伊佐子のPetit Diary

何についても何の素養もない伊佐子の手前勝手な言いたい放題

「没後100年 富岡鉄斎」展

2024年05月28日 | 展覧会・絵
もう終わってしまったが、京都国立近代美術館で開かれていた、
「没後100年 富岡鉄斎」展へ行って来た。





富岡鉄斎については名前くらいしかほとんど知らなかった。
最後の文人画家と言われているそうで、幕末に生まれ、
明治から大正にかけて京都で活躍した画家である。


文人画家といえば池大雅とか与謝蕪村が思い浮かぶ。
文人でありつつ絵画も良くした人たちだ。
墨絵が主でモブが多いという印象だ。
山水画が基本で中国の風景絵画を手本とする、から
中国の風景画を題材にすることが多い。
風景の中に人物たちを小さく配置しているのが特徴だという印象がある。


ああいう感じの絵画を描く人なのだろう、と見当をつけて
京都国立近代美術館で開かれていた、
「没後100年 富岡鉄斎」へ行って来た。

京都国立近代美術館は左京区・岡崎にある
京都市京セラ美術館の向かい側の美術館だ。




京都国立近代美術館
https://www.momak.go.jp/

https://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionarchive/2024/457.html
没後100年 富岡鉄斎
会期
2024年4月2日(火)~5月26日(日)


池大雅や蕪村は長年絵画を見て来て、
どうも良さが分からない絵師たちだったが、
それでも最近はそれなりに何となく味わえるようになって来た気がする。

雄大な中国風の風景に点描で小さく人物が描かれていて、
その人物たちに人間の慎ましい営みが感じられる。
小さいだけにどこか人物に愛嬌がある。
そんな画風を受け継いでいる画家なのかなと思い、
見に行く気になったのだ。





鉄斎が「最後の文人画家」と言われているのは、
活躍したのが明治から大正期で、
そのころは明治の文明開化で日本に西欧絵画が大量に流入し、
日本の画家たちも西欧絵画に倣って油絵を取り入れ、
洋画が盛んになった時期だからだろう。
明治維新によって西欧文明が礼賛され西欧化が推し進められた。
廃仏毀釈で寺が軽んじられたように。

明治期から大正期にかけては恐らく日本画は衰退していたのではないか?
鉄斎はにもかかわらず、日本画---先達の描く伝統の山水画に徹した。
鉄斎は文人画家として誇りを持っていたからではなかろうか。


文人とは何か。
それは書を読み、詩を良くし、画を描く。
「万巻の書を読み、万里の路を行く」

古今の書を読み精通し、また書を読むだけではなく、
旅をして見聞を広める。
それを画に活かす。
鉄斎は九州から北海道まで旅をして歩いたそうだ。
旅で見聞した膨大なスケッチも展示されていた。





鉄斎の画は詩・書・画一致、と言われるように、
彼の絵には讃と言われる書が常に書かれている。
書も画の一部なのである。
何と書いてあるのかとても読めないが、
書だけでも作品として成り立つ、そんな個性的な字である。
鉄斎自身が画に書かれている書も一緒に見てくれと言っていたという。


墨で描かれた水墨画と書はおそらく同じなのだ…(暴論)
デザインされた書(文字、漢字)は絵と言って良いし、
墨で描かれた単彩の事物は時に書のように見える。
(若冲の鶏など)
同じ筆で描かれているからそう見えるのだ。

鉄斎の描く風景や小さい人物も時に荒っぽく、
筆を走らせているように見えるが、
書を書くように画を描いているのだと思えば大いに合点が行くのだ。
分からなくても味わうことは出来る。







展示は4期に分かれていて、行った時は会期ぎりぎりだったので
メインビジュアルに使われていた「富士山図」(屏風)は見られなかった(>_<)。
スケッチというか下絵は何点か展示されていたが。
(下絵をもとに本作品を構築したのだろう)





「富士山図」の代わりに展示されていたのは「妙義山図」(屏風)という、
群馬県にある特徴的な奇岩のある風景を描いた驚くような図である。
恐らく現実にはない光景だと思う(あるはずがない(>_<))
誇張、あるいは理想図か。






