ピーナッツの唄

毎日の出来事や、スポーツ観戦、読書や映画等の感想を中心に、好奇心旺盛に書いています。

「天地人」の山形

2009-09-26 11:11:02 | 郷里山形の事
 先週の「天地人」に郷里山形が登場する場面があった、幼い時に聞かされた上杉勢と最上勢の戦いの一端のことであったと思う。思わず懐かしさが込み上げてきたものだ。 

 会津若松の上杉軍の討伐に向かった家康軍が、西で石田三成の挙兵を聞き急ぎ江戸に引き返す。その時に退却する家康軍を、景勝は何故追討しなかったのか、その判断がこの時代の最大の謎とされたようである。
 家康軍が退却したため、上杉軍は家康軍に呼応していた、山形の最上領に攻め入る。山形城の直ぐ近くまで攻め込んだ上杉軍は長谷堂城の堅守に手古摺ることになる。

 思い出したのはこの長谷堂の地名である。小生が育った村の隣村だったし、この集落のこんもりとした山の上に城があったようだ。たしかこの地まで攻め込んだ上杉勢だったが、そこから見えた山形城は何時も霞がかかり良く見えなかったらしい。後年山形城が霞ヶ城と呼ばれ、近年は城址は霞城公園と呼ばれるのもそこからきたと、幼い時に聞かされた事があったのである。

 先週の「天地人」は石田三成軍が関が原の戦いに敗退、そして上杉勢も急ぎ山形から撤退するところで終わっている。
 いよいよ家康の時代に大きく代わろうとしている。そして家康に反旗を翻した、上杉藩と兼続の苦闘の時代が始まるようである。

ある会場で写した子どもたちの目なざしが可愛い

         

       
  


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ナポレオン

2009-07-02 11:05:52 | 郷里山形の事
 今朝の宅急便で山形東根市に住む妹夫婦からサクランボの「ナポレオン」が届いた。やや甘酸っぱい味で大粒であり、これぞさくらんぼと言えるモノである。「佐藤錦」のあの甘いさくらんぼに慣れると、このナポレオンはかなり歩が悪い。

 妹夫婦は自家の庭先に立っているこのサクランボの木から直に収穫して、箱に無造作に放り込んでくれている。そしてこのナポレオンが送られてくるとサクランボの季節は終りを告げる。

 先日も記述したかと思うが、小生の子どもの時のサクランボは、この「ナポレオン」種が主流であった。その後の幾多の改良で、より甘く一般受けのする今の「佐藤錦」と言う品種が産まれたのである。

 そしてサクランボの季節が終り、梅雨が明けると、いよいよ暑い暑い夏がやってくる。郷里から届く「ナポレオン」が否応なしに、季節の変化を教えてくれるのである。

今朝届いた「ナポレオン」

           
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今年もさくらんぼ

2009-06-24 18:09:30 | 郷里山形の事
郷里の兄と妹から相次いで初夏の風物「さくらんぼ」が届きました。

本場東根市に居住の妹の話では、今年の受粉の季節が冷え込みが激しかったのと、例の蜜蜂が少なかった影響もあり例年の何割かの収穫減だと言う。そして粒が小さくて甘みが足りない。ここ何年にもなかった不作の年らしい。

そのなかでも、相変わらず届けてくれることに感謝して、さっそく娘達にもお裾分けをしたのでした。毎年のことながら美味しいさくらんぼを堪能させて貰いました。有り難いことでした。

美しいさくらんぼの実をご紹介。

         

 
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一年ぶりの仲間たち

2009-02-12 13:35:22 | 郷里山形の事
建国記念日の11日は、郷里山形の仲間との懇親会の日と決っている。山形市に隣接した人口5000人の小さな村で、小学校と中学校が一つづつ。従って同じ年齢の120人程の生徒が9年間も一緒に学ぶことになる。その内の40人程が関東近郷に住んでいる。その仲間達との懇親会だった。今年も19人が集まった。

会えば一挙に50数年余も前にタイムスリップすることになる。昔話に花が咲き、郷里に残っている仲間達の消息、自分や家族達の健康問題、そして趣味の話と2時間半程の懇親会はあっと終わってしまう。そしてカラオケ三昧。最後は小生のリクエストで、全員で「ふるさと」を唄って郷里山形を偲んでお開きになる。

会場は東京上野の上野動物園の隣、水月ホテル鴎外荘である。昨年の料理100選に選ばれた表彰状が飾ってあったが、懐石料理が実に美味しかった。そしてこのホテルは温泉もあり、そして文豪「森鴎外」が処女作「舞姫」を書き上げた旧宅が中庭に残っている。どうも好事家には有名なホテルらしい。宴会場も満杯だそうで、温泉を楽しみに来られる宿泊客も多いと聞きました。

