伊佐子のPetit Diary

何についても何の素養もない伊佐子の手前勝手な言いたい放題

手塚先生、締め切り過ぎてます!

2009年04月26日 | 本・書評
「手塚先生、締め切り過ぎてます!」
という新書が出ている。
集英社新書だ。
著者は福元一義という、
手塚プロで手塚マンガのチーフアシスタントをしていた人だという。



今年は手塚治虫生誕80周年だそうで、
それでBS放送でも手塚特集を組んだりしている。
で、新書業界でも80周年記念として
ひっそりとこの本が発売された。


驚いたのは文章中に所々挿入されている
カットというかイラストで、
てっきり手塚治虫の書いたカットを転用しているのだと思ったら、
本文イラストは著者(福元氏)という注意書きが…。
手塚そっくりの絵柄なのだ。
線のタッチも、手書きの文字も。
アシスタントをしていると、絵柄まで似て来るようだ。


著者はある時は編集者だったり、
アシスタントだったり、漫画家も経験したそうで、
もともと漫画家を目指していたらしい。
編集者だった時に手塚にアシスタントとして引き抜かれた。

漫画家を目指した時、
編集者として手塚氏の仕事ぶりを見ていて漫画家なんてちょろい、
と思っていたら、手塚治虫のようには仕事が出来なくて、
自分と手塚とは違うと思い知ったという。


この著者のように手塚治虫のごくそばにいた人は、
手塚治虫を尊敬していて、決して悪いことを言わないが、
福井英一への嫉妬のような、
どろどろした話はいろいろあるのではないだろうか。
手塚治虫は月日が経つごとに神格化され、
アンタッチャブルな聖人になってゆくような気もするが、
もっとどろどろした手塚も知りたいところだ。

でもこの本ではやっぱり、
という手塚ならではのエピソードが沢山書いてあって、
もっと読みたいと思った。




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家紋を探る

2009年04月23日 | 本・書評
「家紋を探る」

染色補正師という人には、
何となくものすごい悪魔的なテクニックを持った技術者
というイメージがある。

「京の名工展」
というような伝統工芸士の展覧会などに行くと、
染色補正師の展示用の作品も飾ってあるが、
染色補正の技術で布に絵を描いたりしている。
どのようなテクを用いているのか分からないくらい、
ものすごい技術である。

そんな染色補正師の人の書いた本がこれ。




今は亡き京都KBS・地方放送の「京都ちゃちゃちゃ」に
これの著者がゲスト出演していて、
家紋についてあれこれ語っていた。
その話があまりにも面白く、
その番組で紹介していた本を思わず購入した。

番組で紹介されていた、蝙蝠の家紋をはじめとして、
あまたの家紋が紹介されている。
ひとつの家紋からバリエーションが広がり、
変化してゆくさまが無類に面白い。

例えば蝶々の羽が扇に変わったり、花に変わったり、
葉っぱに変わったり…
そのアイデアの面白さ。

テレビでは彩色された紋が紹介されていたが、
それはとてもカラフルで可愛くてきれいで、
思わず声を上げたくらいだった。
家紋なんてあまり興味がなかったのに、
すっかりとりこ状態。
本人もなかなかポップでかっこいい人だった。




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都と京

2009年04月16日 | 本・書評
「都と京」という本がちょっと前に文庫本になって発売された。




この本はたしか、
「負け犬の遠吠え」というエッセイを書いた女性ライターによる、
東京と京都の、言わば比較分化論(?)のような本。
筆者は東京生まれ、東京在住。
むしろ京都の方に比重が置かれていて、
京都についてのことの方が沢山書かれている。
しかし東京について書いてあることも興味深く読んだ。


全体に示唆に富んでいる。
あの麻生圭子の駄本と比べれば、
どれだけグレードが高く溜飲が下がるかは言うまでもない。
例えば一つだけ例をあげると「はる」という、
京都独特の敬語についての記述。


京都では自分の親や子供や、犬にまで敬語を使う。
それだけでなく泥棒にまで敬語を使う、
という俗説がある。
私は自分の子供に「はる」を使うのは抵抗があってイヤだが、
でも泥棒に「はる」は使うと思う…。

泥棒があの家に入って、
根こそぎ盗んでいかはったらしい…なんていう風に。


麻生圭子は、
京都人が犬や子供にまで「はる」を使うのはおかしい、変だ、と、
上から目線で、わざわざ京都人の友達に注意までする始末。
それ、おかしいからやめた方がいい…と。

ところが「都と京」の著者酒井順子は、
京都人は犬や犯罪者にも「はる」を使い、
そして天皇陛下にも「はる」を使う
(天皇さんが京都に来たはるらしい…等)、
だとすれば、「はる」は敬語ではないのだ、と、
すぐに話が次段階へ進み、
「はる」に関する考察へスライドしてゆく。

すなわち、「はる」は自分と他者を区別する、
他者と一線を引くための言葉である、と。

京都人は、他人とは距離を置くことを常としている。

『「自分でない者は、親でも犬でも殺人犯でも上司でも「してはる」』
『(天皇のような)圧倒的な高所にいる存在でも「はる」だし、
犬にも「はる」』
そして
『相手が誰であっても「はる」によって、その高低差をフラットにする』


自分以外は誰であっても平等。
この分析になるほどと感じ入った。
これくらいの分析をしてくれれば我々京都にいる者も文句はない。

あの人がこれこれということを「したはる」、と言う時、
一見、その人を敬っているような言い方ではあるが、
丁寧に言っているだけで、
敬う気持ちはなかったりするのだ。

