
神様はあなたの罪の代価を支払うためにご自分の御子をこの世に送られたほどです。神様はあなたを祝福したいのです。あなたに生きる力を与えたいのです。しかし、あなたが神様を信頼せず従わない限り、神様はあなたを祝福できないのです。
神の無限の富を知っていくにつれ、あなたは豊かな人生を体験するようになるでしょう。そのためにイエス様はこられたのです!

聖書のお言葉を送ります。
私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして御子といっしょにすべてのものを私たちに恵んでくださらないことがありましょう』
(ローマ8章32節)

 

 

 

 


ふと生きるのが大変なとき

2007年04月10日 | Weblog

毎日の仕事が大変だ、自分には重過ぎると感じることはありませんか?
仕事の失敗で怒られ満員電車に揺られて疲れた体をひきずって帰るとき・・・
夜中に泣き続ける幼いわが子を何時間も抱いて眠れないとき・・・
 自分だけが貧乏くじを引いている、とうらみがましくなったりしませんか。
神様を信じていてもそういうとき、「今」自分が神様に愛されているとは到底感じられない。

でもちょっと待ってください。「君は愛されるため生まれた」と歌うとき、私たちは「愛される」ということに
どんなイメージを持っているかを考えてみてください。もしかしたら、やわらかい綿で赤ん坊のようにくるまれている、そんな「愛され方」だけを「神の愛」ととらえていないでしょうか。もちろん赤ちゃんが受けるようなタイプの愛情も神様は豊かに注いでくださいます。ただ、そのイメージだけですと人生の重荷に出会ったとき私たちの信仰は行きづまるでしょう。

聖書にはこんなことが書いてあります。(ヘブル人への手紙)「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない」「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたを子として扱っておられるのです。」

やらなければいけない重い仕事、毎日の決まりきった務め(学生、社会人、家庭人として)、そんな、
ばら色とはほど遠い(つらいなあ、と思うこと)ことの中に置かれている、そのあなたのいる場所こそが
神の限りない愛の注がれている現場だといえるのです。

そしてその訓練のただ中で私たちが主の愛に気づいていくとき、「愛されている子」として成長していくことが聖書で約束されているのです。

 

 

  

 

 


受難週です。

2007年04月04日 | Weblog

 イースター前の一週間を受難週といいます。キリスト教では、重要な暦のうちの一つです。その週の(今週の)金曜日、イエス・キリストは十字架につけられました。
十字架上でイエスが残された7つの言葉のうち4番目の言葉に注目したいと思います。

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコ14:34)

 十字架上でイエスは、父なる神にそっぽを向かれます。祝福が去って行ったのです。
祝福の基本となる概念は、神のみ顔がいつも向けられているということです。そう、この箇所で確実にイエスは、祝福を奪われ、神からそっぽを向かれ、見捨てられた存在としてご自分を表しておられるのです。 イエスの生涯を振り返ってみてください。ヨルダン川で洗礼を受けた時、「これは私の愛する子。私はこれを喜ぶ。」と父なる神より言われ、公生涯に踏み出します。人々の病を癒し、盲人を見えるようにし、オシを話せるようにしました。まさしくその姿は、神とともに歩む人。神の御心をなす神のお気に入りでした。愛なる神の存在をここまで如実に表した人間はいないのです。「私を見たものは父を見たのです。」とまで、最後の晩餐で言っています。それほどまでに神の祝福を受け、臨在の中に過ごしていた主が、「どうしてお見捨てになったのですか?」と、神に疑問をぶちまけています。 いや、私たちの罪を負うことそのこと自体が神の祝福を奪う原因、神に見捨てられる原因となったのです。

 私事ですが、神の召しにより、仕事をしていたことがあります。しかしその仕事も
病がひどくなってしまい、辞めざるを得なくなりました。「神の御心を行なっていながら、なぜ?」と、私は叫び声を上げました。しかし、イエスは、そんな私の苦しみを味わうために十字架上で苦しまれたのです。

 皆さんも神様に「どうして?」と、叫びたくなることがあるかと思います。
その時、このみ言葉を思い出してほしいのです。神の子であるイエス・キリストが、
神との交わりから遮断され、見捨てられた事実を思い出してほしいのです。

どんな試練が襲ってこようとも、神に見捨てられたと思っても、命をとってくださいと祈るとき、インマヌエル(主、我とともいる)の主に、見捨てられたと思ったときにこそ、このみ言葉を思い起こして欲しいのです。その時あなたは確信するでしょう。
 
主のみ手は決して私を離れないと。「永遠の腕が下に」(申命記33:27)、このみ言葉を深みを味わうことができるのです。

 最後に、永遠の腕には今、十字架の釘跡が残っていることを覚えたいのです。
それは、あなたを愛している確かな証拠です。両方の腕をもって、あなたの存在の下に、どんな暗闇の中でも、落ち込んでいても、マリアナ海溝より深く落ち込んだとしてもその下にイエス・キリストは存在してくださるのです。

 この受難週、イエス・キリストの十字架のみ業を深く、深く心に刻み付けたいものです。