富士山図屏風でも妙義山図でもそうだが、
鉄斎は絵を描く時、参考にする先人の絵があったそうだ。


富士山図の火口(お鉢)は江戸期の絵師たちの絵を参考にしたという。
妙義山図も参考にした図があった。
鉄斎の独創ではなかったということだ。
妙義山の驚くべき奇岩は先人たちに言い伝えられて来たものなのかもしれない。

鉄斎はそれをもとに新たに新しく構築しなおしたのだ。
彼の風景画は写実ではない。
日本中を旅してスケッチをしたが、
絵に描く時は見た光景そのままを描くのではなく、
いったん頭の中に蓄え、画としてアウトプットする時は、
自分の理想としての風景を描いた。

だから鉄斎の風景画は写実のように見えて、現実の風景ではない。
それは鉄斎の頭の中にある理想の風景なのだった。
一種のコラージュというべきものだろう。
あるいはこうあるべき理想というより、
鉄斎の中で再構築された架空の風景というか。





画の傍らに常に書が書かれるのも、
それも含めて一つの作品であるからだ。



鉄斎は文人画の最高峰と評価されているが、
晩年の彼は文人画という枠にとらわれず、
鉄斎という画家の自由な表現の域に達していると思われる。




その中でもモブを描いた作品もあった。
「三津浜漁市図」という軸物で漁市で働く人々を描いた図だった。
無数の人々が魚市に集まって様々に働いている。
人々の営みを描いた大らかな人間賛歌のようでもあり、
モブの人たちは文人画に共通する、どこか愛嬌のある描写であった。


絵画作品のほか、印章の膨大なコレクションも展示されていた。
文人画家らしく印章をコレクションしていたらしい。
鉄斎作品にも様々な印章が押されているが、
それも一つの作品として拘りがあったのかもしれない。



アトリエ(画室)の様子が分かる絵の具や筆、筆置き、
文房具、蔵書なども展示されていた。
京都御所近く、室町一条下ルに邸宅があったそうだ。

旅行記などもあり細かくメモしていたことが分かる。
日本画の絵の具類は保存状態がとても良く、
大事に残されて来たのだなあと思った。

総じてどの物品も今でもすぐに使えるような良い状態で、
その保存状態の良さにも驚いた。
画業に一途に打ち込んだ鉄斎の人となりが伺えるようだった。




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松尾大社展

2024年05月13日 | 展覧会・絵

京都市西京区にある松尾大社(まつのおたいしゃ)には
残念ながら今まで一度も行ったことがない。
ただ、ヤマブキの名所として記憶していた。
毎年4月~5月ころ、
松尾大社のヤマブキが見ごろだという新聞記事が美しい写真とともに載る。
それくらいと京都の西の端にあるだろうくらいしか
松尾大社に関して知らなかったのだが。
このたび京都文化博物館で「松尾大社展」が開かれていて
展示されている神像をちょっと見たくなり、招待券があったので行って来た。




京都文化博物館
https://www.bunpaku.or.jp/

特別展 松尾大社展 みやこの西の守護神
https://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/20240427-0623/

会期
2024年4月27日(土)~6月23日(日)


松尾大社は酒・醸造の神として信仰され、醸造家、
酒造会社から崇敬されているとか。
そういえばお酒の神様だと聞いたことはある。
そのためか、イヤホンガイドには京都出身の佐々木蔵之介が。。
彼の実家は二条城近くの佐々木酒造だからだ。
文化博物館の今回の展覧会トにまつわるトークイベントでは、
佐々木酒造の蔵元が登壇することからも、
佐々木酒造も今回の松尾大社展を支援?しているようだ。


ただ当然ながら松尾大社そのものへ実際に行ってから、
今回の展覧会へ行った方がより理解できただろう。
松尾大社へ行っておくべきだったとは思う。

展示は4階と3階で4階から見ていくが、
松尾大社の縁起や、
歴代将軍---室町幕府の足利尊氏や、織田信長、豊臣秀吉、
徳川将軍家からの朱印状とか、
所領を巡っての周囲とのいざこざをどうにかしてくれ(?)という
訴えとか、
文書、書状の展示がほとんどでなかなか神像が現れない。
3階へ降りてやっと最後の最後に目当ての神像群があった。
それまでが疲れた(>_<)
(・・・何せ腰痛持ちで展示を見るので…)

