京急線のガードをくぐり山手通りを西へ向かって
歩いて行くと、左手の少し奥まった場所に
「萬松山 東海寺」
臨済宗のお寺です。
1538(寛永15)年 徳川3代家光公が崇敬する沢庵禅師のために
建立されたお寺です。先述の「問答河岸碑」でご紹介した
将軍と和尚の問答に出てきたお寺ですね。
5万坪という広大な敷地を有した大寺でしたが、明治維新後は
将軍家や大名家からの支援もなくなり、現在の規模になったとか。
墓地には、徳川譜代の細川家の立派なお墓があります。
書院造の仏殿「世尊殿」
1192(元禄5)年に当時名工と謳われた幕府御用鋳物師
椎名伊予守良寛により造られたという梵鐘
今度はJR東海道線のガードをくぐってから
線路伝いに品川駅方向(北)に行った所にある
「大山墓地」
当初はこの辺りも、東海寺の寺域だったということでしょうか。
墓地の入口近くに沢庵和尚のお墓があります。竹垣に囲われ
近づくことはできませんが、大きな石が墓石のようです。
すぐ近くの石垣の中の鳥居の先には、賀茂真淵のお墓
(お墓を撮るのは、どうも抵抗あるなぁ・・)
来た道をもどって、第一京浜道路沿いにある神社へ
「品川神社」
「南の天王社」荏原神社に対し「北の天王社」と称されます。
53段の石段を上がっていきます。
平安末の1187(文治3)年に源頼朝公が海上交通安全・祈願成就を
願って、安房国洲崎明神から勧請されたのが創始とされています。
ご祭神は、 天比理乃命(あめのひりのめのみこと)
素盞嗚尊(すさのおのみこと)
宇賀之売命(うがのめ
のみこと) ほか
1600(慶長5)年には徳川家康公も関が原の戦勝祈願に参詣されたとか。
境内
にある「富士塚」
富士信仰の集団「富士講」の人達が富士山の遥拝所として
また富士山に代わるものとして造った築山です。
1969(明治2)年に講員300名によって造られた富士塚は
神仏分離政策により壊されましたが、1922(大正11)年に
再築され、現在も富士山山開きの日には白装束を纏った
講員一同が素足で上り、儀式が行われるそうです。
私も上らせて貰いました。 富士山初登頂~!
山頂からの眺め☆
さあ、もう帰らないと・・ 最後は駆け足でしたけど
ほんの少しだけ江戸の文化に触れることができたかな?
目黒川を渡ってその先へ行けなかったのは、ちょっぴり心残り・・
またの機会と致しまセウ。
それでも16,497歩でした~
(小学5年の終わりに疎開先から戻り、最初に信号を見ながら渡ったのが、この品川神社の見える第一京浜国道でした。ドキドキしました。)
今回、個人的な思い出ばかり書いてしまってごめんなさい。
学識の高さに感心しました。
こちらは、大変勉強になりました。
これから、夜猫子さんを”日本郷土歴史文学者”とお呼びしょうかしら、、。
kikyoさんのセンチメンタル・ジャーニーのきっかけに少しだけなれたかな?(笑)
電車の窓から「何だろう」と見ていたのが富士塚だと今回やっと分かりました。
東海道だけでなく、品川はほかにもいろいろ面白いものに出会えそうな所ですね。
機会があれば、また!
折角見聞きしたことも乏しい脳は直に忘れてしまう今日この頃、
ここに残しておけば、また思い出す‘よすが’にでもなるかなと思って・・
歳月を経てきたものには、その長さの分だけ与えてくれるものがある・・
近頃だんだんそんな気がしてきました。