伊佐子のPetit Diary

何についても何の素養もない伊佐子の手前勝手な言いたい放題

六道珍皇寺

2008年08月30日 | 京都の社寺と文化財
六道珍皇寺はその名の通り、六道の辻にあるお寺で、
昔は葬送の場だった。
だからその周辺はなかなか面白い。
珍皇寺自体はものすごく小さいお寺だが、
でもそこもなかなか面白い。



私の家から行くには、結局歩くしかない。

京都駅から、
東大路を通る206系統で清水道で降りると、
わりとすぐ近くだ。
だから、東大路通に近い。

でもだからと言って、
京都駅まで歩いていってバスに乗るのもなあ…(反対方向に歩くので)、
というわけで、五条通を歩いてゆく。

行ってみると、「京の夏の旅」のひとつに指定されていて、
特別公開期間であり、定期観光バスで、
団体が2つばかりごそっと来ていた。
それで狭い本堂が、
見たことがないほどぎっしりと人で混み合っている。
拝観料は600円。





解説がついていて、
京都検定で一級を取ったかのような感じのおっちゃんたちが
数人いて、解説してくれる。

珍皇寺には以前にも非公開文化財特別公開時に行ったが、
その時は学生の若いボランティアが解説していた。

だが、その人たちは言うことを暗記し、
それをただ一生懸命暗唱しているだけのようだったのに比べ、
今回のおっちゃんたちは年の功なのか、
喋るのが実にうまく、
まるで語り部のように面白く語りかけてくれる。
思わず話に惹き込まれる。


でも、話があまりにも上手いので、
絵を見るのがおろそかになってしまった。

おっちゃんの話が終わると、
皆いっせいに次の間に移動して、自分でゆっくり絵を見る暇がないのだ。

定期観光バスの団体さんは、
あんな風に解説だけを聞いて移動してゆくのだろうが、
ちゃんと頭に入っているのだろうか、と、心配になった。


おっちゃんによると、
六道珍皇寺はもとは真言宗であったが、
現在は建仁寺に属する臨済宗の寺だと言う。

これだけでかなり驚いた。
建仁寺と珍皇寺ではあまりにもテイストが違う。

おっちゃんは真言宗から臨済宗に代わった、
そのいわれをも実に上手に語ってくれたが、
どういうことだったかは、実際に珍皇寺へ行って、
解説を聞いてみてほしい。
と言っても京都の人以外ではおいそれとは行けないか。


で、お目当ての「熊野観心うんぬん図」は、やはりあった。
掛け軸で二枚(ニ幅というのか)あった。

数年前に見たのは思い違いではなかった。
私の記憶も捨てたものではない。

江戸初期のものと江戸後期のものである。
ひとつは指定文化財になっている。

おっちゃんが、あたかも、
この絵を掲げて絵解きをして諸国を巡ったという
比丘尼そのままに流暢に図の絵解きしてくれ、大満足した。
もっともっと聞きたかった。


六道珍皇寺は、これだけではなく、
閻魔大王の像や、小野篁(たかむら)の像、
本尊の薬師如来(重文)などがあり、
さらに小野篁がそこから地獄へ通ったという伝説のある井戸が、
見学者の興味津々。


とにかく、解説のおっちゃんに舌を巻いた今回の見学だった。

ある部屋の展示の前で、名前を忘れたが、
何とかいう武士の名前とその人物関係図を示して、
その人と足利義政との関係を説き、
そこから珍皇寺が、有名な応仁の乱と関連してゆく、
その歴史のダイナミックな展開を分かりやすく説明していて、
さすがだった。


それはとても込み入った話で、
おっちゃんもこの話は聞かないで良いです、
3分経ったら出て行って良いです、と話の前に念を押す。

それくらいややこしい話なのだ。
でも、そう言われたら、意地でも聞こうと思うよね。


こんなところでおっちゃんを埋もれさせておくのは勿体無い。

「熊野観心十界図」を手に、
全国行脚してその才能を日本じゅうに知らしめてはどうか。
テレビにも出て、その流暢な話で、歴史をとうとうと語る。
歴史の語り部として、今様比丘尼としてきっと評判になるはず。


