スニーカー履いて

‘猫’も歩けば・・・今日はどんな出会いが?

旧東海道・箱根東坂①

2013-04-13 | 旧東海道


さぁ、いよいよ箱根宿が目前です。 張り切って行きましょう!

今日もよく晴れて、絶好のウォーキング日和
今回は「畑宿」までバスで、そこから「箱根東坂」を歩きます。



畑宿(はたじゅく)」

嘗ては「畑の宿」と呼ばれ、箱根越えをする旅人の休憩地でした。
現在も、木材の色彩を活かした伝統工芸「寄木細工」は有名ですよね。


バス停のすぐ先にあるお店の前から、石畳の道が始まっています☆

当初は箱根竹という細竹を敷き詰めた道でしたが、維持管理が難しく
毎年駆り出される住民の負担も大きかったので、1680(延宝8)年に
江戸幕府が約1,400万両を投じ、石畳に改修したということです。

石畳は 関東大震災(1923年)や北伊豆地震(1930年)など度重なる災害で
大半が崩壊・埋没しましたが、残されていた一部を整備し再現しています。


入口にさっそく、江戸から23番目の一里塚があります。

畑宿一里塚
1998(平成10)年に箱根町の保存整備事業の一環として再現されたもので、
直径30尺(約9m)の円形の塚です。 再現前は、右の塚のみが残っていたとか。

左の塚上にケヤキの木              右の塚上にはモミの木
          




杉林の中の石畳を歩いて行けば、心はいつしか 旅人気分♪


箱根越えは、奈良・平安時代は 箱根山を迂回して足柄峠を越える「足柄道」でしたが
鎌倉時代以降、湯本・湯坂山・鷹巣山・精進池を経て三島に至る近道「湯坂道」を併用。
江戸時代になり、前回歩いた三枚橋から須雲川に沿った谷間の道へと変化していきます。


箱根越えには「東坂」と「西坂」があり、殊に 湯本~箱根宿の「東坂」は
13もの坂があり 標高800mという東海道屈指の難所で‘天下の険’と
恐れられ、また雨の多い気候も旅人を大いに難渋させたといいます。


石畳の排水路

雨水を石畳の外へ追出すための工夫がしてあります。
上流側に小さな石、下流側に大きな石を斜めに敷き詰め
雨水が、大きな石を伝って外へと流れ出るしくみです。




一里塚を過ぎた辺りは緩やかな坂でしたが、R1(箱根新道)を越えて
再び林の中に入っていく辺りから、次第に勾配が増してきました。

西海子(さいかち)
標高:410m

急勾配が2町余(約220m)も続く 最初の難所です。
「 壁立するがごとく 岩角をよじ
て上る 一歩誤れば千仭の谷底に落つ 」と。
付近一帯にサイカチの木が茂っていたので、こ
の名がついたそうです。




坂を上りきると、R732(県道湯本元箱根線)に出ました。 この辺りは
R732とR1とが交差しながら クネクネと曲がり曲がって続いている
「箱根七曲り」と呼ばれる所で、10.1%の上り勾配。 旧道はこの七曲りを
跨いでほぼ直登の登り道。 そのキツさといったら半端じゃありません

向こうの尾根が「湯坂道」。  ひぇ~、昔の人は大変だったなぁ!


橿(かし)の木坂
標高:500m
          
『東海道名所日記』には、
「 けわしきこと 道中一番の難所なり。おとこ、かく詠みける。
橿の木のさかをこゆれば くるしくて どんぐりほどの涙こぼれる 」と。
この辺りには、きっと樫の木が多かったのでしょうね。


急階段の途中で左折し進んで行くと、ベンチのある平場。
右手のこれも急な階段の上、県道沿いに「見晴茶屋」があるそうですが、
そこまでは上らず、ベンチに腰を下ろしてひと息入れましょう☆
 


此処にあった説明板から:
「箱根の雲助」といえば、時代劇に登場して旅人の弱みにつけこむ悪役です
が、実際は問屋場にきちんと登録し、仕事を割り当てられて働く人足達で
悪さをする者はいなかったそうです。 『日本交通史論』という資料によると
簡単になれる職業ではなく、次のような条件をクリアせねばならなかったとか。
 1.力が非常に強いこと。(これは仕事の性質上、ぜひ必要でした。)
 2.荷造りが優れていること。(荷物を見ると、造り手が分かったとか。
     箱根で荷造りされた荷物は、京まで崩れなかったといいます。)
       3.歌が上手なこと。(歌が上手くないと、一流の雲助と言われなかったとか。)


さて、元気が出たところで 先を急ぐことにしましょうか。

(続)



 

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