横浜教会ニュース

インマヌエル横浜キリスト教会の様子をお知らせします

足りない、と思うとき

2007年03月27日 | Weblog

 私たちは仕事の中や家庭の中、子育て中に「自分にこれがあったら幸せなんだけど、」「自分の能力はあの人のようでないからうまくいかない」とよく考えるかもしれません。
そんな自分の「足りない感」でまわりにいる人も見ますので、仕事の仲間の力不足、家族の欠点(に見えるところ)が気になってしかたありません。「あの人ができていないのでこの計画は失敗するだろう。」「この子の性格では将来うまくやっていけるだろうか?」

多くの人は「お金がない、力がない、運がない」と不足を見つける天才かもしれないですね。

こういう人間の心を知っておられる神様は聖書に書いておられます。
「私たちにすべてのを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みをおくように」
                         (テモテⅠ6章17節)


わたしたちに本当に必要なものは求めるとき神様めんどうを見てくださるようです。
でも人の心はそのいただく「物」に気持ちを集中させ恋焦がれやすいのです。今、その「物」があるのかないのか、量は人と比べて多いか少ないか・・・

聖書は望みをおくのは「神に」とすすめています。
人間に一番足りないもの、それは自分という存在を造り、愛してやまない「神」への
慕う心ではないでしょうか。

自分は今、神様に心を向けたいけれど、どうしても向けられない。
そういう時、以前歌った英語の賛美歌が心に思い出されました。

How I need you Lord, How I need you Lord,
    
How I need you Lord, How I need you Lord
(主よ、ああなんと私にはあなたが必要なことでしょう)

この短い言葉を神様の前にひざまずいて何度も歌い、主によびかけてみませんか。


 

 


 

 


親に愛されない子は?

2007年03月20日 | 家庭・こども

先日、ドラマ「華麗なる一族」の最終回が放送されました。木村拓也演じる主人公の
「鉄平」が雪山で猟銃自殺するという衝撃的な結末でした。(彼の夢は死後に実現するのですが)

 鉄平は、経済界で大きな力を持つ万俵財閥グループの長男として生まれました。
家では家長の父、大介が子供たちの結婚も決定し、家の中に秘書という名の愛人を住まわせるという環境でした。鉄平は優秀で人望のある青年に育ちますが、小さい時から父に冷たくされうとんじられてきて、今は亡き祖父敬介にはかわいがられて育ったようです。鉄平は家族の中で父の生き方に真っ向からぶつかり意見する唯一の人間でした。鉄平が専務を務める鉄鋼会社は巨大なプロジェクトに着手しますが、阪神銀行の頭取である父大介は協力するふりをして徹底的に裏工作をして、そのプロジェクトをつぶそうとします。一方鉄平は度重なる試練にもめげず、仲間と共に奮闘し、父に対して対決姿勢を持ってのぞみます。が、ついに会社が破産したとき、この家に隠されていた秘密が明らかになり、鉄平は父の子ではなく、当時家長であった祖父敬介と母の間にできた息子だったと知るのです。
 会社を追われ、父から『「お前が生まれなければ、」と何度も思った』と告げられた彼は雪山で死を選びそして死後、実は父の実の子だったとわかるのです。

 この話を外からみると、なぜ彼は死ななければならないのだろう、と思います。 
彼には、優しい妻子がいる。若さと才能もあり、まだまだやり直せるはずなのに・・と

鉄平は遺書の中でこう書いています。「父さんに、たった一度でいいから微笑みかけてほしかった。自分はその笑顔を見るために、勉強も仕事もがんばってきた。」と
 子供というのは、ここまで親の優しいまなざしを求めてやまないのか、と思います。

 多くの親は不完全で弱さがありながらも、わが子をいつくしみ、愛情を注ぎます。
一方、悲しい現実として、この世には子どもを愛せない親も存在するのです。
そしてほぼ間違いなくその親自身、幼い頃から自分の親に愛される経験がなかったと言われています。ドラマの中でも、父大介は鉄平に言います。「お前も苦しかっただろう。だが私だって苦しかった。」そして大介は、憎んでいるはずの祖父敬介の肖像画を家に飾ったままにし、はずそうとするのですが、手をひいて、やめてしまうのです。まさに世代を超えて、「愛してくれない親」の肖像を心の王座に置いた状態なのでしょう。

