さるTV番組で「困る事」特集をやっていた。
新米タクシー運転手の「道を知らない」憤りから「ゴミ箱がない東京の街中」などなど。
日本に住む外国人たちは「ゴミ箱がない、日本、東京」の不便さを異口同音に語っていた。
さる自治体の御仁は「ゴミ箱は無くす方向にしている。ゴミは持ち帰っていただく。条例でゴミを拾う運動を、、、」とあたかも理路整然としているかのごとく自らの決め事を得意げに語る。
いや待てよ、「地下鉄サリン事件」以来、「テロ行為の温床撲滅」とばかりに都心の公共の場、とりわけ駅から確かに「ゴミ箱」は一斉に無くなった。
少々の不便には文句を言わない我が国民は、未だにこの不便さに我慢を続けている。
しかし「ゴミ箱撤去」は、本当に「テロ対策」なのだろうか?
テロ対策はきっかけとなった名目であって、本当は体良く「コスト削減」に転化されているのではないか。
以前お世話になった方の次男坊が「駅周辺の放置自転車対策」についてこう言ったという。
「看板を『自転車置き場』ではなくて『自転車捨て場』にしたらいい」と。
父親であるその方は「頭がいい、さすが我が息子!」とばかりにこのアイデアを絶賛していた。
しかしこの親子のやり取りを聞いて「心の中が寒々とした気持ちになった」ことも事実だ。
それはもはや人間社会の話ではないからだ。
「ゴミ箱が『あるから』モノを捨てる」「なければ捨てられない」、「だからいいだろう」これは一見合理的のように見える。
しかしポケットにゴミを入れて持ち帰っている外国人旅行客も、心ある日本人も『ゴミ箱がないから』持ち帰っているのだ。
走っている車の中から灰皿をひっくり返して路上に撒き散らしたり、買い食いしながら空き缶や紙くずを路上に捨て歩く輩には、そうした配慮など毛頭ない。
先の自治体の条例は、公共の場にゴミ箱のない不便さを甘んじて受け入れた市民に対して、「自らのゴミは持ち帰りなさい、なお不埒な輩の撒き散らしたゴミをも拾いなさい」という不合理を、ご丁寧に「条例で定めて強制するという愚挙」を強いることになる。
よくよく考えてごらんなさい。
ゴミ箱があろうがなかろうが、おかまいなしにゴミを撒き散らしたり、タバコをポイ投げしたり、テロ行為をしたりする者への取り締まりの方が優先事項であって、良識ある市民へ不便とボランティアを強いる条例は不要だ。
ついでに出てきた「ペット」問題も然り。
犬を放して散歩するような横暴な愛犬家の言動が槍玉にあげられ、これを「条例」でなんとかしようとする、
しかし「ペットを飼う資格のない者に問題がある」のであって、多くのペット愛好家は他人に迷惑をかけないよう良識を持って生活しているのだ。
私の住む近隣に大型犬のフンを持ち帰らない不埒な飼い主がいる。
それが一体誰なのかは大方目星がついているのだが、飼い主の非常識さも哀れとして、飼われている当の犬が可哀想だ。
犬に歩きながらフンを強要するような「エセ」ペット愛好家は、この愛すべき近隣から出て行って欲しい。
大多数のペット愛好家がマナーを守って暮らしているこの地には、あなたが住む、少なくともペットの散歩をして歩く資格はないのだよ。
さてTV番組の「ゴミ箱」問題解決の糸口は、「交番の脇にゴミ箱を置いたらどうだろう」提案だった。
不審なゴミは捨てないだろうし警察官の監視の目があるので捨てにくい、位の「Good Idea」なのだろう。
しかしこれも「自転車捨て場」の延長線上にある論理ではないだろうか?
不審なゴミを捨てたりポイ捨ての常習犯が、わざわざ交番の前のゴミ箱に捨てに行くはずがないからだ。
長々と書いたのは、おわかりの通り「論理のすり替えをやんなさんな」と言いたいからだ。
海外から多くの観光客がやってくる東京オリムピックを控え「ゴミ箱のない東京」はあまりにも寂しい。
ゴミ箱があっても治安が維持できる街、路上にゴミのない街、快適に暮らせる街、
その東京にオリムピックが招致されるはずではないだろうか?
「オ、モ、テ、ナ、シ」
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