しかも書状類の展示が時代の順番になっておらず、
江戸時代から始まっていたりしていつの創建なのか分かりにくい。
松尾大社は平安時代以前の創建らしいが。

平安京以前、渡来氏の秦氏によって建立されたとのことだ。
祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)というらしい。





ただ、文書の展示はそれなりに面白かった。
徳川将軍家からは家康から歴代将軍の朱印状がずらりと
展示されていたのはなかなか壮観だった。
933万石を安堵するというような内容だ。
家康、秀忠、家光、綱吉、吉宗などなど
(もちろん自筆ではないが)

隣接する西芳寺と領地で揉めたりしていたこと、
近くの川(桂川?)の堤防を巡ってのいざこざ、
などが赤裸々(?)に綴られていてへえーっ、そうなのか、
歴史のある神社はいろいろあったのだなと妙に納得したり。







4階から3階に降りて、最後の一室に神像群が展示されていた。
全部で8体展示されており、うち3体が重要文化財で、
他の5体は京都府指定文化財だった。
すべて平安時代の作で、一木造りのものもあった。

木像といえば仏像がほとんどだと思われているが、
日本には神像という独自に発展したジャンルもあるのだった。


そもそも昔は神仏習合が普通であり、仏も神も同時に祀っていた。
お寺の境内に鳥居があったり、
神社に仏像があったり、それが明治以前では当たり前なのだった。
この松尾大社も同時に一切経が伝わっていたり、
神仏習合の典型例を示していた。

この神像群も仏像に負けない良い出来で、
写実性もありつつ威厳もある。
簡素な彫りではあるものの、相貌は個性的で、
驚くほど存在感があった。




特に気に入ったのは女神像(じょしんぞう)で、
ロングボブヘアの後ろ側が可愛く(;'∀')、彩色も良く残っていた。

男神の方は平安時代の衣冠装束で貴族の衣服を着用している。
平安時代の神の姿とはこのような形で表すのかと改めて感じ入った。
抽象的な仏像より写実的でモデルがいるだろうというような像だった。




展示は撮影禁止だったが、いくつかフォトスポットがあり、
そこは松尾大社が酒の神をまつるのに因んだ
月桂冠などのインスタレーションだった。
それが何ヵ所かに設置されていた。
本展ではお酒に関しては殆ど触れられていなかったので、
フォトスポットにいきなり酒樽や日本酒ラベルを集めた屏風などがあり、
ちょっと違和感を感じてしまった💦。




佐々木酒造が関係しているからかな。
フォトスポットはフォトスポットで面白かったが。。
いつかは本物の松尾大社に行かねばならないなと思った。



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「雪舟伝説」展

2024年05月03日 | 展覧会・絵
京都国立博物館で開かれている「雪舟伝説」には行きたいと思っていた。
雪舟の国宝に指定されている6点がすべて展示されているのだ。
これだけでも見たいと思うではないか。
いつものように招待券をもらったので喜んで行って来た。





京都国立博物館
https://www.kyohaku.go.jp/jp/

特別展 雪舟伝説―「画聖(カリスマ)」の誕生―
https://www.kyohaku.go.jp/jp/exhibitions/special/sesshu_2024/
会期
2024(令和6)年4月13日(土)~5月26日(日)
[主な展示替]
前期展示:2024年4月13日(土)~5月6日(月・休)
後期展示:2024年5月8日(水)~5月26日(日)

公式サイト
https://sesshu2024.exhn.jp/guide/




今回、博物館まで頑張って歩くことにした。
祇園行きの市バスは清水寺へ観光する観光客で一杯なので
恐ろしすぎてとても乗れない。
だから歩こうと。
腰の痛さは変わらないのでコルセットを締めて
何とかかんとか歩いていくことが出来た。
帰りも長い間バスを待つより歩こうと思い、
へとへとになりながらも歩いて帰った。




