人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

沖縄の仏教 【26】

2017年11月25日 00時01分27秒 | 日記

  仲尾次政隆 <4>

八重山諸島石垣島に宮良節と言う民謡がある

政隆が流刑となり石垣島に居していた時に

宮良橋の建設に尽力をつくした功績を称え作られた歌であると言う

 

宮良川(めーらかーら)は石垣島最大の河川である

この河川に初めて橋が架けられたのは、1658年である

 

宮良橋は東西を結ぶ、島民にとっては重要な橋であったが

災害(主に台風)のために何度も破壊され

その度に修理や掛け替えが繰り返さてきた

 

1771年八重山地震による明和大津波によって宮良橋は破壊された

その後、橋は架けられることなく、島民は干潮時を待って歩いて渡り

満潮時には渡船を利用し、不便を余儀なくされていた

橋は90年間再建されなかった

 

1860年に百二石余りの建設費をかけて、工事が始まる

その時流刑で前栄里に居していた

政隆は私財を投じて中心的な役割を果たした

 

長さ約135メートル・幅3.6メートル・高さやく4.2メートルの

木の橋が、1861年に完成したがその翌年台風によって破壊されたが

政隆は再度私財を投じて橋を復興させた

 

人々は橋の完成を喜び

民謡、宮良節を作り、盛隆を称えた

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖縄の仏教 【25】

2017年11月20日 00時02分21秒 | 日記

 仲尾次政隆 <3>

政隆は禁教の浄土宗を布教したと言う理由で

石垣島へ終身流刑となった

 

政隆が記した、配流日記に石垣島に行く前に

座間味島に一年半ほど滞在し

1856年11月に息子と二人の共が同行して

流刑地石垣島に12月1日真泊に入港したと記されている

 

石垣島での生活は拘束もなく

妻を得て子供を儲け、船を持ち貿易・事業などに従事して

流刑人とはおもえない自由な生活をしている

 

石垣島で11年間の記録を記した配流日記に

島での出来事を詳細に記述されている

 

日記の中に島の生活で詠んだ

和歌542首、126首の琉歌が記されている

 

石垣島では、和歌・琉歌の関心は高く

政隆は島の知識人や僧侶・上級役人などとの和歌、琉歌を

通して交流を持ち人間関係を深めていった

 

仲尾次政隆は自身の資産だけを増やすことなく

以前から、王府へ台風や干ばつ(2回)や

王子らが薩摩へ行く旅費、また徳川将軍の即位に行く旅費

学校の建設費などの多額を献上し、無利息の貨与などもしている

 

中村家・政隆は信仰者として社会に貢献し還元している

仲尾次家の家譜に記述されている

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖縄の仏教 【24】

2017年11月15日 00時02分08秒 | 日記

 仲尾次政隆 <2>

中村宇兵衛は、貿易船を所有し

琉球から薩摩へ貢納米運送、貿易などで財を成した

 

中村家の三男として生まれた、政隆は勉学に努め

今帰仁の間切りの地頭・那覇総横目・那覇船改め奉行などの

要職を務め、仲尾次親雲上(ペークミー)政隆と称していた

 

また当時の士族として、高い教養を身に付けた政隆であった

歌人の宜野湾朝保から和歌を学び

書は久米村の儀間より

弓は三司官の小禄親方から

鉢は村山鍛三に学び

ほかにも人相学・医術・風水・土木・生け花

茶など学んだと言われている

 

薩摩で禁制していた、キリスト教、浄土宗を

琉球侵攻(1609年)後、支配していた

琉球においても禁制にした

 

禁教の浄土宗の一信徒であったが

本願寺から了覚と言う法名与えられ

その熱心さから布教し続けていた

 

特に遊女に布教していた、その実は大きく三百人を

超える信者が帰依し目立つようになり、拠点を自宅に移し

中山子尼講社と称する講社を結成し活動するが、王府に発覚し

 

詮議の結果、石垣島へ、無期の流刑となった

仲尾次政隆45歳の頃と言われている

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖縄の仏教 【23」

2017年11月10日 00時02分23秒 | 日記

  仲尾次盛隆 <1>

仲尾次盛隆とは、伊波譜猷の著書(1926年)

真宗沖縄開教前史―仲尾次政隆と其の背景で

仲尾次盛隆の生涯と

禁教浄土真宗の信仰に基づく実践とその活動が記されている

 

