27日の礼拝メッセージはマルコの福音書16章3~4節が開かれました。
~~彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。
ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。~~
イエスさまが死刑にされて絶望の中に女の弟子たちがお墓をおとずれたところです。
「この石を転がしてくれる人がだれかいるでしょうか?」
女性で力も弱く工具なんてもちろんないので、お墓の入り口をふたしている巨大石をどけることはできません。できないけどとにかく彼女らはそこまで行ったのです。
私たちが生きる上で、解決法がない、見当もつかない事態にあうことがあります。どう、個人が頑張っても太刀打ちできない、そんなことってあるのです。
あの「石」は、
希望が0の状態、また、
乗り越えられない「死」の壁であり、
同時に「わたしの大事な主と会えなくなった」苦しみの象徴にも見える気がします。
この「石」を動かせるのは、「私たち」の努力や腕力、マンパワーではないようです。
ところが…「石はすでに転がしてあった」のでした。
女たちは、解決法がなくてもその石の前に来ました。主のご遺体にお会いしたい一心で。
そしてただひとり、この「石」を動かせる方のとんでもない力を見ることができたのです。
復活されたイエスさまのお力により置かれている環境で「石」が動く、そのことを私たちも見たいとねがいます。
~~彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。
ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。~~
イエスさまが死刑にされて絶望の中に女の弟子たちがお墓をおとずれたところです。
「この石を転がしてくれる人がだれかいるでしょうか?」
女性で力も弱く工具なんてもちろんないので、お墓の入り口をふたしている巨大石をどけることはできません。できないけどとにかく彼女らはそこまで行ったのです。
私たちが生きる上で、解決法がない、見当もつかない事態にあうことがあります。どう、個人が頑張っても太刀打ちできない、そんなことってあるのです。
あの「石」は、
希望が0の状態、また、
乗り越えられない「死」の壁であり、
同時に「わたしの大事な主と会えなくなった」苦しみの象徴にも見える気がします。
この「石」を動かせるのは、「私たち」の努力や腕力、マンパワーではないようです。
ところが…「石はすでに転がしてあった」のでした。
女たちは、解決法がなくてもその石の前に来ました。主のご遺体にお会いしたい一心で。
そしてただひとり、この「石」を動かせる方のとんでもない力を見ることができたのです。
復活されたイエスさまのお力により置かれている環境で「石」が動く、そのことを私たちも見たいとねがいます。