今回の展示は「雪舟展」ではありません!
とコピーで書いてある通り、
もちろん雪舟の絵も展示されているが、
雪舟と彼が後世に与えた影響、という感じの展示である。
むしろ後世の画家たちがどのように雪舟を学んだか、
雪舟を手本としていかに画風を吸収し継承していき、
影響を与えられていたかに重きを置かれていた。

雪舟という画家は昭和半ばの時代には、しかし
涙で鼠を描いたというエピソードが知られるだけで、
雪舟の絵画そのものはあまり評価されていなかったように思う。
そうして彼の絵を見る機会もそれほどなかった(と思う)
確かではないが…

雪舟が今日、再評価され始めたのは
赤瀬川原平(と山下裕二)の本からではなかろうか。


日本美術応援団 (ちくま文庫)


赤瀬川と山下が雪舟を取り上げて、それで脚光を浴びた、
と考えている(のだが)
それまでは昭和の時代は雪舟の名は忘れられていたというか、
古くさいイメージがあった。
もしかしてそれは自分だけかもしれないが…

この本に掲載されていた「天橋立図」を見て、
雪舟の力量に初めて気づいたと言っていい。
それまでは雪舟は名前くらいしか知らなかった。
彼の絵を見るチャンスもなかったから。




今回の「雪舟伝説」展でももちろん展示されていた。
「天橋立図」は俯瞰で眺めた図で山の上に登って見たのだろうか。
とてもリアルでいっけん現在の天橋立の案内写真と変わらないように見える。
それくらい精緻で細かく描き込んである。
そしてまず構図が美しい。
これも雪舟が中国(明)絵画に影響を受けて描かれたものだろうか。

この「天橋立図」を見て(始めは実物ではなく本の図版ではあるけれど)
雪舟に興味を持ったのだった。
(のちに京博で何度も実物を見た)




展示は3階の第1室に雪舟の作品をまとめて展示。
始めは有名な「秋冬山水図」、
思っていたより小さく小ぶりの軸装だった。
絵の真ん中にそそり立つ1本の太い線は殆どシュールと言っていいように思え、
それが衝撃的だ。
力強い描線の風景は中国絵画に倣ったものだろうが、
なぜか雪舟の画は暖か味を感じるのだった。


雪舟で一番好きなのは「慧可断臂図(えかだんぴず)」である。
慧可という僧が師の達磨大師に己が左腕を切り取り(!)、
大師に差し出し、信仰の篤さを示している図、だが、
達磨大師はそっぽを向いている。
まるで関わりたくない、というかのように。
師と弟子の緊張感あふれる瞬間が大胆な筆致で描かれている。



不気味な洞穴の描写と達磨大師の白い装束の対比、
太い灰色の線で描かれた達磨大師の装束の大胆な筆遣い、
ひと目で忘れられなくなる作品だ。
雪舟の作品中、もっとも新しく国宝に指定された作品で、
これが現代での雪舟の名声を決定づけた、と思っている。



後世に影響を与えたという点では、
長大な絵巻である「四季山水図巻(山本長巻)」がすごかった。
多分、今回初めて見る作品だ。
全長16メートルに及ぶ。
一種の絵手本らしく、
様々な山水表現を長大な絵巻にまとめてある。
中国(明)の風景を描いたもののようだが、
絵手本として見ても、また単に絵手本というより
風景の図として破綻なく山や木や海や船、家屋などが配置され、
絶妙な風景画として成立しているのだった。
筆遣いも力強かったり、墨の濃淡が鮮やかだったり見応えがあった。




これを見れば雪舟が手本として受け継がれていったのも頷ける作品であった。

狩野派の絵画における直線的なごつごつした岩や、
岩の輪郭を太く描く描写や、
痙攣的に伸びる木の枝の描写などは雪舟から来ているのかなと思われた。


雪舟は室町時代、明時代の中国にわたり、
大陸の絵画を学び日本の水墨画の礎を築いた。
雪舟の画が最も多く国宝に指定されているのは、
時代が古いからであるだろう。
自ずと後世の画家が何らかの影響を受けているのも自然なことと思う。