むしろ相手(の身分)を自分と同じ立場に引き寄せ、
それでいながら自分とは違う他者の行動として突き放す。
この京都人の、
他者との距離感が「はる」に現れているのかもしれない。
麻生圭子がいかにとんちんかんであるかが良く分かるだろう。


あと色々面白い話があった。
京都の公園には(東京に比べて)じいさんがうようよいる、とか、
京都人は
「京都の中心近くに(古くから)住んでいればいるほど偉い」
という感覚を持っていて、
少しでもそれから外れると、
自分はこれっぽちもみやこ人だと思っていないという態度をとる…など。
なかなか鋭い。
私も全くそのとおりだから。




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さくら

2009年04月14日 | 京都の桜
相変わらずへこむことも多い。
でも、期限が近づいているある失せものが出て来て、
ちょっとは運も向いて来たかもしれない…。
鬱々してばかりだと余計気が滅入るので、
4月上旬に撮った桜の写真でもアップしよう。





京都府庁の特別公開には行って来た。
中庭の枝垂桜が咲いている時に公開され、
コンサートや朗読会などが行われた。
私が行った時には、
着物を来た女の人たちが中央ホールの舞台にしずしず登場して、
源氏物語の語り聞かせをやっていた。
なかなか風流なものだ。

府庁の旧本館は四角形の真中が空いていて、
そこに桜が数本植わっている。
桜はそれだけなのだが、
旧本館の重文の素晴らしい建物と桜がマッチして、
とてもいい感じだ。
建物の廊下をぐるりと回りながら、
廊下から桜を眺める。
ルネサンス様式の建物と桜の調和を楽しむ。




建物内の装飾や調度品もいい感じ。
階段の手すりを写真に撮る。
人のいない時を見計らって咄嗟にシャッターを押すという
早業を必要とする。





そして、近所の東本願寺へも行っておく。
お東さんの前の通り、
烏丸通りの中央に桜が植わっている。
そこでお花見をしてもいいくらいだが、
ライトアップされていないし、
夜は真っ暗なので(街灯がついているが)
誰も花見する人はいない。
でも、散策している人たちはぼちぼちいる。
信号が赤の時に写真を撮れば車は入らないのに、
タイミングが合わず、どうしても余計なタクシーが入った。




御影堂門をバックに桜を撮りたかったので
無理したらこんな写真になった。
まあいいか。






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東宝公楽終了

2009年04月11日 | 日常生活・つぶやき

またへこむことが起きた。
東宝公楽という映画館がなくなった。
三条河原町東の北側、
池田屋事件石碑の近くに建っていたあそこ。
シネマコンプレックスに押されて、
単館の経営が厳しくなったからだという。




東宝公楽は、昔は大映公楽と言ったような気がする。
もともと大映の映画館だったのが、
大映が潰れて東宝の配給する
洋画のロードショー館になったのではなかったか。

映画館そのものにあまり行かなくなったので、
東宝公楽へもとんとご無沙汰だったが、
単館で頑張っているなあと思っていたので、
なくなってしまうのはものすごく残念だ。
京都でもシネコンが主流になってしまい、
それは便利なのか不便なのか。
私には不便になってしまったとしか思えない。


新京極にMOVIXというシネコン、
二条駅近くに二条何とかというシネコンの二つがあるが、
二条の方は京都の中心部から外れているので、行きにくい。
地下鉄だと乗り換え、市バスだと京都駅からしか行けない。
新京極や河原町だったら町の中心なのですぐに行けたのに。


二条のシネコンだけでしか上映しない映画もあって、
それがきわめて不便だ。
そんな時、東宝公楽では二条系の映画を上映していて、
ああ助かったと思うことが多々あった。

新聞の記事では、
配給や宣伝の部分でシネコン中心になってしまっていて、
単館では厳しかったと言う。
若い人の中にはシネコンしか知らない者がいる、
というような記事も気持ちを逆撫でする。

最近は東宝公楽どころか
映画館そのものへめっきり行かなくなったが、
それもシネコンが主流になったせいだ。

私はシネコンが大きらいだ。
気取りかえっていて気持が悪い。
一階の広間のような所にチケット売り場があり、
蝶ネクタイをした気取った売り子が指定席の券を売る。
あらかじめ全席指定で、
座席シートを示してどこそこの何番が…などと気取って言う。
ばかにすなー

映画の券というものは、入り口の横に窓があり、
窓口の向こうにお姉さんが座っていて、
学生一枚とか大人一枚とか言って買うものだ。
もぎりのお姉さんにもぎってもらい、
館内に入ると、空いている席はあるかなと眺め、
いつも自分の座る定位置に移動する、
というのが映画館の作法である。
それらをぶっ潰したシネコンは憎い。


何が気取って全席指定、総入れ替え制だ。
気に入った映画なら何度でもお尻が痛くなるまで見てもよい。
どの席で見てもよい。
自分で心地の良い席を探す。
それが楽しみの一つである。
これが映画館のあるべき姿であろう。

そのような映画館の最後の牙城であった
東宝公楽がなくなるのだ。


正確に言うと単館はまだあり、最後ではないのだが、こ
こはブンガク的修辞で、悲愴感を強調してみた。
品格のない記述なのはいつもだが。



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