『薔薇のない花屋』というドラマが昨日最終回になりました。
主人公のエイジは娘のしずくを男手ひとつで育てながら花屋を営んでいました。しずくの母親は出産時に死んでしまったのです。エイジは幼い頃虐待を受けて育ちました。自分の中に傷をかかえつつも周りの人を信じ、優しさを絶やさない人物でした。
花屋の前にある日目の不自由な女性ミオが現われます。エイジとミオはしだいに仲良くなります。ところがミオは目が不自由であるというのは芝居なのです。実はエイジのことを憎んでいる、しずくの母親の父安西が影でミオを送っていたのです。ミオは弱みを安西ににぎられていたため断れずしぶしぶやっていたのですが、「エイジの心を奪い、経済的にも破滅させ、すべてを失わせるのだ」という命令を受けていました。
そんなミオは演技しつつも、エイジが周りの人を包み込むような愛を注ぐ姿に本気で惹かれていき、激しい罪悪感により苦しんでいくのでした。エイジも彼女を愛するようになります。
しかし結局エイジは安西の策略によりミオのため財産を失い花屋は閉店、愛娘のしずくまで安西の元に取られることになりました。ここにいたり、真実がわかります。エイジはしずくの本当の父親ではなく、しずくの母親のを励ましてきた友人だったのです。また、エイジの方も、ミオが演技をしてだましていたことに気がつきます。それでもミオの愛情を信じてひとことも責めません。
ミオは自分の罪に耐えられずエイジの元を去ります。そして一年過ぎたとき、エイジは彼女が薔薇園を営んでいることを知り訪ねます。ミオはエイジにいいました。「私はあなたにひどいことをした・・・」エイジは自分がミオを愛していることを告げ、薔薇を持っていいます。「バラの花言葉をしっていますか?あまり知られていないのですが・・・『忘れてしまおう』 」
私はこの言葉でイエス様の赦しを思いました。
主に愛されたいとおもいつつ、過去の罪、主に対して、人に対しての罪悪感から主の前に顔を出せないという気持ちになることがありませんか。
主イエスの十字架で赦されることが実感として湧かないのです。
ホセア書14章4節に「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する。」 という神様の言葉があります。わたしたちは自分の罪による傷があり繰り返し思い出しては苦しみます。イエス様が十字架にかかって罪を赦すということは、もうその罪を「忘れてしまったよ」と
言って私たちの存在を包みこみいやしてくださったという意味なのですね。