第2章以降は、雪舟の影響を受けた絵師たちの作品が並ぶ。
長谷川等伯、狩野探幽、から尾形光琳、伊藤若冲、曽我蕭白、
円山応挙、司馬江漢、原在中、酒井抱一まで・・・
錚々たる画家が雪舟に学び、写し、自分流に解釈した。


江戸時代には雪舟の本物を見る機会はあまりなかった。
それゆえ雪舟その人の作でないものも雪舟作とされ、
伝承されていった。

「富士三保清見寺図」という図は雪舟の真筆かは分か
らないらしく伝雪舟筆として展示されていたが、
江戸時代には雪舟作として受容されていったらしい。



日本の富士山の図はこの伝雪舟作が基本になったという。
伝雪舟筆のこの図を基にした
有名絵師たちの数々の富士山図が並べられていた。
中には狩野山雪、そして曽我蕭白の富士山図、
洋画家の司馬江漢の富士山図まであった。
それぞれの絵師がもとの伝雪舟作をもとに
自分なりの富士山図を展開していったのだ。



(曽我蕭白の富士山図:富士三保図屏風)


松尾芭蕉の「笈の小文」に日本の文化人をずらずらと並べてゆく一文があり、
そこに雪舟の名が記されているという展示もあった。
(芭蕉の「笈の小文」が展示)
尾形光琳と乾山による雪舟の画を用いた火入れまであった。

今回の展覧会は、
このように雪舟が長谷川等伯を始め狩野派などに規範とされ、
受容され、いかに雪舟が幅広く受容され、
やがて画聖として評価されてゆくかを展示で示していた。

そして雪舟を基礎としつつそれぞれの画家が
それぞれの作風を確立していったことを示すのも展示の目的だったかも。





確かに狩野派の勃興により、雪舟は画聖と認められていったのだろう。
その影響力も今回の展示で理解できた。
京博展示の意図するところも分かるが…、
まあ、でも自分としては雪舟の国宝6点を改めて
間近でまとめて見られたことが何よりの収穫だった。




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細見美術館・空間を彩る屏風展

2024年03月20日 | 展覧会・絵

左京区岡崎にある私設美術館・細見美術館で、
屏風ばかりを集めた屏風展が開かれていた。

「空間を彩る屏風・広がる大画面(ワイドスクリーン)」
というタイトルである。



細見美術館
https://www.emuseum.or.jp/

空間を彩る屛風びょうぶ―広がる大画面ワイドスクリーン―
https://www.emuseum.or.jp/exhibition/ex084/index.html
会期:2024年 2月20日(火) - 4月14日(日)
[前期] 2月20日(火) - 3月17日(日)
[後期] 3月19日(火) - 4月14日(日)



細見美術館は一階から地下へ降りてゆく独特の構造になっていて、
地下3階ほどある。(4階かも?)一室はそれほど広くない。
今回の展示はその広くない美術館においても、
思ったより展示品は少なく感じた。
しかも前期・後期で分かれているからよけい少なかったかもしれない。
全部で20点くらいだったかも。
こじんまりした展示だった。
それでも「屏風」に焦点を当てた展覧会で、楽しい企画だと思った。




屏風と言ってもいろいろあり六曲一双がスタンダードだと思うが、
他にも二曲一双とか八曲一双とか六曲一隻など、
大きさや用途によりさまざまな種類があるのだった。
大きさもさまざまで、枕元に置く小さなものから、
部屋いっぱいに広げて画題を楽しむものなど、
サイズは一定しておらず、さまざまな大きさの屏風が展示されていた。





もともとは間仕切りや風よけとして使われて来た実用品だった。
使い方は自由で、寝床の枕元に置いたり、
四方を屏風で囲んで間仕切りとして使ったり。

そこに描かれた絵は置く場所によってさまざまな画題が扱われ、
装飾的なものになっていった。
絵師たちは横長の画面に創作意欲を刺激され腕を振るったのだった。


展示は主に江戸時代の無名の作者か、作者不明の屏風が並んでおり、
それらがどのように使用されていたかも説明されていた。
平安期や室町時代にも使われていたらしいが、
実用品でもあったので消耗が激しく古い時代のものは残っていない。
江戸時代前期のものから昭和初期までのものが展示されていた。