そして来年も仲間たちに健康で再会出来ることを念じて帰宅したのでした。

ホテルの中庭の鴎外旧宅

         

            

          


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この異形ぶりが嬉しい

2008-11-01 11:00:21 | 郷里山形の事
郷里山形の兄夫婦と、妹夫婦から晩秋の味覚である「ラ・フランス」が届いた。さっそく2人の娘夫婦にもお裾分けをした。孫のDaikiくんも大好きな果実である。ゆっくりと熟成させると芳香を放ち、果実全体が柔らかくなる。その果肉の甘さが堪らないほど美味しい。

小生の子どもの時から洋ナシとしてあった果物だが、何時の間にか「ラ・フランス」と素敵な名前にかわっている。しかし郷里の山形では「ラ・フランス」と「洋ナシ」は別の品種として区別しているようである。永い間に品種改良により「ラ・フランス」が出来上がったものだと思う。最近は「ラ・フランス」はワインや菓子類にも盛んに使われており、さくらんぼの「佐藤錦」とともに郷里山形を代表する果実になった。

もうひとつ面白いのは写真に見る様に、この果物はかなりの変わった形をしていることである。通常の果物はなめらかで、如何にも美味しそうな色艶の物が多いのだが、「ラ・フランス」は違うのである。この異形と色で、まるで他の果物に挑戦しているようなのである。

美味しさは見かけではないぞ!!中身で勝負だ。まるで人間を叱咤激励しているかのようでもある

「ラ・フランス」の異形な姿を紹介してみた。

           

              

           


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今年のサクランボ

2008-06-25 10:54:52 | 郷里山形の事
郷里の妹夫婦が、自家の畑で栽培のサクランボを送ってくれた。今年は好天続きで、やや粒が小さく育ったが色が何時もより鮮やかに育っているという。そして兄夫婦からは近隣の街の栽培農家のサクランボをやはり送ってくれた。

初夏の風物詩のサクランボは短期間しか味わえない美味しい果物である。郷里の兄や妹に感謝しながら、娘達にもさっそくおすそ分けをしている。

サクランボを頬張っていると、懐かしい郷里の昔の風景や、友人達と木に登ってサクランボを食べながら遊んだ風景を思い出して涙ぐんでしまう。

この小さい甘い果実の実には、故郷が一杯詰まっているようだ。

           

                 
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「雪わたり」のこと

2008-03-03 17:37:40 | 郷里山形の事
昨日の散歩の際、NHKのラジオで「琵琶湖マラソン」を聞いた。そのあと青木裕子さんのサンデージョッキーを何となく聞いていたら、岩手県の方から「雪わたり」という、何か懐かしいことを聞いたと話されていた。
宮沢賢治の童話にもある話で、絵本にもなっているので多くの方はご存知だろうと思う。残念ながらジョッキーの青木さんもこの童話の読み聞かせを、子どもたちにされたこともある様だが、実際のことはよく分らないし、見たこともないそうだ。
童話はこの「雪わたり」が出来る日に、兄と妹が硬くなった雪の上を歩いていると狐に出会う。そして狐に導かれて、狐の世界を垣間見るという、非常に幻想的で、ホッとする様な話だったと記憶している。

季節は丁度、今頃の時期になるが、三寒四温の日が続くようになると、降り積もった雪の表面が強い太陽の光で融けてくる。そうして夜になり急に冷えてくると、日中に融けた雪の表面が凍るのだ。そうすると硬くなった雪の表面はぬかることもなく歩けるようになる。これが「雪わたり」だ。
   
60年程前、郷里山形の片田舎で、小学生だった小生は毎年この「雪わたり」が出来る様になる冬の何日間が大好きだった。通常は通れない、田んぼや畑の一面に雪の積もったところを、最短距離で学校に行けたのだった。大人になってみると難なく歩ける通学路だが、子ども心に大変な道のりだったのだと思う。その当時は「硬雪の日」と呼んでいた記憶もある。
しかし最近は温暖化が急速に進み、冬もあまり雪が少なくなってきている。郷里山形でもこんな体験が出来る日があるのだろうか?と考えてしまった。

この「雪わたり」と言う言葉が、久しぶりに遠い昔になってしまった、子どもの時のことを懐かしく想い出させてくれた。


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オレ、オマエの付き合い

2008-02-10 19:48:21 | 郷里山形の事
年一回集まると決めている、関東周辺に居住の郷里山形の同級会。小学校、中学校を一緒に巣立った今年中に70歳の古希を迎える仲間たちだ。
今年は15名が集まった。場所は東京ドームの隣にある○楽○飯店。毎年2月11日に集まろうと決めた世話役のET君は3年前に急逝している。しかし彼の後を続けてくれる方があり、今年は10日の今日集まる事にしたのだった。
会えば必ず戦後の貧しかった幼少時代の話になる。そしてオレ、オマエで付き合った昔の話から、健康の話や家族の動向、孫の話と続く。しかし元気に現役に引続き仕事を続けている何名かの方も結構いるのは心強い。羨ましい。

