人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

察度王統【3】

2020年03月25日 00時00分21秒 | 日記

  察度は1350年三十歳の時中山王に即位する

その成り行きは英祖王統五代目西威王の死去に伴い

 

国の安寧を得んと、そでまで世子制で王位を継承されて来たが

臣下、諸侯は知徳ある察度を推挙し中山王に即位させた

 

当時中山王が支配していた地域は

現在の北は読谷から南は那覇、首里まで

 

その北側地域は北山王が

南側地域は南山王が支配していた

 

この三王は互いに勢力争いを展開していた

 

中山に1372年明王朝から入貢するよう迫って来た

察度はそれに応じ異母兄弟の泰期を派遣し

明国とは朝貢関係になった

 

1392年には官生(留学生)を派遣し

明国との関係を強化して行く

 

そして日本や高麗、東南アジア諸国と貿易を行い

琉球は貿易中継地として発展し

 

中山は経済、文化の中心地と成り大きな功績を残した

 

中山の勢力は、北山・南山より比べ優位になっていった

 

琉球の最古の歌謡集「おもろさうし」に

察度王の偉業が謡われ讃えられている

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

察度王統【2】

2020年03月20日 00時00分20秒 | 日記

 察度、誕生の次第はこうであった

母親は羽衣伝説の天女で

父親は奥間大親との間に誕生したと伝えられている

 

羽衣伝説

それに類似するストーリは世界各地域に存在する

日本にも数えきれないほどあり

 

近江型と言われる昇天型と

丹後型(難題型)に大きく分ける事が出来る

 

察度は近江型(昇天型)である

琉球にも、奄美群島から本島先島諸島に

十一以上在ると言われている

 

察度の誕生は現在の宜野湾市真志喜森川にある

森川公園内に、ムイヌカー(森の川)と呼ばれる

 

透明度の高い水が湧き出る、このカー(泉)で

沐浴していた天女と奥間大親と出会い一男一女が誕生した

 

この男の子が後に察度と名付けられた

 

ムイヌカーは現在御願所となっている

近くには西森御嶽があり公園一帯は神聖な場所と成っている

 

成人になった察度は当時隆盛を誇っていた

勝連按司(地方の領主)の娘を妻に娶った

 

この結婚により察度は大きな転機となる

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

察度王統【1】

2020年03月15日 00時00分23秒 | 日記

 察度とは琉球の正史である中山世鑑や中山世譜

球陽などに記されている察度王統の初代王

 

察度は1321年、浦添間切謝名村の奥間親方と天女との

間に誕生したとされている、神号大真物(うふももの)

 

察度は英祖王統五代西威王の死去に伴い

それまで世子制で王位を継承されて来たが

 

その頃、国は乱れ疲弊したしていたため

国の安寧を得んと臣下、諸侯らの推挙により

 

知徳に優れた察度が中山王に即位した

察度三十歳のときであった

 

1372年、明王朝大祖洪武帝の使者楊載が来琉して

明国に入貢するよう察度に迫った

 

察度はそれに応じて異母兄弟の泰期を遣わし

明王朝との朝貢体制関係に入った

 

その八年後南山王も1380年、北山王も1383年に朝貢した

 

察度は日本や高麗、東南アジアの国々と貿易を行い

琉球に経済的基礎と文化の発展に大きな功績を残した

 

察度王統との世子である武寧が後に二代目を継承する

この武寧が琉球国で始めて明王朝の冊封を受け

 

君臣関係体制になった

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英祖王統【4】

2020年03月10日 00時00分18秒 | 日記

 英祖王は瞬天王統三代目義本王より

1259年王位を禅譲受け

 

初代英祖王、二代大成、三代英慈、四代玉城、五代西威と

五代で90年続いた王統は1349年に滅びた

 

英祖王統は琉球の正史である

羽地朝秀著書中山世鑑 1650年

 

蔡鐸、蔡温親子の中山世譜1697~1724年に編纂

球陽(琉球国編年史)は鄭乗哲が1743~1876年に編纂

などに記されている

 

英祖王が実在したか、どうかについて

歴史家の間でも意見が異なっている

 

否定的に述べる懐疑派は琉球の歴史書は

不明な点が多く史実として適否出来ないと

 

また歴史書は時の政治的背景に影響受け

都合よく書かれたものであるから史実とは言えない

 

これに対して実在派は、英祖王は琉球最古の

「おもろさうし」(1531~1623年の間に編纂された)に謡われ

彼が造ったと伝えられている「浦添ようどれ」が現存している

 

また仏教の導入、寺の建築などあることから

実在性を全く否定する事は出来ないとしている

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英祖王統【3】

2020年03月05日 00時00分23秒 | 日記

 初代英祖王の数々の業績と盛徳によって

国は富み、国は平和に治まった英祖は1299年に他界し

 

長男大成が二代目中山王に即位し

1308年62歳で死去

 

1309年大成の次男英慈が三代目として即位

この時代までは平穏な時だった

1313年46歳で死去する

 

1313年英慈王の四男玉城が四代目として即位するが

玉城王は国政を顧みず、酒、色欲、道楽に溺れた生活

 

そのため家臣、民衆は彼から離れ

国は三つに分裂し英祖王統滅亡の一因となった

 

勢力地域は中山王として

現在の読谷、北谷、中城、那覇そして浦添地域を支配した

 

それより北側は北山王と呼ばれた今帰仁按司(領主)が支配

南側地域は南山王と呼ばれた大里按司が支配

 

その頃の琉球は争い事の絶えない戦国時代となって行く

1336年玉城王41歳で死去

 

1336年玉城王の世子西威が五代目を十歳頃即位

だが先代が崩した国威は回復することなく

 

英祖王統は滅亡へと向かう

1349年西威王は22歳で死去

 

後の跡継ぎを一部の臣下が5歳の世継ぎを

即位させようとしたが

 

多勢は、国の安寧のため世子制を廃止し

民衆から信望の厚かった察度を擁立した

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英祖王統【2】

2020年03月01日 00時02分46秒 | 日記

 英祖は瞬天王統三代目義本王から王位を禅譲さ

中山王と成り浦添グシクを改修、増築しグシクを広大なものにした

 

交易も行い、土地を検知し農民に土地を分配し

租税を公平などして国力を充実させた

 

久米島、慶良間、伊平屋、奄美群島などから

自ら入貢して来たと記されている

 

琉球国に初めて仏教を導入し最初の寺となる極楽寺建立し

自ら仏教の教えに尊信し帰依し仏教の普及に尽力した

 

1261年ウラシーユドゥリ(浦添ようどれ)

別名極楽寺陵を建造、琉球最初の王陵である、

 

ユードゥリ(夕凪)とは使者の世界を意味している

後に英祖王自身も葬られる

 

史書には英祖王の業績と盛徳

また琉球最古の歌謡集(1531~1623年)にも

英祖王が英雄として謡われている

 

英祖王は1260年32歳の時中山王に成り

約40年統治し、1299年70歳で他界したとされている

 

1299年世子大成が王位に即位する

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする