人生黄昏時

 老いを心身ともに感じ

  日々の生活で思った事を記す
  

尚氏王統【5】

2020年04月25日 00時01分39秒 | 日記

 泰久(1415~1460年)は、1454年に中山王六代目に即位

泰久は尚巴志王の七男、前王の金福王の弟になる

 

泰久は王位継承順位、かなり低かったが

五代目金福王が逝去すると

 

世子である思魯が六代目王に即位するが

(明国の冊封を受けていなかった)

巴志王の六男金福王の弟、布里が異を唱え

 

王位を争い、内乱状態になり、思魯は死亡

布里は王位を継承することはなかった

 

布里の弟、巴志王の七男、泰久が

中山王六代目に即位する、1454年の事である

 

この内乱で首里城は全焼した

史書による記録では首里城最初の焼失になる

2020年10月31日の焼失は5度目

 

泰久は意外な形で王位に即位

泰久王の治世中歴史的事件が起き

 

現在でも語り継がれている

護佐丸&阿麻和利の乱である

地方按司として力のある両雄であった

 

この乱を鎮圧した業績

永楽通宝を変造し大成通宝を発行する、など

 

また泰久は仏教に帰依し多くの寺院を建立(18寺)

琉球史上最も仏教を普及、保護し厚く信仰した王である

 

特に鋳造した梵鐘は23口

その中で最も有名な万国津梁の鐘がある

 

泰久王の治世は波瀾に満ちた時代であった

泰久王は1460年逝去、四十五歳、在位七年 長男は富金橋

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尚氏王統【4】

2020年04月20日 00時00分17秒 | 日記

 尚忠(1392~1444年)は父巴志王が

北山城(今帰仁城)を攻め落とし

北山城(北部地域)の初代監守に任じられ

 

父巴志王の逝去後

琉球国中山王三代目に即位1440年の事である

 

尚忠は巴志王の次男 母親は眞鍋金 妃は勝連按司の娘

1444年に逝去五十四歳、在位五年 世子は恩達

 

尚達王の世子である、恩達(1408~1449年)が

1445年四代目に即位するも1449年逝去

在位五年だった

母親は勝連按司の娘 妃は浦添按司の娘子供無し

 

尚金福(1398~1453年)は

四代目恩達王に世継ぎがいなかったため

1450年に五代目に即位

父親は巴志王の五男、尚達王の弟になる、妃は?

 

金福王の治世の時に離島の那覇浮島を貿易港として整備し

懐機(国相)に命じ安里川から那覇港まで

約1キロに及ぶ長虹提を建設させ首里との道路を繋いだ

 

1453年逝去五十六歳、在位4年 世子は思魯

尚氏王統王位は何故か短命である

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尚氏王統【3】

2020年04月14日 23時00分24秒 | 日記

 佐敷按司按司巴志(1372~1439年)は

1421年父思紹中山王の死去に伴い世子として

 

朝貢関係にある明国に父思紹王の薨去を報告

請封し冊封を受け巴志は名実供に中山王に即位し

 

自ら尚氏を名乗った

 

巴志は、父思紹王に協力し

1429年に南部の島添大里按司を攻め滅ぼし

 

1406年には中山武寧王を攻め落とし

察度王統を滅亡させ

 

父が中山王に即位し

父の死去後、巴志は中山王に即位する

 

1416年北部地域を支配していた北山王(今帰仁城)攀安知を

自ら兵を率いて攻め滅ぼした

 

そうして1429年南山按司他魯毎を滅ぼし

巴志は琉球国を統一国家に成立させた

 

琉球国中山王尚氏王統の樹立である

 

尚巴志は中山王として浦添から首里に移り

首里を首都とし、首里城を整備、増築し居城とした

 

貿易を盛んに行い、経済的に国は栄えた

力を持った巴志王は大規模な首都建設を行う

 

安国山や那覇港整備、間切り制度の確立

農業の改革など行った

 

巴志は伊那按司一世の娘眞鍋金を妻とし八男一女を儲ける

 

三男尚忠が三代目王に、五男金福が五代目王に

七男泰久が六代目王に即位している

 

