人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

沖縄の仏教 【32】

2017年12月25日 00時06分48秒 | 日記

 僧侶は修行仏学や法学を学ぶため、京都や鎌倉などので

当時の最先端の学問を学び身に付けていた

 

僧侶は高い学識があり和漢の兵書も知り

そのため国の貿易・外交官の役割を果たし

政治に関与して、王府も僧侶を重要しした

 

ところが薩摩藩が沖縄を支配し那覇に薩摩藩の

在蕃奉行所が置かれ、約二十人が在勤していた

 

薩摩と王府は直接役人が交渉を行うようになり

仏教界は政治、貿易などの国政に参加する機会を失っていく

 

そのような状況の中で僧侶は

王族の祖霊祭祀、菩提の弔い

国民の安泰の祈願などの神事、祭祀、行事などを行っていた

 

また、その頃から日本文化が入り盛んに成り

それに伴い官使の子弟への、仮名文字

漢字の読み書きなどの教育を行うようになる

 

また、官使に成るために必須であった

茶道・華道・書道など教養として教え

士族層との、深い関わりがあったため

僧侶は非常に尊敬を集めた

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沖縄の仏教 【31】

2017年12月20日 00時04分57秒 | 日記

 1609年薩摩藩が沖縄に侵攻し、その支配下に置かれた結果

浄土真宗を禁教とし、他の宗派も制限された

 

集会を開いての説法・俗家の訪問・修行・留学などの制限

寺院の新築、保修などの自由が制限された

また僧侶の活動も著しく制限された

 

薩摩藩の侵攻後、琉球国の財政は破綻した状態だった

それまでの沖縄仏教界は官寺であり官僧であった

 

寺院毎に知行高や扶持高が決められ

公費で保障された官寺制度であった

 

そのため僧侶は布教や教化に対して、熱心ではなかった

一般の信者はなく、檀家もなく、財源は王府に依存していたが

 

王府は仏教全体、官寺・官僧への支出を制限し

国家仏教でありながら、そのような状況ではなかった

 

羽地朝秀が、1666年摂政の地位につき政治改革を行う

行政機能強化・財政改革・そして聞得大君を始めとする

神女組織の簡素化・無駄を廃止して改革を行った

これらの政策は仏教も対象になって、知行高を減らされた

 

1728年祭温が三司官になり、羽地朝秀の政策を継続して

ヒキ制度の解体、トキ・ユタの禁止・祭祀、儀礼の見直し

 

寺院を王府の管理下に置き、新たに僧侶の身分制度や

装東の規定、知行高も新たに制定を行った

 

大幅に消滅された、仏教界は財政てきに困窮し

多くの寺院が廃寺となり

沖縄の仏教は加速を増して衰退していった

 

羽地・祭温の政策は仏教の衰退の一因となったと言われている

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沖縄の仏教 【30】

2017年12月15日 00時13分47秒 | 日記

  沖縄へ仏教が伝来して来たのは

英祖王(1260~1300年)の時代

禅鑑(国籍不明)と称する僧に英祖王は禅鑑の

教に尊信し帰依し開基して、極楽寺を建立住居させた

 

琉球国由来記巻の琉球諸寺旧記序に

仏教が伝来したのが始めてであるとしている

 

その後、察渡王(1350~1395年)の時、瀬重法印が来流し

波上山に護国寺を建立し真言宗を始めて伝えたとしている

 

尚泰久王(1454~1460年)の時

芥隠承虓が臨済宗を始めて伝える

 

日秀上人は(1527~1545年)沖縄に18年滞在し

熊野信仰と真言宗を広め、多数の寺院を建立

日秀の伝承と功績、石碑が残されている

 

袋中良定(1603~1606年)は3年沖縄に滞在し

桂林寺を建立し始めて浄土宗を伝えた

 

琉球神道記5巻・琉球往来記1巻を著わし

沖縄に大きな足跡を残している

 

尚泰久王時代から多くの寺院が建立され

尚真王(1477~1526年)の時代までに多くの僧侶が

来流し寺院も建立された

 

王府の庇護の元、国家仏教として

沖縄の歴史上最も仏教が栄えた時期と成ったと言われている

 