本堂に展示してあった絵は、
ほかに昔の珍皇寺の境内図(迎え鐘が今とは異なる場所に描いてある)、
幽霊図(作者を確めなかった)、
地蔵菩薩を中心とした三幅対など。
あと、中興の祖の図など。

珍皇寺を始めとした「京の夏の旅」は9月15日までだ。




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絵画史料で歴史を読む

2008年08月25日 | 本・書評

最近読んだ本として、「絵画史料で歴史を読む」





なにやら堅苦しいタイトルだが、
前書きも堅苦しくて、何がなにやら、
ややこしくて良く分からない。
でも、本編は楽しく読める。
題材になっている絵巻や絵画自体が、見ていてとても楽しいのだ。


と言っても掲載されているのは文庫本だから
モノクロの小さい写真で、小さすぎて全然実感がない。

ぜひ本物か、大きな画集などで見たくなってくる。

それでも楽しいと思うのは、
「一遍聖絵」だとか、「吉備大臣入唐絵巻」などの、
絵巻のストーリーが面白いからだろう。


「吉備大臣…」のそれは、中国へ渡った吉備真備が、
現地の宮廷(?)でいじわるされたあげく、
囲碁対決で(負けたくないあまり)インチキをして碁石を飲み込み、
それを中国の官人たちが下剤を飲ませて
インチキの証拠の碁石をウ○コから探そうとする、
というストーリー展開が大笑いだ。


一番興味深いのが「熊野観心十界曼陀羅」を解説した部分で、
いろいろと面白いのだが、
私はこの実物のひとつを六道珍皇寺で見たことがあるような気がする。
もちろん博物館にでもお寺でも、
どこにでも行けばちゃんと見られるのだろうけれど。


最初にそれを見た時、
西洋の季節を現わした絵に似ていると思ったりした。

中世の、聖書の挿絵だったか、
「ベリー公のいとも華麗ななんとか」と言うタイトルの本だったと思う。
構図が良く似ているような気がした。
彩色が豊かなのと、
小さい人物が書き込んであるのとで連想したのかもしれない。


「熊野観心十界曼陀羅」、
タイトルこそ日本美術の常で、
むつかしい字が並んでいるが、内容は興味深い。

そこには人の一生と、死後の地獄の図が描かれている。

この絵は、戦国時代から江戸時代にかけて、
文字を読めない人に仏教の教えを伝えるために描かれた絵で、
比丘尼という女の人がこの絵を指し示して絵解きをしたという。

本の著者・黒田日出男は、
この比丘尼よろしく、我々に丁寧に絵解きをしてゆく。


文庫の絵では小さすぎるので、
「熊野観心十界」の本物をどうしても見たくなった。

ちょうど六道珍皇寺で夏の特別公開が行われているので、
行くことにした。

京都でも随一のマジカルなお寺だ。
「熊野観心…」を持つに相応しい。
というわけで続く



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北京オリンピック

2008年08月21日 | スポーツ・体操
北京オリンピックを見ているが、
私は何度も言うように冬期オリンピックの方が好きなので、
夏のオリンピックはあまり気が入らないのに、
なのにやっぱりテレビを見てしまう。

夏のオリンピックで一番好きなのは、
またまた前も言ったことがあるが体操だ。

アテネの時に、早朝、ビクビクしながら見て、
あの刈屋富士夫(?)の名調子、
「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ!」
に感動したくち。


どういうわけか、体操には思い入れをしてしまう。
なぜだか良く分からない。

日本の体操には悲愴な感じが付き纏うからだろうか。
きっと富田選手の求道者のような、
ストイックな表情(無表情とも言う)のせいかもしれない。


今回の北京では日本体操は連覇出来なかったが、
それでも実況アナ(誰だか知らないけど)が、
「時を超えて、そして夢を…つなぐ!」
美しい言葉で最後の富田選手の演技を飾ってくれた。
良い実況だったと思う。


体操を見ていて気分が悪いのは、
タイトルをことごとく中国が持って行くことだ。

とにかく、個人総合だったかでは、
西洋人の選手がおしなべて失敗していて、
落下したり転んだりしているのに比べ、
中国選手は殆ど何の問題もなく演技をこなす。


こう言っては何だが、
西洋選手たちの前日の食事に一杯盛ったのではないか、
とさえ思った。
あの国のすることだから、きっと○○○…(自粛)


こういう危ない話題を、
我が家ではオリンピックを見ながら平気でしている。
それくらい、中国のメダルラッシュは気分が悪い。

日本のテレビは、日本がメダルラッシュ、
と相変わらずお目出度い報道しかしないが、
新聞の、各国のメダルの数、という欄を見ると、
無茶苦茶気分が悪くなる。

ハードルを棄権した何とかという選手を、
あっぱれと思うくらいだ。
中国の、
中国選手に対するガイキチみたいな応援の凄まじさにもうんざりする。


私の母は女子マラソンを見ていて、
ラスト、
ゴールのところで2位のヌデレバと3位の中国の選手が競り合って、
中国選手がスパートしたが、
それをヌデレバがかわして2位でゴールした時、
夢中で拍手をしていた。
それくらい、我が家では中国の評判が悪い。


開会式でCGを使ったりあれこれ操作していたことがばらされたが、
かの国のことだからそれくらいのことはするだろうと驚かない。


しかし、メダルの授与式に出て来る、
案内のお姉さんたちがきれいなのは良い。

チャイナドレスをアレンジした、
チャイナを西洋風にしたような石岡暎子(?)
デザインのドレスを着て、皆背が高く、
おっぱいが大きい。

選手がどんなに長々と時間をかけて客席に挨拶していても、
はよせいオラ、と決して怒ることなく、
にこやかに笑みを絶やさない。
さすが人口の多い中国。
集めようと思ったらいくらでも美人が集まって来るのだな。



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大文字焼きと言われると腹が立つ

2008年08月18日 | 京都
大文字の送り火は、昔、私が子供のころには、
近くの学校の屋上で、毎年見た、
ということは前にも書いた事がある。

というか、去年も大文字送り火について書いた。


家から一分くらいで行ける小学校の屋上へ上がると、
大文字の5つのうち、4つが見えた。

ひとつだけ見えなかったのが何か、もう思い出せない。
情けない限りだ。

妙法のどちらかひとつが見えなかったような気がする。
あれは、妙と法、2つでひとつと数える。
それ以外は見えたのかもしれない。


しかし小学校の屋上は、のちに死亡事故があったらしく、
そのうち上がれなくなった。
それで今はテレビで中継を見るしか、
大文字を見ることが出来なくなった。


京都の人間は、
大文字を見るためにお金を払うなどという行為は邪道だと思っているから、
ホテルの送り火ディナーなどには行かない。

出町柳や鴨川の河川敷に行けばいくつか見られない事もないが、
それもわざわざバスに乗り、
バス代を払ってまで見ることはない。

そんなわけで、自分の目で大文字を見る機会が、
最近ではなくなってしまった。
いきおい、テレビでお茶を濁すことになってしまう。


去年のテレビ中継は、
NHKが出て来て全国ネットで中継した。
それはとても立派な中継で、
視聴率も良かった(京都でも視聴率が良かったのだ)。


しかし、京都では毎年、KBS京都が生中継している。
KBS京都は祇園祭も葵祭も時代祭も中継する。
いつ潰れるか心配なテレビ局だが、
頑張って地域のために祭の放送をしているのだ。


NHKの立派な全国放送に比べて、
地元局のはなかなか地味な、淡々とした放送である。

それでもNHKが1年限りであるのに、
KBSは毎年放送してくれる。
肉眼で大文字を見る機会をもうあまり得られない我々にとって、
ありがたいと言わなければならないだろう。


