人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

英祖王統【1】

2020年02月25日 00時00分20秒 | 日記

 英祖王統とは中山世鑑や中山世譜、球陽などの

琉球の歴史書に記された王統

 

英祖は浦添地域を統治していた伊祖城按司恵祖の子

英祖王統との開祖とされる

 

英祖王統は五大続いて90年統治したとある

 

英祖王の誕生は、母親が日輪を受ける夢を見て

懐妊したことから、英祖は「てだこ」太陽の子とよばれる

(現在浦添市は「てだこ」の町と愛称で呼ばれている)

 

知徳に優れていた英祖は瞬天王統三代目義本王の摂政となり

その後、義本王より王位を禅譲されたと史書にある

 

実際はクーデターだったと言う見方が近年では有力と成っている

英祖は1260年32歳の時中山王に成る

 

浦添グシクを改修、増築し、土地(田畑)を検知し

農民に土地を分配し、租税を公平などし

 

禅鑑と言う僧(国籍不明)が補陀落度海修行中に

嵐に遭い琉球に漂着した、この僧を尊び招いた

 

英祖王は禅鑑の教えに尊信、帰依し禅鑑を開基とし

浦添城の西側に極楽寺を建立し住寺させた

 

琉球由来記巻の琉球諸寺旧記序に仏教が伝来したのが

始めてとして記述されている

 

また蒙古軍が日本に2度侵攻1274年と1281年にあったが

1291年に琉球国にも侵攻があったが

英祖王が撃退したとされている

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舜天王統【3】

2020年02月20日 00時00分25秒 | 日記

 琉球の正史である中山世鑑や中山世譜、球陽などに

瞬天王統に関して生没年、統治年代、王名など

 

記載され琉球最初の王統であると記録されているが

正史以外に実在性を示す史料がほとんど無いため

伝説上の王統であると言われている

 

史書は時の政治的背景に影響され

都合よく書かれたものであるから

史実では無いと言うのが一般的な考えである

 

だが、歴史家の中には舜天が実在したとする説と

否定的に述べるもの

 

実在性を全く否定することは出来ないと

考える史家もいる

 

琉球において瞬天や為朝に関する文献は

月船寿桂の幻雲文集(1572年)や

 

曲亭馬琴の椿説弓張月(1807~1811年)

袋中良定の琉球神道記(1605年)などにある

 

そして沖縄の至る所に瞬天王統

三人の王一族の墓と拝所が存在している

 

義本王に入たっては奄美群島に2か所

沖縄本島に8か所ある

崇元寺歴代王の位牌の中に瞬天の位牌も置かれていた

 

第二尚氏四代尚清王が1543年の碑文記に

「琉球国中山王尚清(1527~1555年)は尊敦(瞬天)よりこのかた

二十一代の王の御位をつぎめしよわちへ」と明記されている

 

これらの碑や文献などから

瞬天の実在を全く否定する事が出来ないとしている

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瞬天王統【2】

2020年02月15日 00時00分47秒 | 日記

 尊敦は若いながらも知徳に優れていた

人民から推挙され浦添按司になった

 

天孫王統が琉球を統治し続けていたが

二十五代目が臣下の利勇によって毒殺された

 

利勇は自ら中山王と称した

そのため国は乱れ、民は苦しんだ

 

そこで尊敦は兵を起こし利勇軍を攻め滅ぼした

利勇は妻子と供に自ら命を絶った

 

1187年尊敦は中山王に即位し瞬天王と称した

琉球を統治し新しく法律を制定し正しい

政治を行ったとされている

 

瞬天は中山王として1237年まで統治、在位50年

 

二代目は世子の瞬馬順熈が1238年に即位したが

歴史書には業績について何も記録されていない

在位12年

 

三代目は世子の義本が、1249年に即位した

しかし統治中国内は天災や飢餓、疫病が相次ぎ

 

多くの民が苦しむ時代が続いた

義本王は自分には徳が無いからと

五十四歳の時退位し当時摂政だった英祖に禅譲した

 

瞬天王統は三代(1187~1267年)続いて

73年琉球を統治したと史書に記録されている

 

琉球の正史以外には瞬天王統に関する資料は全く残っていない

そのため実在しない伝説上の王統と言われている

 

だが歴史家によっては

全く否定できないと考える歴史家もいる

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舜天王統【1】

2020年02月10日 00時00分28秒 | 日記

 舜天とは琉球王府の正史歴代中山王系図に

初代中山王と位置づけられている

 

生没年1166~1237年、在位50年 神号尊敦

瞬天が実在したとする史料は全く残っていない

 

中山世鑑(1650年)や中山世譜(1697~1724年)によると

瞬天の父親は源為朝であると記述されている

 

