横浜教会ニュース

インマヌエル横浜キリスト教会の様子をお知らせします

忘れてしまおう

2008年03月25日 | Weblog

『薔薇のない花屋』というドラマが昨日最終回になりました。

 主人公のエイジは娘のしずくを男手ひとつで育てながら花屋を営んでいました。しずくの母親は出産時に死んでしまったのです。エイジは幼い頃虐待を受けて育ちました。自分の中に傷をかかえつつも周りの人を信じ、優しさを絶やさない人物でした。
 
 花屋の前にある日目の不自由な女性ミオが現われます。エイジとミオはしだいに仲良くなります。ところがミオは目が不自由であるというのは芝居なのです。実はエイジのことを憎んでいる、しずくの母親の父安西が影でミオを送っていたのです。ミオは弱みを安西ににぎられていたため断れずしぶしぶやっていたのですが、「エイジの心を奪い、経済的にも破滅させ、すべてを失わせるのだ」という命令を受けていました。

 そんなミオは演技しつつも、エイジが周りの人を包み込むような愛を注ぐ姿に本気で惹かれていき、激しい罪悪感により苦しんでいくのでした。エイジも彼女を愛するようになります。
 しかし結局エイジは安西の策略によりミオのため財産を失い花屋は閉店、愛娘のしずくまで安西の元に取られることになりました。ここにいたり、真実がわかります。エイジはしずくの本当の父親ではなく、しずくの母親のを励ましてきた友人だったのです。また、エイジの方も、ミオが演技をしてだましていたことに気がつきます。それでもミオの愛情を信じてひとことも責めません。

 ミオは自分の罪に耐えられずエイジの元を去ります。そして一年過ぎたとき、エイジは彼女が薔薇園を営んでいることを知り訪ねます。ミオはエイジにいいました。「私はあなたにひどいことをした・・・」エイジは自分がミオを愛していることを告げ、薔薇を持っていいます。「バラの花言葉をしっていますか?あまり知られていないのですが・・・『忘れてしまおう』 」

 私はこの言葉でイエス様の赦しを思いました。
主に愛されたいとおもいつつ、過去の罪、主に対して、人に対しての罪悪感から主の前に顔を出せないという気持ちになることがありませんか。

主イエスの十字架で赦されることが実感として湧かないのです。

 ホセア書14章4節に「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。」 という神様の言葉があります。わたしたちは自分の罪による傷があり繰り返し思い出しては苦しみます。イエス様が十字架にかかって罪を赦すということは、もうその罪を「忘れてしまったよ」
言って私たちの存在を包みこみいやしてくださったという意味なのですね。


イエスのために追放されたが

2008年03月18日 | Weblog

 ヨハネの福音書9章に「生まれつき盲目の」男性(Aさんと呼びましょう)がイエス様にいやされた記事があります。Aさんはそれまでこじきをしていたのですが、この奇跡により、生まれて初めて目の見える人々の仲間入りをはたし、一般社会に入れるようになったのです。どんなに未来が輝いていたでしょうか。ただ、まだイエス様のことははっきりとは知りませんでした。
 ところがそれが、なにも仕事をしてはいけないとされていた安息日だったこともあり、おどろいたユダヤ人たちの間で騒ぎが起きました。イエス様を憎んでいた人たちはAさんに「どうやって目を治してもらったか」をしつこく聞きます。でもどんなに話しても元々盲目だったことがうそではないかと疑ってイエスの力を認めません。
 
 奇跡によりたくさんの人がイエスを救い主と信じるようになり、あせったパリサイ派は両親も呼び出して真相をたずねます。このとき、すでにイエスを信じる者を会堂から追放すると決められていました。それを恐れた両親は「あれ(息子)に聞いてください」と突き放した言い方をします。会堂から追放されるというのは、ユダヤ人の地域社会から村八分にされるという意味だったからです。
 
 
そこでもう一度パリサイ派が本人を呼び出しこう言います。「私たちはあの人(イエス)が罪人であることを知っているのだ」
Aさんも追放のことは知っていたはずですが、はっきりとこういいます。
 「あの方が罪人かどうか私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。・・・もしあの方が神から出ておられるのでなかったら何もできないはずです。」Aさんの心にはすでにイエス様への信仰が芽生えていたのです。そしてすかさず彼は追放されました。