その頃の僧侶は修行・仏学のため自由に日本に往来することが出来

沖縄出身の修行僧も多数京都と鎌倉の足利学校に行へ行っている

 

また、当時の僧侶は教養があり、社会的地位も高く

貿易・外交官の役割を果たし、政治へも関与し

王府より重要視された

 

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沖縄の仏教 【29】

2017年12月10日 00時02分44秒 | 日記

 南陽紹弘

南陽紹弘は臨済宗妙心寺派の教を広く沖縄に伝えた

信仰者として実践活動して、生き仏と称された

俗に北谷長老とも呼ばれた

 

南陽紹弘は北谷玉寄席村(現北谷町)に生まれ

十三歳の頃に出家し、十九歳の時

日本に渡り幾多の寺院で修行した

 

三十五歳頃、睦奥国松島(宮城県)の瑞厳寺で

約四年仏学・修行を行い臨済宗妙心寺派の嶺南崇六より

仏法の奥義を受け継いだ

 

沖縄に帰国後建善寺(首里)の住持となるが

数年後、住職を辞して

 

故郷の北谷玉寄村に、隠棲し村人の求めに応じ

病のある人々には祈祷してあげ、求めるお札をあげ

 

また、田畑が害虫に悩んでいるとき、徐去のお札をあげ

祈ると村人の求める通りに成ったという

 

南陽は、生き仏として崇め

親しみを込めて、北谷長老と呼んだ

 

南陽紹弘は、1651年11月5日の遷化した

北谷東のむい(丘)の所に葬られている

 

毎年3月3日に墓前祭りが、村人が集って行われている

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沖縄の仏教 【28】

2017年12月05日 00時05分46秒 | 日記

  備瀬知恒とは

1854年禁制の浄土真宗を信仰し布教した事で

検挙され石垣島へ終身流刑となった仲尾次政隆の後を継いで

 

浄土真宗を信仰・布教し王府に発覚し検挙され

備瀬知恒も、石垣島へ10年の流刑となった

 

仲尾次事件から、22年後、1876年10月の事である

備瀬知恒は那覇東村の出身」で浄土宗の熱心な信者で

仲尾次の布教によって帰依したと云われている

 

仲尾次事件の時は奄美大島に滞在していたと言う

1861年頃帰郷し布教を再開した

 

中山国尼講と称する信徒達の(主に遊女)を中心に組織されていた

しかし急激に信徒が増えたことが災いし布教が発覚した

 

1877年10月に、備瀬以下300人以上が検挙され処罰された

備瀬は中心人物として、石垣島へ、10年の流刑となった

 

1877年石垣島へ送られる途中、難船し殉教した

備瀬知恒、亭年59歳であった

 

沖縄の浄土真宗は、1597年に薩摩藩によって禁制となり

激しい弾圧を受けた

 

1876年(明治9年)に禁制が廃止され、実に300年に渡り続いた

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沖縄の仏教 【27】

2017年12月01日 00時18分35秒 | 日記

  仲尾次政隆 <5>

政隆の尽力によって宮良橋は完成した

その時、島民は喜び盛隆を称え謠を作った

 

 仲尾次主(シュー)ヌウ陰(カギ)ニ ~ 仲尾次様のお陰で

 宮良(メーラ)大川(ウーガー)ヤ  ~ 宮良大川に

 宝橋カキティ            ~ 宝のような橋が出来

 見事(ミグトゥ)デムヌ       ~ 見事なようすです

 宝橋上(ウイ)カラ         ~ 宝の橋の上から

 通(カ)ユルヒトゥヤ        ~ 通う人々は

 眼眉(ミマユ)打チ張(ハ)リティ  ~ 目眉が生き生きとして

 笑(ワラ)イフクイ         ~ 笑顔に満ちている

   以下略する      

また、頌徳碑と言う石碑も建っている

 

隆盛の赦免運動を官民上げて行い、嘆願書を王府に提出され

終身流刑だったが、1865年に放免となった

 

実に11年の流刑で那覇泉崎に戻り

政隆は6年後1871年7月8日、65歳で永眠する

 

仲尾次政隆は信仰に基づく実績と活動は評価される

無期流刑の中にあっても、信仰は深められ

 

信仰者として社会実践は奇跡であると

伊波普猷は著書の中で述べている

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