 もし、どんなに切望しても決して自分を愛することのない親のもと、いびつな家庭に育ってしまったとき人はどうしたらいいのでしょう。
 実は聖書の中にも、人さまには言えない、というようないびつな家庭はいくつもでてきます。人間のありのままの姿を聖書は書いていて、その一人一人が、聖書の神と
出会っていく様子が伝えられています。

イザヤ書49章にはこうあります。(意訳) 「親が自分の子どもを忘れるだろうか?
自分の胎の子をあわれまないだろうか?・・・たとえ親たちが忘れても、このわたしは
あなたを忘れない。」また、「主は、生まれる前から私を召し、母の胎内にいるときから私の名を呼ばれた。」

深い傷の痛みは簡単には癒えないでしょう。ただ、心の王座に古い肖像画をかけたまま人生をのっとられてきたあなたが、親さえも超えた方の存在に目をとめていくときに、ひとすじの光があなたを照らしていくのではと思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


清水の舞台

2007年03月13日 | Weblog

横浜キリスト教会のメンバーの体験談より

『先日京都に旅行へ行き、あこがれの清水の舞台を訪れようとしました。たくさん歩いて探したのですがなかなか見つかりません。あのテレビで見た迫力ある映像は?とさがし求めていました。とうとう近くにいらした壮年の男性に聞きました。「あのう・・・清水の舞台はどこでしょう?」

するとその方は「ガハハハ!!」と大笑いし、「ここだよ、あなたの乗っているところだよ!」と教えてくださったのです。無知な私は非常に恥ずかしい思いをしました。

あとでそのことを思い出しているときに、聖書の詩篇という書の言葉がうかんできました。
「あなたのみ言葉はわたしの足のともし火、わたしの道の光です。」

「あー私は、大人になって何でも自分で選べて人生をわかっている気になっている。でも、本当は神様の前では、神の言葉なしには自分のいる場所さえ正しく知ることができない者だ」
と謙虚にさせられる思いでした。』

ということです。そうですね。私たちは、自分が自分の運命をにぎりしめ、神さまなど関係ないかのように満足させるものを捜し求め、心配し、心身をすり減らします。私たちのおかれている社会も「勝ち組」になることを求めて私たちを追い込みます。けれど、前述の人がすでに清水の大きな舞台にのっていることを知ったように、ある日、ふとしたときに、私たちの命はすでに宇宙よりも大きな神様の愛の上にのっかっていたと気がつくのでしょう。聖書を見るときに、神の究極の愛は御子イエス・キリストを人間に遣わしたことによって表されたと語られています。

教会では、キリストの受難(十字架の苦しみ)を思う季節を迎えています。
よろしければお近くの教会にもお出かけください。


一回ごとの礼拝がスペシャル

2007年03月06日 | Weblog

 わたし達の教会員のご高齢の女性が、昨年末に天に召されていたことが
先週わかり、大変おどろきました。昨年は教会には時々いらっしゃるペースで、お手紙や牧師の訪問による交流でした。教会にお年賀状も頂いていて、お元気だとばかり思っていたのです。一月に牧師が訪問した時も会えなかったのですが、隣の方は、「お元気ですよ」と答えておられたのです。
 でも実は年末にすでに急逝され,ご葬儀も終わっていたのです。
生前は、明るく子供のような笑顔で、「イエス様に天国へ連れて行っていただきたい。」と言っておられた方で、その言葉通り、今はイエス様のふところに抱かれておられるのです。
 私たちも、地上の命はいつまでか誰も知りません。今日礼拝に出席したから、来週も必ず、というわけではないのです。
 加藤常昭先生の祈祷集の文が心にしみます。
「この礼拝において、友に会う喜びと共に、私どもがまた明確に知るのは、このように御前に集まるのは、きょうこの日限りのことだということです・・・
だれがあなたに突然召されるかもわかりません。・・やがて終わりを迎えるこの地上における命を、他のどのような手だてをもってでもなく、このように信仰の兄弟姉妹たちと共に、あなたの恵みを讃美しながら数えることが許されるこの大いなる特権を心から感謝いたします。」
 一回一回の礼拝が特別な特権としてささげていきたいと祈らされます。