3/17(月) 晴れ
一泊したので、次の日はゆっくりと街を巡った。会津若松駅前からまちなか周遊バスで七日町に向かった。
七日駅前で下車したら歩いて鶴ヶ城方面に向かうのだ。
踏切の音がしたので線路を覗いてみたら野口英世とその母と思われる人が描かれた列車が駅に入ってきた。
ここ七日町通りは以前繁華街だったそうで、古い建物が並んでいる。
そして白木屋漆器店にやってきた。ここはかなり有名な店らしい。
開店したばかりの店内で掃除をしていた店員の方が漆器の資料館があるのでゆっくり見て行ってくださいと教えてくれた。
ほとんど下調べしないで入ったのだけれど、ここは見応えのある店だ。漆器の製作行程はそれはそれは手間のかかるものであることがわかった。
そして2階の応接間に昭和34年に手塚治虫氏がここを訪れた時の写真が飾られていた。部屋はその当時のままだ。
何か買おうかとも思ったが、今の暮らしに漆器が入る余裕はないように思えたので、ありがとうございましたと言って店を出た。
七日町通り(国道252号)から県道59号経由で鶴ヶ城方面に向かう。
竹問屋と書かれている。子供の頃、竹馬を作るために父親と山へ竹を取りに行ったことを思い出した。
そしてNHK大河ドラマ「八重の桜」に登場した人物が生まれ育った場所を巡った。
このために今回お世話になったのはこのサイトだ。八重と会津博
まずは秋月悌次郎、そして山本覚馬と八重、八重の幼なじみの高木時尾に日向ユキ、そして梶原平馬の住んでいた場所を巡った。
どこも今は普通の住宅街である。戊辰戦争後、更地にされてそこに今の道路や家が作られたからだ。
当時のまま残っているのは日新館の天文台跡だ。登ってみたら磐梯山と鶴ヶ城の天守閣が見えた。
もしかしたらここを八重が登ったかもしれない。日新館は男子のみだからそれはないか。
鶴ヶ城近くで大熊町のバスを見かけた。大熊町の出張所があるのだ。そして仮設住宅も。
その後、北出丸の西郷頼母邸跡に寄った。頼母の一族21人が自決した場所だ。
家族の辞世の句を読んでいたら涙が出てきた。
鶴ヶ城には寄らず、再びまちなか周遊バスに乗って大龍寺を目指した。
ここには八重が晩年に集めた山本家の墓があるのだ。墓標は八重の字だと言われている。
境内に入ってからこのお墓の行き帰りで地元の方とすれ違う時みんながこんにちはと行ってくれた。
おいおい、またまた会津が好きになってしまうではないか。
ふたたびバスに乗り、飯盛山に向かった。会津は何度か訪れているが、飯盛山は初めてなのだ。
参道にはまだ積もった雪が残されていた。白虎隊がこの水路の穴に潜ったそうだ。
さざえ堂での前では入場券売り場のおばちゃんがテープレコーダーのように呼び込みをしていた。
せっかくだから一度入っておこう。なるほど、螺旋の通路が続いている。中は一度入ればもう十分だ。
そして白虎隊士の墓と自決の場を巡った。立ち並ぶ墓石を前にして目頭が熱くなった。
彼らはなんのために死ななければならなかったのだろう。当時の価値観では当たり前のことだったのかもしれないが。
自決の場で団体のおばちゃんがはしゃいでいた。平和とは時間が経つことなのだろうか。
歩き疲れてしまったので家に帰ることのしよう。周遊バスに乗って会津若松駅に向かった。
お昼ご飯は蕎麦のセット、にしんのおかずに揚げ饅頭が付いている。
電車の発車時刻までまだ時間があったのでもう一度街を歩いた。前日見つけた五郎兵衛飴本舗に寄って水飴をお土産にしよう。
おおお、マイコンショップにDOS Vショップ、時は止まっているのであろうか。
会津の街では綾瀬はるかのポスターがたくさんの店先に張られていた。
色褪せてきたポスターもいくつかあったが、10年後ポスターは貼られているのか確かめに来よう。
そっと建っていた五郎兵衛飴本舗の店舗、じいちゃん、ばあちゃんが店番だ。
驚くなかれ!創業800年!八幡太郎義家の家来が創業したとのこと。
武蔵坊弁慶直筆の源義経の借証文が残り、白虎隊もその飴を食したと言う。
飴の材料は餅米と麦芽のみ、そして近代に寒天が加わった。箱の包装は思い切り弁慶だった。
これと飴もなかを買った。こちらは寒天なしの飴が使われている。
どちらも素朴だが、落ち着いた甘さだ。いくつでも食べられてしまう。
帰りはあいづライナーで郡山まで行き、そこから新幹線だ。
おまけ。会津美里、「eyes」と言えば渡辺美里の1stアルバムタイトルだ。
山本邸跡近くにあったミユキ食堂。美雪ではなく美由希であったが、よしとしよう。
またまた、おまけ。帰ってから「八重の桜」のビデオを買ってしまった。
これを見てまた会津に行くんだろうな。