せっかく一般社会に入れてもらえたばかりなのに、イエスへの信仰を告白したために村八分という状況に陥ってしまったのです。わたしたちが今住んでいる地域や会社、学校などから追放され相手にしてもらえなくなったらどうでしょう。それがわかっていてイエス様をはっきりと告白できるでしょうか。Aさんはイエスに会ったばかりでしかも目があいたときにはイエスさまのお顔を見ていないのでよく知りませんでした。でも自分にふれてくださったイエスの手、ぬくもりそして目を開けてくださったそのわざを知っていました。
 赤ちゃんのような信仰でしたが、追放の恐怖にもまさるまっすぐな信頼が彼を動かしていたのでしょう。

今の彼には、守ってくれる社会、両親はありません。「イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。『あなたは人の子を信じますか』彼は言った。『主よ。私は信じます。』そして彼はイエスを拝した」のです。すでに芽生えた彼の信仰は、イエスを礼拝することによって花開いたのでした。

イエスさまを選ぶために孤独にされた人をイエス様は必ず見つけ出してくださり、一番の友となってくださいます。イエス様もAさんが追放されてまでご自分を選んだことでどんなにうれしかったでしょうか。私たちも自分とイエス様の関係を見つめ直したいですね。



 

 


二つの心

2008年03月11日 | Weblog

先日三歳の息子とこんな会話がありました。
「ぼくね、(アンパンマンに出てくる)ロールパンナみたいに二つの心があるんだ。」「そーなの?」「うん、いい心と、悪い心。」(と言って胸の左右を指す)「ふーん、どんなときに悪い心が出るの?」「あのね、けんかするとき・・・・でもね、イエス様が悪魔とたたかってくれるときはいい心になるんだよ」「そうかあ、じゃあ悪い心が出てきたら、イエス様にごめんなさい、ってお祈りしようね。」
最近怒るとよく姉をけっとばしたりひっかいたりしています。かと思うととてもやさしい声をかけて仲良くすることもあります。こどもの喧嘩ってもちろんコミュニケーションの練習みたいな面もありますが、その中で、三歳なりに自分の心が二通りあることを実感しているのでしょうか。そろそろ人間の罪と神様の声との葛藤が自分のこととしてわかる時期なのかと思いました。

ローマ人への手紙3章23~24節にはこうあります。
「すべての人は罪をおかしたので神からの栄誉を受けることができず
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに価なしに義と認められるのです。」

人には罪があること、そしてイエス様が罪から救ってくださることを息子は教会学校や家庭で少しずつ教わっていますが、どんな小さな子でもその不思議な恵みを受け止める可能性があるのだ、と改めて教えられました。教会学校の先生の働きって重大ですね。

 


思いがけない時に来る

2008年03月08日 | Weblog

3年ぶりにディズニーランドへ遊びに行きました。
混雑予想ではすいている日のはずでしたが、とんでもなく混んでいて2時間待ちのアトラクションもあり、幼児連れとしてはぐったり、という感じもありましたが、それでも待ち時間の少ないところを選んで子どもたちも楽しんでいました。夕方になり、雨が降ってきて濡れつつも並んでいたとき、

ドッカーン!!バリッバリッ!!

「キャーッ!!ウオ~!!」

一瞬爆弾が落ちたかのように感じました。

そう、それはあまりにも突然の雷でした。

その瞬間まで「ゴロゴロ」という音も「ピカッ」という光もなく誰も警戒していなかったのでショックも大きかったのです。

アトラクションはシステムエラーをおこし、私たちは解散させられました。

そのことから「終わりの日」のことを思い起こしました。聖書にはこう書いてあります。

「人の子(キリスト)は思いがけない時に来るのです」
キリストが地上に帰ってこられる日のことを描写して次のよう

に書かれています。
「このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押しいられはしなかったでしょう。」(ルカ12章)
キリストが来ることをどろぼうに例えるなんてちょっと意外ですが、あえて「思いがけない」ことを強調するためにそう例えているのでしょうね。

 クリスチャンでもキリストが迎えに来られる日を意識しないで過ごしてしまうことがあります。それで信仰が緩んでしまう危険があるのです。「だってあまりにも思いがけなかったんだもん」なんて言い訳はできないのですね。


ルカ21章にはこうあります

「あなたがたは人の子の前に立つことができるよう

に、いつも油断せずに祈っていなさい」

緊張感がゆるんでいた私は今回上の御言葉を教えられたのでした。