保元の乱により伊豆大島へ流刑になった

為朝は島を脱出しょうとしたが嵐に遭い

 

その時、運を天に任せると祈ったところ

琉球に流れ着いた、着いた港を運天と名付けられている

 

その後為朝は大里按司の妹を妻とし子が生まれ

尊敦と名付けた、後の瞬天である

 

為朝は望郷の念に駆られ妻子と供に故郷へ出港したが

嵐に遭い、何度か試みるが嵐に遭う

 

女、子供を船に乗せると、海神が怒り遭難すると言われ

為朝は泣く泣く妻子を置いて帰ったとある

 

母親と尊敦は父親との約束、帰りを待ち続けた

ガマ(洞窟)が浦添市牧港(まきみなと)にある

 

自然の洞窟で標高約20m.ありマチミナトテラブのガマと

呼ばれ現在御願所となっている

 

港のすぐ近くにあるガマに親子住み父の帰りを

待った港を「まちみなと」と呼ばれている

 

その後、尊敦と母親は浦添に居住し

成長した尊敦は他よりも知徳に優れ

 

1180年十五歳の若さで按司(領主)と成り

浦添地域を治めた

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王統

2020年02月05日 00時00分43秒 | 日記

  王統とは

琉球の正史である中山世管鑑(1650年)や

中山世譜(1697~1724年)

 

球陽(1743~1876年)などに国の始まりと

国を統治した六つの王統が記述されている

 

天孫王統・瞬天王統・英祖王統・察度王統

尚氏第一王統・尚氏第二王統である

 

この六つの王統が国の始まりから

明治12年(1879年)4月4日の廃藩置県まで

琉球国を統治したと成っている

 

天孫王統とは、正史によると

最高神天帝が、女神アマミク(阿麻美久)に

島々を創造するように命じ

 

後の天帝は自分の子である男女を天降りさせ

二人から三男二女が誕生した

 

長男は国を治める国王の始祖

次男は地方按司(領主)の祖

三男は百姓の祖に

 

長女はノロの最高位聞得大君祖

次女は地方のノロの祖となったと記されている

 

長男は天孫氏と称した、この王統は二十五代続いて

17、802年間琉球国を統治したとある

 

歴史書には、王の姓名、統治年代などの記述が何もない

天孫王統は神話の域を出ない

 

何故か琉球の島々を創造した「アマミク」が

暮らしたとされる洞窟や墓、祠など

 

沖縄の至る処に多数存在している

また天孫氏の子孫であるとする宗家も数件ある

 

天孫氏二十五代王の時、家臣の利勇によって殺害され

利勇、自ら王位に付き中山王と称した、1186年の頃

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首里城 【4】

2020年02月01日 00時01分52秒 | 日記

 スイグシク(首里城)は伝承や史料などによると

中山王の居城として、六百年以上使用された

 

首里城は琉球国時代三度火災などで焼失している

一度目は、1543年第一王統時代

 

志魯と布里の王位争いで破壊焼失する

再建に十年以上要した

 

1660年火災により二度目、再建に十一年

 

三度目は1709年火災によって正殿、北殿、南殿など焼失し

その時薩摩藩から二万本近い原木が提供されている

 

現在視る(2019年10月31日以前)首里城は三度目の火災後の

建築された建屋を基に再建されたものである

 

1879年(明治12年)沖縄県設置により

琉球国最後の、十九代尚泰王が首里城を後にする

 

城主がいなくなった首里城は荒廃が進み崩壊状態になり

門の幾つか取り壊され正殿も取り壊しも検討されるまでに至った

しかし伊藤忠太や鎌倉芳郎、関係者の働きによって保存が決まった

 

首里城跡は沖縄神社の社殿となり、源為朝と歴代国王が祀られ

1927年から1932年に掛けて正殿の改修工事が行われた

 

第二次世界大戦中日本軍が首里城の下に地下壕を掘り

軍総司令部を置いた1945年5月25日から3日間に渡り

アメリカ軍の攻撃により27日に首里城は全て焼失した

 

戦後琉球大学が建設され多くの遺構が撤去埋められた

1958年に守礼門が再建される

1972年日本復帰に伴い首里城跡は国の史跡に指定され

城の入り口観会門と周囲の城郭などが再建される

1979年琉球大学が移転し首里城再建計画が策定され

本格的に復元が始まった

 

沖縄県民の悲願だった首里城復元は多くの人々の努力によって

1992年再建され首里城、城域も首里公園として整備せれた

2000年に世界遺産として登録された

 

2019年10月31日火災により八棟が焼損

正殿、南殿、北殿、など六棟が全焼した

首里城五度目の火災焼失である 

実に残念である

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