だが、KBS京都の生中継の段取りの悪さはどうしようもない。

今年の送り火中継の実況アナは、
杉山と言うじいさんアナだった。
角淳一と言い、杉爺と言い、
じいさんは特に生中継の時の反応が遅すぎる。

臨機応変な対応が出来ないのだ。
写っている画面と喋っていることがずれてしまう。


送り火なんか、点火するのに時間がかかり、
あとはただ火が燃えているのが延々と写っているだけなのに、
それでもずれる。
だからじいさんアナは駄目だと言うのに…。


それと、KBS京都は鳥居形を写す時、
ボークス天使の里を借りているのもむかつく。
天使の里は大文字が見えることをウリにしているのが、
むかつくのだ。


去年のNHKの放送は地元で大反響を呼び、
地元の京都人でさえ知らない風習などが紹介され、
へえ、大文字ってこんなだったのかと驚く人が続出した。

新聞にも放送に対する反響が紹介されていた。
それらは皆、NHKの放送に対するものだった。
地元の人もKBSを見ないでNHKを見たらしい。


ただ、私はNHKの生中継でひとつ、不満があった。

それは、火床にカメラが行き、
まさに点火されるその瞬間が写ったりしたことだ。

私たちにとって、大文字とは、
遠くから眺めるものだったことが、その時よく分かった。

火が点けられ、それが大の形に作られてゆく、
そのさまを間近で見ることは、
何だか大文字の神秘性をはぎ取り、
見てはならないものを白日のもとに晒すような、
不粋な行為のように思えたのだ。


大文字は、神秘的なままの方が良い。
遠くから眺め、拝むもの。
近くに寄ることは、
禁忌を犯すことに近いのではないかとさえ思った。


送り火に点火する人がいるのは分かっている。

だけど、それは老練な、
爺さんやら熟年の男が黙々とその行為を行っているのだろう、
と何の根拠もなく思っていた。

だけどNHKの放送では、若い、
ピチピチの男の子が走りまわって火を点けていたのだった。
私が昔毎年見た、
あの大文字もその時の若い男の子が点けていたのだろうか。

何となく私はそれこそ、送り火の神秘性がはぎ取られ、
幽霊の正体見たりだとか、夜目遠目傘のうち、
などという諺が思い浮かんだ。



ところで、
私は大文字という言葉を送り火の代名詞として使っている。

五山の送り火は5つあって、
大文字、妙法、舟形、左大文字、そして鳥居形だ。

それらを総称して我々は「大文字」と言っている。
京都御苑を「御所」、と大雑把に言うみたいなものだ。

対外的には「五山の送り火」と言うが、
普段そういう格式ばった言い方はせず、「大文字」と言う。
今日は大文字やな、というように。
京都人は今日は五山の送り火やな、とは決して言わない。

どこで大文字を見る?と言う時は、別に大の字だけを見るのではない。


このあたりに、大文字に対する誤解が生まれるのだと思う。

京都以外にも大文字があり、
それらは「大文字焼き」と言われているのだと言う。

山焼きという行事があるから、
奈良などはそこからそう命名されているのかもしれない。
京都以外に大文字が灯される、と知った時には私は驚愕した。
驚天動地の驚きだ。
京都オリジナルの行事だと思っていたからだ。


でも、他府県のことは詳しくはないが、
京都以外の大文字は多分、大の字だけで、
しかも京都よりも歴史ははるかに新しいのではないだろうか。

京都の大文字の起こりは分かっていないらしいが、
江戸時代初期か、江戸の前あたりからだろう。


京都以外で行われる大文字「焼き」は、
京都の送り火を、単に真似したのだと思う。

真似しておいて大文字焼きなどというネーミングにしていることを、
私はどんなに怒ってもイカリが収まらない。
そういう劣悪な真似はやめて欲しいものだ。


いや、
別にそれらが「大文字焼き」という名前で呼ばれようと全然構わないし、
そんな真似っこのちんけな、
大の字一字しかない「大文字焼き」には何の興味もこれっぽちもないが、
京都の格式があり歴史のある、れっきとした本家の送り火と、
ちんけな真似っこ大文字を混同して、
我々京都の大文字も「大文字焼き」と呼ぶのだと勘違いし、
「大文字焼き」と呼ぶのだけは勘弁して欲しい。