約束の2時間はアットいう間に過ぎてしまう。そして近くのティールームでコーヒー飲んで来年の再会を約して別れた。
是非共、来年も健康で顔を見せる事を誓い合ったのだった。
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豆菓子

2008-01-23 16:28:06 | 郷里山形の事
小生はおやつによく豆菓子を食べる。主に郷里山形の「㈱でん六」の豆菓子である。
あの「でん・でん・でん六豆、美味い豆」のTVCMでおなじみのあれである。
大正13年に鈴木伝六氏が創業して「でん六豆」を売り出したのが初めてだそうだ。
創業者の名前から「でん六豆」と名づけられたのは有名な話のようである。
小生が若い時に亡き父親が、これは美味いぞと荷物の中に何時も入れて送ってくれた。
「でん六豆」の他に甘納豆も好きだったが、随分長い間、食べ続けていることになる。
ピーナッツを緑色の衣でくるみ、甘くコーティングした「でん六豆」は今や全国版だ。
そして豆菓子の総合メーカーとして、今は3代目の当主が「㈱でん六」を守っている。
もう直ぐ節分だ。節分豆に赤塚不二夫氏デザインの鬼の面をオマケに付けたのでも有名だ。

「孫」が2~3歳の頃遊びに来ては「じいじのお豆ちょうだい」と良くねだられたものである。
ママが中身のピーナツが固いので豆だけ取り出してあげてと言ったことを思い出す。

現在は「でん六豆」の他に4種類の豆菓子の入った、「特選豆菓」がご贔屓だ。
ピーナッツをスパイス、イカ、黒砂糖、えび味でコーティングしてある。実に美味しい。

「マメ」を「マメマメ」しく食べて「健康(マメ)」に生きていきたいものだ。

山形居住のしらほさんが「しらほぶろぐ」の山形探訪10/30で紹介している。

           

           
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我が郷里「南山形」

2008-01-11 18:30:47 | 郷里山形の事
昨年末に山形に住む姉が一冊の本を贈ってくれた。昨年郷里で発行された「南山形 ふるさとの歴史」と題した冊子だ。

小生が小学校一年生の時だから終戦の年の昭和20年だった。当時家族は山形市の中心部に住んでいたが、郊外に日本飛行機会社(通称「日飛」と呼んでいた工場)があり、何度か米軍の戦闘機も飛んで来て爆撃の危険があるようになっていた。その為に市内からの疎開を求められた様で、当時「南村山郡金井村」といった現在の実家がある場所に家族は落着いた。
やがて昭和29年に隣接の山形市に吸収合併されて、「南山形」と称されるようになった。
旧くは「金井村誌」が発刊された経緯があったようだが、小生が暮らした当時は人口5000人余の村にすぎなかった。
そして現在は山形市のニュータウン構想の一貫で新たに住宅地が開発された事もあり、また近年には地区内に温泉も湧出たこともあり、人口8000人余の地区になっている。そこで各地の郷土史の発行に倣い、新しい住民にも郷里の事を知ってもらいたいとして振興会が中心となってこの冊子の発行にこぎ着けた様だ。この冊子を手にとって驚いたのは、この冊子の発行に尽力した振興会の会長と、この冊子の編集長は小生の昔馴染みの同級生の2人であることだった。さらに編纂に係わった人達のなかに見知った方も多数あり、それぞれが地区で活躍している事も分り嬉しかった。
そしてこの地区からはなんとBC約4000年の縄文時代前期の遺跡が発掘されていることだ。それから6000年余の間には気の遠くなるような時代が流れている。村山盆地の一角で蔵王山や月山が望めるこの地区で、過去には幾多の水害や飢饉の被害を乗り越えて逞しく生きてきた先人達の記録があり感動さえ覚えた。

ただ小生が住んだのは18歳までのたった12年の年月に過ぎない。今回この冊子を読んでいて、今さら遠くになった郷里の歴史の長さを知ることが出来たのは幸いなことである。
何時の日かこの冊子を編纂した旧い友人達と是非にも昔話に興じたいものだ。
取りあえず東京で年一回会合を開いている、関東地区に居住の同級生達にもこの冊子を披露したいと思っている。
この冊子を読んで感動した事と我が郷里を自慢したく、あえてアップした次第である。

冊子はA4版の立派なものだ。

            

この地区の中心にはJR蔵王駅がある。

      

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