尚巴志王は1439年逝去、六十八歳、在位十八年

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尚氏王統【2】

2020年04月10日 00時00分16秒 | 日記

  思紹の系譜、父は佐銘川大主その父が屋蔵大主

思紹の祖父にあたる

 

琉球の歴史書や家譜、伊平屋島の伝承と佐敷に伝わる伝承

此れ等の伝承によると、屋蔵大主は英祖王の五男として生まれ

後に伊平屋島に移り住み

伊平屋島の実力者と成った

 

屋蔵大主の長男として誕生したのが佐銘川である

 

佐銘川は島民との間にトラブルが起き

仕方なく佐敷に逃れ住むようになったと言う

 

佐銘川は後に、大城城(ぐしく)の按司に認められ

その娘婿と成り、一男一女生まれた

 

男の子が苗代大親で、後の思紹王である

女の子は馬天のノロ(神女)となったと言われている

 

思紹は佐敷城を築城し居城とし

美里子の娘を妻とし、五男一女を得る

その長男が巴志、長女が佐敷ノロ

 

中山王思紹王は、1421年六十七歳で逝去

 

思紹王の世子である佐敷按司巴志が

中山王二代目に即位する

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尚氏王統【1】

2020年04月05日 00時00分16秒 | 日記

  尚氏王統始祖は思紹(1354~1421年)である

佐敷(現在の南城市)を拠点に勢力拡大していた

 

思紹(ししょう)は1402年に南部地域を支配していた

島添大里按司を攻め滅ぼし現在の知念、玉城まで支配した

 

4年後の1406年に中山武寧を攻め滅ぼし

武寧の逝去を、自分の父親として

 

明国に薨去したと報告し、請封し、恩紹は正式に中山王に即位した

長男の巴志を佐敷按司に任じた、巴志二十一歳の時である

 

1416年北部地域を(現在の恩納村から国頭村)

支配していた北山王(今帰仁城)攀安知を

 

巴志を総大将に任じ、攻め滅ぼし巴志の次男忠を

北山城の監守として北部地域を抑えにした

 

尚氏王統は初代恩紹から七代続いて、64年(1406~1469年)

中山王として琉球国を治めた

 

その間、沖縄本島、奄美群島や宮古、八重山諸島を制圧し

琉球国を始めて統一国家にした

 

首里と那覇を結ぶ長虹提約1キロの海中道路、龍潭池など築造した

 

明国とは朝貢関係、日本、高麗・東南アジア諸国との貿易を

行い経済や文化(宗教など)取り入れ琉球国を繁栄させた

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察度王統【4】

2020年04月01日 00時00分14秒 | 日記

  察度王統・英祖王統・瞬天王統・天孫王統は

琉球の正史である、歴史書に記されているが

 

琉球の歴史書は歴史家、研究者にとって、信頼度は低い

史書は、時の為政者の政治的背景に影響を受け

 

書かれたものであるから、史実として

全てを受け取ることが出来ないとしている

 

でも、琉球史を知るうえで第一級の資料と述べている

 

察度は明王朝との朝貢

日本や高麗、東南アジア諸国と貿易を行い

 

琉球国を交易中継地として行う事によって

経済や文化を大きく発展させた

 

この朝貢関係が明国の歴史書に

事細かく記録されているため

察度王は実在した人物としている

 

察度王は1396年死去、在位四十六年、七十五歳だった

 

察度王の世子である武寧が四十一歳の頃二代目に即位した

 

この武寧が琉球国で始めて、1402年に冊封を求めた

明王朝永楽帝は求めに応じ武寧を冊封するため使節を派遣する

 

琉球国の王が、即位する度に冊封が送られ継続される

 

琉球国最後の王第二尚氏十九代尚泰王(1866年)の冊封まで

明王朝時代には17回、清王朝時代8回460年以上に渡って

合計25回冊封使が送られた

 

冊封を受け名実共に中山王として即位した

武寧王は、史書によると、父の遺命に背き色欲を好み

 

群臣の賢か否かの見分ける事も出来ず

そのため各地域の按司たちは離反していった

 

その頃、尚恩紹、巴志親子が

佐敷グシクを拠点に勢力、拡大していた

 

尚親子が1406年に中山に攻め入り、武寧を滅ぼした

察度王統は、二代、五十五年で滅びた

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