真似したくせに、
間違った知識を全国民に植えつけているという行為が許せないのだ。




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コーヒー

2008年08月06日 | 日常生活・つぶやき
母にコーヒーのお使いを頼まれたので、
スーパーで買って来た。

私は随分前にコーヒーを飲むのを止めた。
コーヒーが嫌いだと、ある時気がついたからだ。
コーヒーはがぶ飲みするには濃すぎる。
それ以来、コーヒーには無縁の生活をして来た。


母は朝にコーヒーを飲む。
最初にきな粉を牛乳で溶いた、謎めいた飲料を飲み、
そのあとにコーヒーを牛乳で薄めて飲む。
メーカーに好き嫌いがあるらしく、マキシムがお気に入りだ。

だから私は、
スーパーでマキシムの詰め替え用コーヒーを探した。
探しても、最近はすぐに見つからない。

何だかいろいろなメーカーからいろいろなコーヒーが出すぎていて、
普段飲まない者には何が何だか分からない。
以前には詰め替え用マキシムが沢山あったのだ。
コーヒー売り場で当惑し、しばらく呆然と突っ立っている。
何とかマキシムと書いた詰め替え用コーヒーを見つけ、
それを買った。


家へ買って帰り、母に渡すと、
母は封を切って空のコーヒー瓶に詰め替えた。

翌朝、母がコーヒーをカップに入れて飲んだ。
母が、
「このコーヒー、普通のコーヒーとちゃうな」と言う。
えっ? びっくりした。
お湯を注いでも溶けない、と言うのだ。


私はその時、
始めて自分が買って来たコーヒーの詰め替え用が、
インスタントコーヒーの詰め替え用ではなく、
フィルター式と言うのか、何というのか知らないが、
それだということに気がついたのだった。

良く見れば、袋の横に小さく、
これはインスタントコーヒーではありませんと書いてある。

私は次に、怒髪天を突くイカリにかられた。
もっと大きく書け。
紛らわしすぎる。


インスタントコーヒーはないのか。
スーパーの売り場に、
インスタントコーヒーは駆逐されてしまったのか。

ちょっと前まで、売り場では迷う間もなく、
そこにあるのはインスタントコーヒーの詰め替え用だけだった。

それが今や、インスタント用は駆逐され、
へんてこなフィルターで漉して飲む、
何と言うのかよく分からない、
インスタントでないコーヒーが幅を聞かせているのである。

どういうことだ。
それは、インスタントとどう違うのか。
家庭で飲むコーヒーなどインスタントでじゅうぶんではないか。

なぜそのような訳の分からない、
手間のかかるコーヒーが出現して来たのか。
それはよっぽど美味しくて、それを飲めば、
インスタントコーヒーなど、
てんで可笑しくて飲んでいられないと言うほどの大した味なのか。


さほど変わらないのならば、インスタントでじゅうぶんだろ。
変なものが流行るものだ。
おかげでフィルターまで買わなくてはならなくなった。

その分、ゴミも余計に出る。フィルターも、
コーヒーのカスもゴミになってしまう。
エコに反する流行だ。
インスタントの方がよっぽど簡単で手軽なのに。


ひと手間かけるだけで何となく本格的なコーヒーを飲んでいる、
という気分に浸れる、という本格指向のためか。

そんなチンケな本格指向のために、我々がいい迷惑を蒙るのだ。
いい加減にして欲しい。
母は、まだ半分以上ある、とか言って、
フィルターコーヒーをセットする度に涙目だ。
ごめんよ、母。



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