画題として有名なのは「柳橋水車図屏風」、
「誰が袖図屏風」で1点ずつ展示されていた。


「柳橋水車図屏風」は宇治川が主題で大きな橋を屏風全体に描き、
橋の袂には水車が必ずあしらわれている。
定番の画題だった。
展示品は紙本に金地に着色され華麗なものだった。
展覧会のチラシにも使われている図だ。



「誰が袖図屏風」は部屋の片隅に置かれた衝立に、
今脱いだばかりと思われる女性の着物・装束だけが衝立に掛けられている。
人の気配はまったくないが、
着物の持ち主の残り香はあるような気がする。
着物だけが置かれた部屋が謎めいた雰囲気を醸し出しているという図だ。
この画題もよく屏風に取り上げられた。


もう一つ、「洛中洛外図屏風」も屏風絵の代表的な画題である。
狩野永徳が「洛中洛外図」を描いてから普及し、
数多くの洛中洛外図屏風が描かれた。

これなどはすでに実用品とか空間演出のためというより、
客人をもてなしたり、財力を示すものという感じになってる。

画題が豪華なので─
左隻には御所や貴族の住まい、右隻には祇園祭や清水寺、
など様式が決まって来ていた。
これも金地の華麗な雲が描かれていて豪華な作品になっていた。

ほかに洛外図屏風というのもあって、
清水寺や方広寺、三十三間堂など、東山の観光地を描いた、
洛中洛外図から派生した作品もあった。

祇園祭礼図屏風というのもあり、
これも洛中洛外図から派生したものだろう。
文字通り横長の(ワイドスクリーンの)画面に、
延々と続く祇園祭の山鉾巡行の様子が緻密に描かれていた。

祇園祭の時期には鉾町の家々では屏風祭と言って、
旧家(町家)に残る屏風を玄関に飾り、戸を開け、
道をゆく人に見せるという風習がある。
そうした風習に沿って祇園祭の屏風絵が描かれたのだろう。

洛中洛外図から派生した作品は、
洛中洛外図の影響を感じさせるものだった。



行ったのは後期だったので、
大好きな酒井抱一や神坂雪佳の作品が見られなかったのが
とても残念だった(>_<)が、
鈴木基一の作品が2つほど展示されていた。



ひとつは屏風ではなく軸装で、「花雛図」というもの。
(画像は細見のXより)
3月の節句の時に床の間に飾るものなのだろう。
菜の花と蓮華草を雄雛、女雛に見立てて立ち雛として描いていた。
床の間に飾る軸として粋な雛祭りの図だった。


もうひとつ基一の作品「白椿に藪柑子図(しろつばきにやぶこうじず)屏風」、
両者とも日本画によく見る画題だが
基一はいかにも琳派の流れを汲む画家として、
たらし込み技法で山の連なりを描いていて、絵の具の流し方が清々しかった。


展示品は少なかったが、今回の細見美術館の
屏風という調度品に絞って収集品を展示する方法はアイデアが魅力的だし、
なるほどそういうやり方もあるのだと思った。
屏風を装飾品や調度品として見てもいいし、美術作品としても眺められる。

企画次第で楽しく新鮮な展示が出来るのだと感じた。




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上村松園・松篁・淳之展

2024年03月14日 | 展覧会・絵
京都高島屋7階のグランドホールで、
上村松園・松篁・淳之の親子・孫三代の展覧会が開かれていると、
京都新聞に紹介されていたので見て来た。
高島屋なら近いからすぐ行ける。

上村松園は言わずと知れた美人画が有名な日本画家、
その息子も孫の淳之さんも文化勲章を受章していたという。
だから文化勲章 三代の系譜とタイトルがついている。

京都高島屋グランドホール
https://www.takashimaya.co.jp/kyoto/departmentstore/topics/event.html
文化勲章 三代の系譜 上村松園・松篁・淳之
■3月6日(水) → 25日(月)