また知名定寛の琉球仏教史の研究(2008年)で

仲尾次は沖縄の浄土宗真宗にとって

極めて重要な役割を果たした人物で

沖縄仏教史の中でよく名が知られた人物として紹介している

 

仲尾次は那覇泉崎で1810年、士族の家で生まれる

仲尾次の家系は、京都の中村氏で五大前の中村孫之極にいたり

彼の孫の代に薩摩、久志浦に移住し

そこで生まれたのが仲尾次の父中村宇兵衛である

 

宇兵衛は交易船を所有して

沖縄を始め諸藩との貿易・運送に従事し

財を成し、那覇泉崎に居を構えた

 

中村宇兵衛は、久志浦に妻子がいたが、琉球においても

久米村の思加那を妻に迎え

政栄・正明・政隆・政根・政記と五人の子供を儲ける

 

中村家は代々浄土真宗を信仰していた

政隆は、正光寺の住職八木正蔵に儀式の手順など多くの教を受け

交換した複数の書簡がある、伊波も書簡の事を記述している

 

政隆は、八木正蔵の推挙により本山・本願寺から

了覚と言う法名を与えられている

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖縄の仏教 【22】

2017年11月05日 04時40分55秒 | 日記

  菊隠宗意 <5>

尚寧王一行は、将軍秀忠に謁見のため江戸に

菊隠も同行した、1610年8月28日の事である

 

そのとき薩摩藩は幕府から琉球の支配権と

奄美諸島を割譲し直轄領地として承認を得た

 

その道中摂政具志上王子が病死している

(静岡市清水区清見寺に葬られている)

 

1611年薩摩から「琉球は古来より薩摩藩の付属国である」と

記述された起請文書に、署名を要求され尚寧王と三司官は受け入れ

拒んだ三司官の一人謝名利山は斬首された

 

薩摩藩の支配は明治維新まで、二百七十年続くことになった

 

また貿易管轄権などの「掟十五条」を認めさせられ

琉球の貿易は薩摩藩が握るようになった

こうして間接支配するようになり、年貢の上納・貿易の統制

そして江戸上がりなどの義務を負うことになった

 

琉球国は対外的には独立した王国として存在するようになった

尚寧王一行は、1611年8月まで薩摩に滞在した

 

三年後に帰国した菊隠は、国難のときに対する功績により

大里間切を給地され、その地に西来院を建立し

開山祖菊隠西来和尚と称された

 

僧侶にもかかわらず、摂政同格の加判役

王子の位も与えられ、そして琉陽国師の称号も賜った

 

菊隠宗意は老いのため、三司官・諸々役職を辞し

隠居、隠居寺の料として知行高四百斛を与えられる

 

1620年8月7日に菊隠宗意は示寂した

墓は現在も西来院に現存する

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖縄の仏教 【21】

2017年11月01日 00時01分42秒 | 日記

  菊隠宗意 <4>

薩摩軍が奄美大島に到着の報告を受け

琉球国は和議を申し入れるため

 

天龍寺の以文を派遣したが、以文は恐れ

隠れて接触すらしなかった

後に勘を蒙ったと言われている

 

薩摩軍が今帰仁運天港に到着したとき

王府は再び和睦の使者として

三司官名護親方・茶人の喜案そして菊隠らを送った

 

戦禍の中をなんとか今帰仁に着き、和睦を申し入れた

交渉の結果、名護親方が人質になり

首里で和睦の交渉を行う事が決まった

 

薩摩軍は進攻し、三月二十九日読谷大湾に上陸した

軍は二手に分け本体は陸路で首里を目指した

一方の船隊は那覇港へ

 

四月一日首里に到着し、二日から講和交渉が開始された

琉球側は摂政具志頭朝盛・喜案・菊隠ら八人が列席して始まった

組織的な軍事行動は終結した

 

四日尚寧王は降伏(無条件降伏に等しかった)し首里城を下城した

五日から城内荷物御改し宝物の目録作成が行われ

十日~十三日かかった

 

五月十五日尚寧王は、薩摩へ連行され

翌年1610年尚寧王と随行者百余人(琉球側)藩主島津忠恒と共に

徳川将軍に謁見のため江戸へ向かった、そのとき菊隠も同行している

 

この戦争で薩摩側は、二百人近く戦死者・多数の負傷者が出た

琉球は戦兵・住民を含めると薩摩より数倍あったと言われているが

正確な数の記録がない

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする