「人」と「ヒト(*外形的には「人」と称されるもの。)」、そして「人(ヒト)以外の動物。以下、単に「動物」と呼称。」。
この三者を隔てるものは何なのか、とふと考えます。
「人」←→「動物」でいう、
学校で昔習ったような、「火を使う」・「二足で歩く」etc の学術的な退屈な線引きではありません。
個人の考えですが、
三者を区別するのに、
「美しいものを美しいと感じる事が出来ること」、
かつ、
「その美しいものを、壊したいと思わず、守りたいと思えるか否か」という一説を投じます。
「美しいもの」の定義も個々によって別れるでしょうが、
好ましく思える何があれば、それはそれで問題ないものとします。
ただ、しばしば、「美しいもの」を、独占ゆえか、見栄ゆえか、自己保身、単なる嗜好のためでしょうか、
猛烈に「壊したい」と思う者もおられるのが世の常。
人の本質が、暴力であるのは、経済・政治・生活、人類の歴史を見れば明らかですが、
それを他者を思いやる心を持つ事が出来る者と同定義立てはしたくありません。
「人」の面を被っただけのような、偶然的に人の形を授かったに過ぎない者、
あるいは、何かしらの事情により心身を喪失した者、
これらは、やはり「人」と一線を画していると思われます。
「ヒト」です。
さて、自分は
「美しいものを美しいと感じる事が出来ること」、
この段階で躓いてしまうようになってしまいました。
「人」から「ヒト」への移行。
ただ、
だいぶ、精神の靄が晴れてきて、
空を見て美しいと思える瞬間が増えてきました。空にかかる虹を見るだけで幸せな気持ちが昔のように湧くように。徐々に。
「美しい」と思える感情が戻ってくること、
それを守りたい、伝えていきたいと曇りなく思える感情が戻ること。
「ヒト」から「人」への回帰を切に願います。
また、穂高に行って、驚愕の嘆息をつけるようになりたいものです。
また、自分自身の目で、見に行きたい。
この三者を隔てるものは何なのか、とふと考えます。
「人」←→「動物」でいう、
学校で昔習ったような、「火を使う」・「二足で歩く」etc の学術的な退屈な線引きではありません。
個人の考えですが、
三者を区別するのに、
「美しいものを美しいと感じる事が出来ること」、
かつ、
「その美しいものを、壊したいと思わず、守りたいと思えるか否か」という一説を投じます。
「美しいもの」の定義も個々によって別れるでしょうが、
好ましく思える何があれば、それはそれで問題ないものとします。
ただ、しばしば、「美しいもの」を、独占ゆえか、見栄ゆえか、自己保身、単なる嗜好のためでしょうか、
猛烈に「壊したい」と思う者もおられるのが世の常。
人の本質が、暴力であるのは、経済・政治・生活、人類の歴史を見れば明らかですが、
それを他者を思いやる心を持つ事が出来る者と同定義立てはしたくありません。
「人」の面を被っただけのような、偶然的に人の形を授かったに過ぎない者、
あるいは、何かしらの事情により心身を喪失した者、
これらは、やはり「人」と一線を画していると思われます。
「ヒト」です。
さて、自分は
「美しいものを美しいと感じる事が出来ること」、
この段階で躓いてしまうようになってしまいました。
「人」から「ヒト」への移行。
ただ、
だいぶ、精神の靄が晴れてきて、
空を見て美しいと思える瞬間が増えてきました。空にかかる虹を見るだけで幸せな気持ちが昔のように湧くように。徐々に。
「美しい」と思える感情が戻ってくること、
それを守りたい、伝えていきたいと曇りなく思える感情が戻ること。
「ヒト」から「人」への回帰を切に願います。
また、穂高に行って、驚愕の嘆息をつけるようになりたいものです。
また、自分自身の目で、見に行きたい。