親、子、孫まで三代にわたって日本画の美をそれぞれに追い求め、
その功績で文化勲章を受章した上村松園、松篁、淳之の
三人の画業を紹介する展覧会を開催いたします。
松園は、格調高い美人画で1948年に女性として初となる栄誉に輝きました。
松篁は自然を描く新たな日本画表現を追究して1984年に受章。
そして2022年、鳥の姿を通じて自然の神秘を描写し続けてきた淳之が
受章しました。
それぞれモチーフや画風は異なりますが、
描くことへの情熱や根底にある美意識が世代、
時代を超えて静かに受け継がれ、現代に繋がれています。
日本画の美を継承してきた、上村家三代の作品をご堪能ください。


---ということである。
グランドホールは意外と広く、三人合わせて約60点が展示されていた。






上村松園といえばすぐに美人画が思い浮かぶが、
美人画というより着物姿の女性美を追求した画家と言えるだろう。
女性のたおやかな姿のみならず、
着物の詳細な描写と艶やかな柄、帯の華麗な柄、
裾を引きずる着物の着こなし。
やまと絵や古典・浮世絵なども学び、
日本画の伝統技法を継ぎながら、主題は一貫していた。



昭和の時代になっても着物姿の女性を描き、
自身も死ぬまで着物で通した。
着物や帯の鮮やかな模様に美を見出したのだと思う。



絵画は写実ではない。
画家の理想、現実を超えた理想の美を具現化するものなのだ。
細い描線で丁寧に描かれた品格のある女性像には、
色彩や色使い、フォルムや構図も含めて、
絵画としての美を表現していた。

見る者に時代を超えて、主題を超えて美しいと思わせるもの。
それがあるのが松園の日本画だった。
(軸物だけでなく、額縁に入った絵もあったのが少し意外だった)




松園の息子、上村松篁は
母に絵画について教えを受けたことはまったくなかったという。

花鳥画、というより植物の描写が美しかった。
絵の具の色の美しさ、発色の鮮やかさも素晴らしかった。

3人とも絹本着色の日本画家だが、主題はまったく違う。
自分が描きたいと思ったもの、美しいと思ったもの、
美しく描きたいと思ったもの、
それを心のままに描けば、自ずと主題が定まったのだろう。


「青柿」という作品はまだ熟していない青い(緑の)柿のまわりを
様々な色の葉っぱが取り巻いている。
どれ一つとして同じ色の葉はなく、絶妙な構図のおかげで
それぞれの葉っぱがハーモニーを奏でているようだった。


同じ松篁の「芥子」という作品も、
すっくと伸びた何本もの芥子の花が空に向かって群れて描かれ
花の品格を表しているようだった。



「月夜」という空色の背景に高く伸びた植物の根元に
かわいい兎が佇んでいる絵はまるで童話のようで、
メルヘンな図にたまさかおとぎの国に誘われたようだった。


上村淳之さんは現在も京都で健在である。
最近はさすがに弱って来られたようだが、まだまだ活躍して欲しい。

調和の取れた美しい花鳥画が多く展示されていてうれしかった。
祇園祭の霰天神山の原画が展示されていたのもうれしい。

淳之さんの日本画は花鳥画ではあるものの、写実ではない。
それは自然世界の具体表現ではなく、象徴的なもので、
描かれた対象は花や鳥だが、
彼の絵画世界ではそれらが理想のユートピアを築いているようだった。
現実ではなく、見る者を暖かな世界に誘うような絵。


「花の水辺Ⅱ」もまるでメルヘンの世界のようだ。


「四季花鳥図」という日本絵画の伝統的な画題の作品も、
様々な鳥が林の中を群れ遊ぶさまはまるで楽園を表しているようだ。


淳之さんは奈良の自宅の庭に多くの鳥を飼って、写生していたそうだが、
鳥たちの目は丸くてかわいく描かれている。
どの鳥も可愛くて、写実を超えていた。

写生を極め、写実から発展して
いつしかそれが理想世界を絵画の上で表現しているのだった。




親子、孫、三世代にわたって
品格のある日本画を紡いで来た上村家の画家たち。
画風や画題はそれぞれ違うが、気品のある、
抑制のきいた日本画の神髄を描くことでは一致していた。

美しいものはいつの時代も目と心の喜びだ。
それは西欧絵画でも日本画でも何ら変わらない。
気持を揺り動かす力を持っているのだ。



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