『墓終い』『仏壇終い』最近はよく聞く。とくにTVで特集されている。
『1日に十件の仏壇を供養しました。』
なんて…。
柳沢さんと言う方が『先祖がいての自分たちであるから感謝は忘れないで欲しい。親戚が来ると一番に仏壇に手を合わせに行くのが日本の文化なんです。』と言われていた。
確かに『ちょっとお仏壇に参らせてください。とか手を合わしてきます。』と言いますよね。
『家を建てたら仏壇を迎える』
『家を建てたら仏様を迎える』
なんて所が減ってる。
『田舎の仏壇が大きくて困る』
『子供が私たちが居なくなったら大変やけん仏壇を棄てる。』
なんだかなあ。
田舎の仏壇が大きいということは、その家はご先祖様を大切にして家柄栄えていた。と言うことなんだから有難いことだ。
私達が死んだらって、亡くなっても何もなくなるわけでは無いんです。
死とは仏の国に帰る。と言う真言宗は思想です。そしてそこで、また修業を積むのです。
最近は『死んだら終わりなんや!』と言う『目に見える物しか信じない!』と言う方が増えている。
『仏様や神様は見ている。人は見てなくても。』と言う人も減ってるのかな。
私はCharaさんと言う歌手が好きです。そんなCharaさんが『いつから父は私の中で神になったのかな?』と書かれていた。
その感覚よくわかります。
仏壇やお墓で手を合わせて『お父さん、お祖母ちゃん、お祖父ちゃん助けてください。いい方に行くように導いてね。』
と神様に願うように手を合わせる。
それが日本の文化なのではないかなあ。
確かに今の家は小さいかもしれないけど趣味の物やさまざまな物を置く空間があるのなら仏壇を引き継ぐことはできるのでは?と思う。
大きすぎるのであれば少し小さな仏壇に換えても中の本尊さんは持ってくるとか…。
家に手を合わせる場所(空間)のある家はうまくいく。
拝むことばかりでは家庭はダメになるが、生活の中に手を合わせる空間は必要なのだと強くいいたい。
私は泊まりの時などは手を合わせる場所が無いのでお守りのようにお数珠を持ち歩いてる。
心の拠り所ですね。
今の親は直ぐに『私達大変やったから』しか言わない。
『守られていたから今がある。』と感じていない。
『私が頑張ったからだ!すべて私が築いた。』
そこに『仏様やご先祖さまがいたお陰で私は助けられた。』と言う気づきの目覚めが無いのだと思います。
終うとは終わらせる。
と言うことです。
でも肉体は滅びようとも魂(霊)は終いにはなりません。
手を合わせる事の素晴らしさを伝えたい。
何もなく幸せに過ごせてる時は無くても良いことなのかもしれないけど人生にはいろんな事があるんです。
そこを乗り越える為にお寺はあると知って欲しい。
お仏壇の無い家庭にはお札をお渡しして祀る要にしています。
そこに手を合わせて供え物をする。習慣を小さな時からつける。
すると自然に手を合わせる事の必要性を学びますし、仏様との対話ができるようになります。
ここ仏様との対話が心の平和をもたらしてくれるのです。
『じゃあ仏様(仏壇)そのままにしといて粗末になってもいいんか?』と言われる方もおられます。
それは又違いますよね。
手を合わせる事の大切さは家庭で学んでいくことです。